出五負穣二は道路を駆け上がる白いセダンを発見すると
満面の笑みで車に手を振った。

「おーーい!おーーい!止まってくれ!」

しかし、車は速度を緩めることなく走り去った。

「はーー」

本日十五回目の溜息。穣二は、これ以上ないくらい緩ん
だネクタイをさらに緩める。顔には汗と、さえない面が
はりついている。本人に自覚はないが、そのさえなさ加
減ときたら、25歳にもかかわらず、中年、窓際族、リ
ストラ間近の中年並だ。眉の上で適当にカットされた前
髪が、なぜかヅラのごとき哀愁を漂わせてふさふさと揺
れる。

「はーーーー」

有給を目いっぱいとってはじめた失恋旅行は、気づけば
たかられ、盗まれ、一文なしの旅に変貌していた。そう、
つまり金がない。要するに足がない。ということで帰れ
ない。排気ガスと人ごみの、愛すべき東京。ガムばかり
踏む歩道すら今は懐かしい。なんといってもこの辺りは
歩道がない。あるのは延々と続くひび割れたアスファル
ト。

「僕が現代文学の主人公なら、俺の迷走は社会的迷走の
象徴なんだけどなあ」

残念ながら、彼の迷走は単なる迷走に過ぎず、何も象徴
してはいない、というかむしろ彼の無能ぶりの表れでし
かない。

と、先ほど過ぎ去った車が引き返してきたのである。し
かもバックで。これは彼を狙う暗殺者でもない限り、彼
を乗車させてくれるつもりだろう。穣二は喜び勇んで手
を振る。すると車は彼の脇でぴたりと止まった。

「あ、あの乗せていただけませんか」

運転手の老人が声を出す間も惜しんで穣二は勢い込んだ。
奥の運転席には素朴そうだが身なりのきちんとした老人。
手前の助手席には上等そうなスーツを着崩した三十前の男
が乗っている。しかし、この男は穣二に目もくれようとせ
ず、タバコの灰を窓から落としている。

「軽部さん、俺、後ろ座るよ」

男は運転手に声をかけると車から降り、後部座席へ移った。
しかしその間も一切穣二を見ない。

「あの」

穣二は不安げに運転席を覗き込む。

「君、早く乗れよ」

煙をはきながら男は後部座席から、鷹揚に言った。

車に乗り込んだ穣二は二人の男を交互に見る。想像が頭の中
を駆け巡る。
親子、ではない、親戚?それにしても奇妙だ。友達、ではな
い。恋人、なわけないし…。一番ありえそうなのが…運転手
と雇用主。しかしこの若さで…それになにかちょっと…

「あの」

老人に声をかけられて穣二は我にかえった。

「あなた様は」
「あ、あ、はい。わたくし…でごまけ穣二と申します」

後部座席から忍び笑いが聞える。穣二は聞かなかったことにし
た。

「あ、ええ出五負様、ところでどちらまで行かれたいのですか
?」
「いえ、もう、東京二十三区内に行ければどこでも」

老人はぽかんと口を開けている。

「あの、どうかしましたか?」

「いずれ着くから黙って乗っていろ」

後部座席の男が言うと、運転手は妙な顔色をして少し微笑むと、
運転に集中し始めた。

「あの、お二人のご関係は」
「人と人」
「わたくしは山科家の使用人頭でございまして、軽部豊彦と申
します。こちらは来栖とぎり様と申す方で雑誌記者の方です。
失われる民族伝承というテーマで取材をなさりたいということ
で、わたくしが迎えにあがったのです」
「なるほど。記者の方だったんですか」

どうりで妙な、と言いたかったがそこはこらえた。どうにもす
っぱ抜きで稼いでいるようなあこぎな記者とは毛色が違うよう
に感じたのだ。

「どんな記事を?」
「痴情のもつれ、できればエログロイのを少々」

あてが外れた。

「すみませんが、一度自宅に電話をしてもよろしいでしょうか。
もしお嬢様が寝ていると、ついてもすぐお話になれませんから」

軽部が二人にお伺いを立てる。

「もちろん構いません」
「はい、どうぞどうぞ」

軽部は携帯電話を取り出して自宅にかける。

「あ、ああ。軽部だよ。夏目さん?お嬢様はもう起きておられる
かな」

通る声なので受話器からの声も聞こえてくる。

「起きてますよ。さっきカーテン開けてましたから。代わりまし
ょうか?」
「いや、いいよ。お嬢様は自分のペースを乱されるのが苦手だか
ら。ところで例のは…」
「今日は、きてませんよ」
「そりゃ良かった。じゃあ、あと一時間くらいで着くから」

「では、参りましょう」

軽部は電話を切るとにっこりと微笑んだ。
それから10分ばかりすると、次第に空が重く、灰色に変わっ
てきた。

「嫌な天気ですね」

と穣二が言うと、軽部は額に汗を浮かべている。

「軽部さん?」
「……変だな」

軽部はつぶやいて、車を路肩に停めた。

「ちょっと失礼」

車から降りるとトランクを開け、なにかごそごそとやっている。
穣二は、来栖に話し掛けようか、とも思うが座席に体をあずけ
る彼の様子を見ていると、どうも躊躇してしまう。
バックミラー越しに彼の姿を眺める。整った目鼻立ち、少し色
白の額に、長めの黒髪が落ちている。口元に手を置き、遠くに
視線を這わせているその姿に穣二は内心、はっとした。しかし
すぐにそれはほんの少しの嫉妬によってかき消されてしまった。

ばたん、とトランクを閉める音がして、軽部が運転席に戻って
きた。手には地図を抱えている。

「すみません、ちょっと道が…。ああ、なんだ」

しばらく眺めると合点してすぐに地図を扉のポケットに突っ込
んだ。

「大丈夫でしたか?」
「ええ。新しい道ができたことをすっかり忘れておりました。
年をとるといけませんね」

再び車を走り出させる。

「あの、軽部さん、少しスピード出しすぎでは」

穣二が不安になって尋ねる。それもそのはず、時速は70キロを
超えている。

「いいえ、この辺りは人も通りませんで」
「で、でもねえ」

時速40キロの表示があっという間に通過する。

「いいんですよ。まあ、スピードなんてばれなければね」
「あの、僕」

実は、警察なんです、という言葉を飲み込んで穣二がはいた言葉は

「スピード狂なんで楽しいです」

自分で自分が嫌になった。なぜ、ここで毅然と警察だと言えないの
か、自分でもわからない。ろくな功績がないからか。負け夫とあだ
なされているからか。旅先でたかられるからなのか、いや、言えな
いからたかられるのだ、いや、たかられるから言えない?だんだん
卵と鶏論争が脳内で勃発してきたので穣二は溜息を一つつくとシー
トに体をあずけた。

古い町並みを抜けると道が次第に上り坂になり、上りきったところ
でもひときわ大きな屋敷の前で停車した。

「では、お二人は玄関からどうぞ。わたくしは車を車庫に入れてき
ますので」

穣二と来栖を下ろすと車は外壁に沿って屋敷の裏側へと消えた。

門をくぐる来栖につきしたがいながら、穣二は不安げに声をあげた。

「あ、あの、ここは」
「山科家」
「…いやそれは解りますけど、東京の、どこですか?」
「どこだろうね」
「え、ちょっとそんな来栖さん。困りますよ」
「君もゆっくりしていきなよ。どうせ公務員だから首にはならない
よ」
「え?」

玄関の引き戸が中からするすると開けられた。まっすぐ切りそろえ
られた黒髪の女性が頭を下げた。

「いらっしゃいませ」

どうやら、使用人らしい。顔を上げると、つり気味の大きな目が印
象的だ。えらが少し張っているのが難点だが、硬い感じの美人であ
る。

「応接室でお待ちください。今お嬢様がこちらに参ると思いますの
で」

女は二人を洋間に通すと一礼して部屋を出た。

「綺麗だね」
「や、やっぱりそう思います?」

女に見とれていた穣二は声をおさえて喜んだ。

「ああ、それに手触りもいい」
「い、いつのまに触ったんですか?羨ましいなあもう。来栖さん、
すかしてるわりにやらしいですね」
「やらしい?」
「やらしいですよ。触ったとか」
「……君は椅子にエロスを感じるのか?」

クックーと鳥が鳴いた。

「椅子?」
「俺はこの椅子が綺麗だと言ったんだけれど君は何か勘違いしてい
るね」
「い!いやいや!いい椅子ですよほんとになめらかで」
「いやらしい、ね」
「いやね?この曲線にほらここんとこにエロスを」

「失礼します」

ぎくっとして顔を上げると女が湯飲みと和菓子を盆に載せて入って
きた。穣二の言葉を聞いてかきかずか、表情は全く変わらない。

「……そちらは中国の職人に作らせた机と椅子ですよ」

ぶっきらぼうに言う女に、穣二は顔を赤くした。

「中国、ああ、この茶器もそうだね」
「ええ、旦那様のご趣味で、ここは中国的な間になさりたかったら
しくて。この丸い欄間なんてお掃除が大変で、あ、すみません」
「確かにほこりたまりそうだなあ」

穣二はもう、復活して話題に入ってくる。

「ね?やっぱりそう思います?もう、作らせるのはいいけど、それ
なら自分で掃除してもらいたいわよ。高価なものばかりだとはたき
もかけにくいしさ。」
「あ、それ解ります。あと電化製品。CDプレーヤーとかさ、ほこ
り入ったらどうしようとか」

その時だった。屋敷の奥の奥から凄まじい悲鳴が上がったのだ。

「なんです?」

来栖が立ち上がった。

「あの声はミサコ」

女の顔色が変わった。

「ミサコのあんな悲鳴…あたし聞いたこと」

聞くが早いか来栖は部屋を駆け出した。廊下を真っ直ぐ行くと、台所
と渡り廊下の間で、年かさの行った女が不安げに顔をこわばらせてい
る。来栖は女が見ている渡り廊下へと、左に曲がる。すると人がふた
り固まっている。女は腰をつき、なんとか後ずさろうとしている。
これがミサコだろうか。まだしごく若い。もう一人は老使用人、軽部
である。軽部はあわ、あわ、と口を動かしながら、離れの入り口で
立ち尽くしている。

「一体なんです?」

来栖は強い口調で言うと軽部を押しのけて、離れの中を見た。
口からひゅっと息が洩れる。

そこには、彼が今までどのような写真でも見たことがない、おぞましい
死体が転がっていた。





>next
>back
>go to novel top

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送