遅れて駆けつけた穣二はみなが凝視する先を見つめた。
 それは奇妙な景色だった。
 土色のフローリングに、いやらしい藍の体が横たわっている。
実際は青い服をまとっているのだけれど、こちらに向けられた
丸いくるぶしから、ほっそりとしたふくらはぎにかけてすこし
ずつ青ざめてゆくので、裸体を青のグラデーションで塗りつぶ
したみたいに見える。左半身を床につけ、ひざを折り曲げたか
っこうをしている。胸の辺りから黒い棒のようなものが突き出
している。なぜか穣二はそれを骨のようだと思った。
 まるで、芸術の材料のように黒く塗りつぶされた骨、生命に
対する完全な否定。しかし、彼はすぐにそれが刃物の柄である
ことに気づいた。来栖が彼女に近づいて脈を取ったからである。
現実から切り取られた絵のように眺めていた穣二は急に目を覚
ました。そして自分の務めを思い出した。

「みなさん、下がって、来栖さんあなたも」

 自分は警察だ。明らかに自然死ではない彼女から人を遠ざけ
なくてはならない。

「穣二、死んでるぞ」

脈を取る手を離して来栖は言った。

「いいから下がって。警察が来るまで誰も入ってはいけない」

穣二が来栖の肩に手をかけたが、今まで呆けて見ていた使用
人の顔が一気にひきつった。

「お嬢様!」

腰をついていた若い女が後ずさりながら絶叫した。年かさの
いった女は死体に駆け寄ろうとする。穣二はあわてて止める。

「ちょ、みなさんおち、おち、落ち着いて。ああ、入っちゃ
だめですよ」
「どいて!どきなさい!お嬢様がお嬢様が!」
「だ、だめですよ」

穣二は必死でさえぎるが、押し破られそうになる。
その時、来栖の声が背後から耳に入った。

「良いじゃないか。珍しいぜ。君もみてみろよ」

来栖は遺体の髪を触り、譲二を見て笑う。その手付きとニヤ
ケタ顔にカチンときた。

「触るなと言っただろう!僕は警察だ!これ以上少しでも近
付いてみろ。貴様を引っ張るからな!」

来栖は失礼、と言うと両手を挙げ、穣二の隣まで下がった。
穣二は脈をとり、首を横に振った。もう体は冷たくなってお
り死後硬直も始まっている。手遅れだ、と思った。彼は周り
の血の痕を軽く触った。

「軽部さん。警察に電話を」

穣二は自分でも驚くほど毅然とした声を出した。若い女も、
年かさの女も、すくみあがっている。冷汗をかいていた軽部
は、はいと言い、慌てて警察へ電話をする。軽部が去ると、
来栖は穣二に耳打ちした。

「おい、この死体、何かを連想しないか?」
「?」

白い絨毯は血に濡れ、死体を囲むように紋様が描かれている。
魔的な儀式を連想させるが、譲次には何を意味するのか解ら
ない。死体の奥に半分開いたカーテンあがり、その奥の右端
には少し寝乱れたベッドがある。きれいにそろえられたスリッ
パがベッドの足もとに置いてある。壁の左側には二枚大きな
窓があり、奥の方はカーテンが開いていて日の光が入る。ベ
ッドは白く浮き上がっている。ベッドの左脇に正方形のテー
ブルがあるが、上には何も載っていない。
穣二は再び視線を死体に戻す。膝を折り、背中を曲げ頭を腹
へ付けているこの形は見覚えがあった。

「胎児?」

穣二がつぶやいた。

「そう。そして」

来栖は遺体の背中辺りを指した。

 山科の女ハ招イテモ産マヌ。

赤い文字で書かれている。

「なんだ!?これは!」

穣二は脅えているのを隠すようにわざと大きな声を出した。
猟気殺人、という言葉が彼の脳裏でひらめいた。「イヤだ」
彼は咄嗟にそう思った。そこは彼には未知の領域だ。

「山科の女は招いても産まぬ…」

来栖が言った瞬間、茶を出した目の大きな女、夏目陽子がさ
っと軽部に目配せをした。

「キチヤ」

彼女の呟きを穣二は聞き逃さなかった。

「なんです?」
「あの・・・でも」
「でも?」
「いえ、あの」

先ほどまで腰を抜かしていた使用人春日ミサコが口ごもる夏
目洋子に言葉をなげつける。さっきは随分儚げに見えたが立
って口を開くと勝気な印象に変わる。ウェーブがかかった栗
色の髪が、首を動かすたびに大きく揺れる。

「いいじゃん?別に。みんな知ってんだし」
「でも」

洋子はを軽部を気にして顔色をうかがう。

「みんな知ってるっしょ?ね、登志さんも」

ミサコに言われて少し老けた使用人がはぁ、と答える。

「でも彼らはご存知ないことだし」
「だから早く言いなよ、どーせ本当じゃないんだから。黙っ
てると逆におかしいよ。」
「洋子さん。話してください」

ようやく軽部が口を開き、それなら、と夏目洋子は話だした。
彼女が言うにはこうである。
 十数年前お嬢様、つまり山科琴美には恋人がいた。まだ十
代だった彼女はそれを秘密にしていたが、誰もが恋人の存在
には感づいていた。とはいってもどこの何という男かは誰も
知らなかった。しかしある日その男は忽然と姿を消してしま
った。恋人の存在に薄々気付いていた家族は男が消えたこと
に心から安堵した。琴美もしばらくすると痛手から立ち直り、
女子大学に通うようになり、卒業するころ新たに恋人ができ
た。
 ところが付き合って一月もたたないころその恋人は君には裏
切られた、と言って琴美に別れを言い渡した。彼女は何度も恋
人を問いただしたが、男はもう君を信じられない、というだけ
で、それっきりになってしまった。
 それから数ヵ月後、親戚の紹介で、琴美は市会議員の息子と
知り合い、付き合い始めた。しかしそれも二週間とたたないう
ちにだめになってしまった。男を家に呼び出して一体何がいけ
ないの、他に好きな女がいるんでしょう、と彼女が問い詰める
と男は激昂して、よくそんなことがいえたものだ、僕を裏切っ
ておいてと叫んだ。裏切るって何よ、私が何をしたっていうの
よ、と彼女も叫ぶと男は一枚の封書を取り出し、じゃあ、これ
はなんだ、ここに何もかも書いてある、お前はヒドイ淫乱だ、
このキチヤって男とどんな遊びをしているのかは知らないが、
僕を巻き込むのはやめてくれ、金輪際顔も見たくない、とその
封書を彼女に押し付けて帰ってしまった。その封書の中には、
彼女はキチヤを始めとして様々な男と関係を持っているという
内容が、こと細かに記してあった。彼女はその封書を誰にも見
せずにおこうと思ったが、議員の息子とのやりとりを家族に聞
かれていたので、母に取り上げられて読まれてしまった。小さ
な家のことなので、詳細はいざしらず、おおよそは使用人もみ
んな知ることとなってしまった。
 母親は彼女と座敷で真相がなんなのか問いただしたが、彼女
は絶対にそんなことはしていない、と誓った。しかし記述には
彼女の肉体的な特徴が色々と細かく書かれていて、風呂に一緒
に入ったことがある母にはそれが本当だとわかるので、尚更封
書の記述が本当ではないかと怪しんだ。正座をさせられたまま
何時間も詰問されて、とうとう琴美は、以前付き合っていた男
がキチヤという名で、肉体関係を持ったことがある、だから彼
ならこんな出鱈目も書けるに違いないと泣きながら言った。で
も今は誰ともつきあっていないし、キチヤともあれっきり逢っ
ていないし居場所も知らない、自分は本当に死んだものと思っ
ていた、と語るので、母親はそれを信じた。
 しかし、琴美に新たな恋人ができるとキチヤからの手紙は止
まる事なく送りつけられた。山科の家にも届くようになり、し
だいに琴美はおいつめられ、不眠症におちいった。「こんな手
紙信じない」という男もあったが、執拗にとどく手紙を信じな
くとも、そんな気の触れた男につき纏われている女を引き受け
ることそのものを嫌になるのだった。琴美はもう、結婚をあき
らめようとしたが、26を過ぎたころから近所のひとびとが彼
女を放っておかなかった。次々と持ち寄られる見合いをすべて
断るわけにもゆかず、時々は会ってみるのだが、うまくいきか
けるとやはりキチヤからの手紙が届くのだ。彼女の「噂」は近
所から一人歩きをし、とんでもない女が山科の家の一人娘だか
ら、近づかんほうが良いと囁かれ、誰も見合い話を持ってこな
くなった。そうこうしているうちに、38歳になってしまった
のだ。彼女自身は資産家のお嬢様であるし、古くからの漆器問
屋で今は東京や各地の料亭に卸売りをしているT漆器問屋で事
務員をしていたのでお金には困っていなかったがいつまでもひ
とり身でいることが「噂」を証明しているようで、心苦しく、
不眠症は改善されないし、両親はM区へ行ってしまうし、妙に
明るいのだが、どこか影が消えないのだった。
 そんな日々が続いていたが、食器の輸出入の会社に勤める水
野孝之という男とT漆器問屋との縁で知り合うようになり、彼
女は本気で恋におちた。しかしそれは甘く溶けるような恋では
なく、T市の人でなく45歳で子持ちのやもめぐらしの男なら
ばもしかしたら結婚もできるかもしれないという、現実的な恋
であった。彼の現実を受け止めて尚好意を寄せる琴美を男も結
婚の相手として考えるようになった。だが彼女は不安だった。
そして不安は的中し、キチヤからの手紙が山科家に届いた。琴
美の不眠症は悪化した。しかし水野孝之にはまだ届いていない
ようだった。そして、彼女は殺されたのだった。

「なるほどね」
メモを取りながら穣二はうなずいた。夏目陽子、春日ミサコ、
老使用人の秋山房枝、軽部豊彦、来栖外霧そして出五負穣二
の五人は離れを出て、応接間の隣の和室で話をした。警察はま
だ来ない。

「でも、なんで夏目さんは死体を見てキチヤとおっしゃったん
ですか?」

「あの、背中にあったフレーズ」
「山科の女は招いても産まぬ」
「そう、それがキチヤからの手紙にはいつも書かれていたんで
す。それで…つい」
「そのフレーズってこの辺の伝承ですよね」

来栖が口を開いた。

「そうなんですか?」

夏目と穣二が同時に言う。

「そうそう。やあま〜しなの、女はまねいてもお〜うまぬ近寄
ったらば憑かれるぞ〜春は桜のお召し物〜さあ、戸は閉めたか
〜窓は閉めたか〜それでも駄目なら縛って閉じ込めろ〜」

来栖が節をつけて歌う。

「と、まあこんな感じで、閉じ込めろ〜のところで鬼が追い
かけるっていう遊びみたいですよ。歌も4パターンはあって、
春、夏、秋、冬、と変わるんだけど、まあだいたい同じですね。
『やあま〜しなの、女は』の後が『添わぬ』とか『焚かぬ』と
か色々あるみたいですけど」
「よくご存知なんですね」

夏目陽子が感心している。

「でしょ?僕頭良いんですよ。今日はこの伝承の調査に来たん
ですけど、こんな事件に巻き込まれるなんて、今日の予定がみ
んなパーですよ。ま、でも安心してください。僕が全部事件は
解決してあげますから。じゃ、まずアリバイからいきますか。
今日は何をされて過ごしていたんですか?」

来栖が茶をすすりながら言った。全員あきれて黙っている。

「来栖さん、そんなこと警察の方がするんじゃ…」
「なに言ってるんですか、ここに天下の国家権力がいるんだか
ら今からやりゃあいいんですよ」

え?俺?と穣二は驚いて自分を指した。

「死亡推定時刻は何時ごろかな?出五負刑事」
「…え??…あの」

「でごまけ…」と呟いて夏目陽子がクスっと笑った。穣二は冷
や汗が出るのを感じた。
しかもアリバイの確認?硬直具合で死亡推定時刻の検討はつい
ていたが、そんなことを自分で判断したことはない。まごつい
ていると来栖があっけらかんとした調子で

「おい、穣二、さっき調べていたくせに、隠すなよ水臭い」

と言う。彼が戸惑っていることなど気づいてもいないようだ。
しかし、警察ならわかってあたりまえ、とする態度につい、自
信もないのに偉そうに答えてしまった。

「だ、だいたい一時間前ってとこでしょう。誤差を考えると、
遺体を発見したのが11時半だから今朝の9時から11時って
ところかな」

一同から感嘆の溜息が洩れる。

「やっぱり、俺の思ったとおりだよ」

と言った来栖は白い目で見られていることに気づかない様子で

「じゃあ、みなさんその時間どこにいらっしゃいましたか?
まず夏目陽子さん」

と質問を始めるのだった。







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