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 外には雨の匂いが漂っている。しかしまだ降ってはいない。少し寒かったが乾いてはいなかった。じっとりとした嫌な空気がうなじに纏わりつく。こんな日は家にいるのが一番だ。
 ある高級住宅街にあるとりわけ大きな屋敷の一室には、マリッツ・コンツェルンの若き総帥であるユーリ・R・マリッツとその妻キャロラインがいた。キャロラインの前には可愛らしく飾り立てられた小さな揺篭が1つあって、中にはキャロライン譲りの綺麗な赤毛を持った女の子が横たわっている。彼女は愛らしい笑顔を振りまきながら母親の赤毛を引っ張っている。この女の子はリアと言う名前である。外は寒く、旧式な暖炉の中ではパチパチと火が爆ぜていて、三人を暖めると同時に、よくある幸福な家庭の一場面を照らし出している。
この一家について少し説明を加えたほうがいいだろう。
マリッツ・コンツェルンとは3代続く非常に大きな財団だ。ユーリは長い真っ直ぐな黒髪と厳しいが整った顔を持っている。眼は灰色で、余りにも見た目が厳格で怖そうに見えるので、何故この男が結婚できたのかわからないと言った具合だ。お見合い結婚でもさせられたのか、それにしては細君に嫌われていないようで、失礼だが少しだけ奇妙だった。
ユーリの「R」というのはロナンの頭文字である。
ロナンと言えば、覚えている方はおられるだろうか、20年も前に没落した伯爵家の名前だ。外交官も兼ねていた両親が暗殺され、ユーリの兄であるアンリは冤罪によって死刑になった。そしてアンリの友人であったコンツェルンの現総帥であるカストル・マリッツが、孤児になって路頭に迷う羽目にしまったユーリを引き取ったのだ。しかしカストルが伯爵の名前の上に成金の苗字を重ねていいか迷った挙句、結局養子にはしなかったので、その後酷い事件があったのだが、それはもう昔の話だ。わざわざ書く必要も無いと思う。今はもう誰もその事件のことを口にしない。ただ、彼の婚約者が毒殺された、とだけでも言っておこうかと思う。
余りにも秘密なことが多すぎて飽きてきそうだ、とは言わないで欲しい。口にするのに心の痛みを感じるほど痛々しい事件だったのだ。口に出さずに皆さんにわかっていただけたらどれだけいいだろう、と思うほどなのである。

 ユーリが悶々としながら山のような書類に目を通しているとき、上品にその部屋の扉がノックされた。リアもキャロルも揃って同じ顔を扉の方に向けた。
「入れ」
ユーリがそう言うと、老年の執事が扉を静かに開けた。もう随分前からマリッツ家に使えている執事だ。禿げかけた頭にかぶさっているのは薄い銀色の白髪で、頬骨が高い所為で高貴だが険しい顔つきをしていた。
「失礼します。奥様と旦那様に面会の方がいらしていますが」
「誰だ?」ユーリが短く聞いた。
「それが、奥様の弟君とおっしゃる方で・・・」
「何?」
ユーリはポロリとペンを落とし、キャロルはリアをあやしていたガラガラを落とした。それがリアの手に直撃して、リアが大きな泣き声を上げた。
「す、すぐお通ししろ!なるべく人に見られないように・・・・・・」
執事は主人のそんな様子を見て少し奇妙に思ったが、お辞儀をして部屋を出て行った。
「何かしら・・・・・・」キャロルが泣き叫ぶリアの髪を撫でながら不安そうに言った。
「それにしてもよく捕まらなかったものだ!」ユーリが立ち上がった。
「多分スカルラッティさんが色々手配してくれたんだわ」
「悪い知らせで無いといいな・・・・・・」ユーリが暗い声で言った。
まもなく扉が開いた。執事は怪訝な顔のままで扉を支えていた。
そこには随分と体の大きい銀髪の男が立っていた。彼の瞳が紅いのはずっと泣いていたからではなくて、生まれつきの持病でそうなったのである。この大きな彼については後々話すことになるだろう。
「ナイジェル!」キャロラインが飛び上がって弟に抱きついた。
ナイジェルと呼ばれた男は姉と同じくらい力強く相手を抱きしめた。
「お久しぶりです、姉さん」
元の眼が赤いといっても、ナイジェルの眼はやっぱり泣いていた様に充血していた。
「どうしたの?貴方、亡命したのよ?帰ってきたりして、逮捕されちゃったかもしれないのよ?」
「今日はカースティンさんから書類を貰ってきたんだ」ナイジェルは暗い顔で言った。
「ルディから?」今度はユーリがナイジェルに歩み寄ってきた。あまりに動揺していたので、彼らしくもなく途中で躓いた。
「死んだのか?」
「僕があの人のところを出たときはまだ生きていました。でも空港でメッセージが届いて・・・・・・カースティンさんは今朝の二時四十三分に亡くなったそうです」
「一人でか?!スフィアは勿論いたんだろうな?」
「スフィアは死にました」ナイジェルが哀しそうに言った。
「スフィアはカースティンさんが無理を言って釈放してもらった死刑囚だったんです。僕、それを知らなくて・・・・・・」
ナイジェルの目が潤んだ。小さなキャロラインがナイジェルの背中を精一杯摩った。
「ルディは?」ユーリは急き込んで聞いた。
「僕が出てくるとき、病院に連絡しましたから・・・・・・でも多分、意識が混濁していたと思います。僕を追い出すときは酷い発作に苦しんでいましたから」
「そうか・・・・・・」ユーリがこめかみを押さえて俯いた。
「葬儀はイタリアで行われますが、飛行機が取れれば間に合うでしょう。明日の早朝からです。早朝の七時から始まります」
「何か・・・・・・何かあいつは言っていなかったか?」
「書類を1つ」ナイジェルが震える声で何とか言った。
「これです・・・・・・ほら」
ナイジェルは大きな封筒を出した。ユーリはそれを剥ぎ取るように受け取って、ほとんど茶色い封筒を破り捨てるようにして中身を取り出した。
「これは・・・・・・」ユーリの声はナイジェルのそれよりも震えていた。
「カースティンさんの手記です」ナイジェルはとうとう溜めていた涙を溢れさせた。
「僕も読みました・・・・・・そ、それは・・・・・・ッ」
「知ってるわ、ナイジェル」キャロラインの声も僅かに震えていた。
「貸してくれるかね?」ユーリが言った。「イタリアに行くまで読む」
「貴方のものだと思います」ナイジェルが、まるで震える声を誤魔化すように小さな声で言った。
生憎震えは全然隠すことができていなかった。
「多分カースティンさんは貴方のためにこれを書いたんだと思います」
ユーリは一束の書類を取り出した。ワープロで打ってあるようだった。
「ぼ、僕、執事さんに車の用意を頼んできます」ナイジェルが逃げ出すように言った。
ユーリは頷いて、キャロラインとリアを伴い、碌な身支度もせずに(ほぼ常時彼らは黒い服を着ていたからだ)部屋を出た。
 これから書くのはその書類についてだ。
ユーリ達がイタリアにつく前にそれを読み終わることができればいいのだが、恐らく心配は要らないだろう。それは酷く短く思えた。実際はそうでは無いのかもしれないが、人ひとりが一生を綴るには余りにも薄かった。
といっても、それを書いた男は僅か30歳だったのだが。
ユーリはそれを開いた。いつものように事務的な目ではなくて、珍しく酷く良く揺れる瞳だった。そんな彼の瞳に初めに飛び込んできたのは・・・・・・



「今はもう彼のものになったキャロライン、私は君を愛していた。」














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