『胎児返り』



 東京から車で2時間も来ると、山にはさまれた村のようなT市 にたどりついた。もとが村落であるせいか、地付きの人間が多く、 曰く付きの旧家が点、点、と残っている。
夜になると黒々とした家の影から、ほの白い灯りとともに、 空気に染み込んだ因習が、あふれてくるような気がする。
蛍のようにただよいながら、皮膚を焦がし、神経に入り込み、 阿片のように精神をぼんやりとさせる。幼い頃読んだ、神話の 一説が浮かんでは消え、足もとがおぼつかなくなり、一体自分 が属している世界はほんとうに信じてよいのか、それとも神話 の世界に属しているのかよくわからない、そんな気がするのだ。

 林道を少し上がると見晴らしの良い平かな土地に出る。黒炭 のような家々を一望できる。しかし眼下に広がるマチは右と左 に構えた尾根に挟まれていて、ジッと見ていると口に綿を詰め 込まれているような息苦しさを感じる。その高台に一件、どこ よりも大きな家が構えている。
 四方を漆くいの塀に囲まれていて、塀の奥に鱗のように光る 瓦が並んでいるのが見える。老婆のような庭木があちらこちら から顔を出し、不思議に重々しい陰影を作る。その様子は古ぼ けた隣家と比べてもぞっとするほどおごそかなものである。木 戸をくぐると、漆黒の髪を結った女人が薄い唇をほころばせて 手招きしてくれそうな気がする。
 しかし、塀の周りをアスファルトで舗装してあるのがいかにも 安っぽく、不釣合いで、屋敷全体の印象とそぐわないのだ。一体 ここの家主は何を思ってこのような無意味な舗装をしたのだろう。 庇のかげではっきりとは読めないが、表札にはどうやら「山科」 とある。

「山科の女は招いても産まぬ。近寄ったらば憑かれるぞ」

脈々と囁かれていた歌が耳の奥で聞える。
山科家。T市のなかでも一等古い家である。

「山科の女は招いても産まぬ」

山科家の女性は石女だと考えられていたのだろうか?真偽は定か ではないが、そう信じられていたとは言えそうである。家計図を たどると山科家の女性には生涯一人身であった者が多いのだ。
山科家も今や旧家とは名ばかりでこの屋敷と土地を持っているだ けである。が、現家主の孫である山科琴美は、その山科家の風習 に洩れず、行き遅れていた。

兄二人はすでに結婚し、東京M区のマンションに住んでいる。 両親はといえば、病院がよいに便利だと長兄とともに出て行っ たきり家に戻る気配もない。

結局東京の山間部にはほとんど起き上がれない祖父山科初男と 行き送れの琴美だけが残され、多すぎる使用人と執事が家を 切り盛りしているのであった。

「お嬢様」

執事の軽部豊彦が琴美の部屋をノックした。彼の頭は随分と寂 しい。
琴美の部屋は母屋と渡り廊下でつながった離れにある。自分の プライバシーが筒抜けになることを嫌ってわざわざ建てさせた ものなので、まだ新しく、広さも12畳ほどである。トイレと シャワーは備わっており、母屋につながる渡り廊下とは反対に 外への出入り口もある。その出入り口からガレージまでは2メ ートルもないので、例え夜中の三時に彼女のアルファロメオで 出かけようが、そのまま男を連れ込もうが誰にも気づかれない のである。

軽部のノックに琴美は「はあい」と返事をした。軽部は扉を開 けて溜息をこらえた。「お嬢様」というには失笑を買うだろう。 琴美はすでに38歳。美容には人一倍気を使っているので肌の 張りだけは、不気味なほど良いが、体全体からやはり年齢を感 じさせる。

「お休み前の飲み物をお持ちしました」
「やだ。ココアなんて太るじゃない」
「はあ」
「まあいいわ。バイバイ」

薄いマニキュアを塗った手をひらひらとふった。誰に見せるた めに塗ったんだ、それは。軽部は胃のあたりを捻じ切られるよう な感覚に襲われた。しかしそれをこらえて気弱で人の良い執事の 顔を浮かべる。

そうだ、計画はこれからなんだ。

「まだおやすみにならないんですか?」
「寝るけど…着替えないと」

琴美はスカートを指差して笑った。笑うと頬がほんのりと色づく のが愛らしい。

「着替え、見たいの?」
「ほほほ、私はお嬢様がおしめを替えている頃からお世話をしてお ります。興味はございません」
「解ってる。冗談よ。軽部は私のおじいちゃんみたいなものだも  ん」
「そうでございますか」

軽部は感覚が麻痺した老人のふりをして目を細める。
琴美は軽部を気にしない様子でぽいぽいと着替える。あっという 間にネグリジェすがたになって、ココアを一口すする。

「で、話ってなんだったの?」
「お嬢様の生活の事です」
「……また?」

大仰な動作で琴美は言う。

「いーじゃないのよ、別に。山科家らしくって。あたしは男が好き。 男もあたしを好き。でも、子供も、安定も、結婚もいらないの」
「確かにそうですねえ」
「ほらね、でしょ?お金だって困ってないんだし」

琴美はココアを一気に飲み干す。軽部はそれをじっと見ている。

「私はお嬢様を信じております」
「……ありがとう」
「きっと孝之様も」
「でも、もし彼の耳に入ったら……きっとうまくはいかない」

琴美はろれつが回らないな、と思った瞬間頭がくらっと傾いた気 がした。

「ごめん、頭がくらくら…する……。でもね、ほんと今度こそ うまく…いかないと…家にも傷がつくし……軽部にも申し訳ない し……」
「…ですからわたくし決めたんです」
「……な、に、を?」

軽部は色のない眼で微笑んだ。

「あなたにはもう死んで頂きます」

琴美は軽部のことばを認識できないまま意識を失った。

午前0時を少しまわったころ、軽部は使用人の一人、夏目陽子に 声をかけた。

「あ、お嬢様の部屋からカップを持ってきてくれないか」
「ええ、良いですよ」

夏目陽子は渡り廊下から扉を開けて部屋に入る。カーテンでしきっ た奥のベッドで琴美は寝息をたてている。陽子はカーテンを閉める とトレイにのったカップを持って部屋を出て鍵をかけた。キッチン に戻ってカップを洗っていると軽部がテレビを見ている。

「お嬢様、どうだった?」
「もう眠っていらっしゃいましたよ」
「早いねえ」
「睡眠薬じゃないんですか?ホント、起きてる時は一晩中起きてる くせに薬で眠ると昼まで起きてこないんだから…あ、すいません」
「いいよいいよ。でも、あんまり主人を悪く言っちゃいけないよ」

夏目陽子が去っていき、キッチンは静かになる。

「ではお先に、おやすみなさい」

軽部に声をかけると夏目陽子は二階へ上がっていった。
しばらく待って物音がしなくなった。軽部はキッチンを出て、中 庭の向こうの離れを見る。渡り廊下と扉、四枚の窓がよく見える。 あの奥で、琴美は眠っているのだろう。
何を思っているのか、軽部の表情が険しくなって、こぶしを握り締 めた。彼は静かに廊下を歩くと裏口から出て、ガレージの前の裏庭 を通り、離れの出入り口へ行く。鍵を開け中に入る。念のため電気 ではなく懐中電灯で照らす。そしてベッドで眠る琴美を持ち上げた。 琴美は深く眠っている。ネグリジェの間から二本の足が、だらりと 垂れた。




 翌朝はよく晴れた天気で、軽部はほっと息をついた。早朝、使用 人たちが起きだす頃に軽部は東京都新橋へ向かって車を走らせた。

 カーナビが告げる住所で車を留めた。ファミリーレストランの駐 車場である。しかし約束の男は20分待っても表れない。軽部はし だいに苛々してきた。タバコを、と思って手を止め、苦笑した。も う何十年も前にやめたのに、つい癖が出る。車外をみると、赤いス ポーツカーの運転手に向かって、インテリ気取りのいでたちの男が 声をかけている。どうやらもめているようだ。

「え?いやさあ、ほら、なんだったかなあ」
「何なんだよお前、いいから散れ」

 運転席の男は蝿でもはらうみたいに噛み付いているが、インテリ 風の男は、一向にかまわないでのらくらしている。

「いやね、待ち合わせしてたんだけどえーとなんだっけ名前」
「しらねえよ!俺じゃないからどっかいけよ!てめえ」
「君なんて名前?」
「関係ないだろ?!」
「関係なくはない。いいかい?僕は名前がわからない。君の名前も わからない。とすると君が待ち合わせの相手である可能性もあるわ けだ」
「ねえよ!俺お前と待ち合わせてねえし!」
「バカか、君は。あらゆる可能性を否定してはニュートンの物理学 も進歩しなかっただろうよ。先入観を持つなかれ。ボーイズビーア ンビシャス!可能性一。君は何らかの理由で記憶を失い、待ち合わ せをしているという事実を忘れた。可能性二。君と僕との待ち合わ せは君のあずかり知らぬところで計画された。可能性三、」

「あの」

スポーツカーの男がいたたまれなくなって軽部はドアをあけ声を掛けた。

「来栖外霧さんじゃありませんか?」

来栖と呼ばれて男は顔を上げた。そのすきにスポーツカーは逃げるよ うに走り出した。来栖は名残惜しそうに手を振っている。

「私が軽部です。お待ちしておりました。」
「ああ!軽部だ軽部。あなたが軽部さんでしたか。赤い車と聞いていた のでてっきりあいつかと思いました」

待たされたことを強調したつもりだったが、男はまったく悪びれる様子 もない。しかも、

「車は白だと申し上げましたが」
「え?そうだったかなあ」

軽部は笑いをこらえた。来栖…期待以上だった。フリーのルポライター と聞いていいかげんな人間だろうと踏んでいたが、これ以上ないバカだ。 軽部にとって今日の連れはバカならバカなほど良い。

来栖を車に乗せると軽部はエンジンをかけた。







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