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 小さい頃はよく母親に殴られた。
何故かは覚えていない。その頃の記憶はほとんど靄のような物に覆い隠されてしまって、今の自分には全く思い出せないのだ。そういう事実があったということは、自分の体中にうっすらと残る殴られたような痕だけしか証拠にならず、それすら母親にやられたものかどうかをはっきりと語ってはくれない。母親自身も、自分を昔痕が残るほど酷く殴ったことは決して認めないのだ。
それなら何故自分が母親に殴られたことを覚えているか?それは一風変わった夢をしょっちゅう見るからである。今でも暮らしている古ぼけた家の寝室で、酒浸りで酔っ払った醜い母親が灰皿を投げつけてくる夢だ。
だが、そういうことの起こったという証拠は今この世の何処を探してもないのだ。
今はどうか?
今は決して母親は自分を殴らない。
何故?
それは―――――


 シエルは薄い瞼の向こうから、淡い光が差し込むのを感じて、折れそうな程細い片腕を気だるげに上げて目を覆った。
嫌な夢を見た。いつもの夢だ。母親に殴られて血だらけになる夢。
もう思い出せないほど昔から同じ夢ばかり見るが、毎晩では無いだけいいのだろうか。この夢を見る日は眠れない。見ない日は眠らない。だから毎晩では無い。
随分と晴れた朝だ。眩しいことこの上ない。
外で雀が鳴いているのが聞こえる。身体を上げると裸の胸から白いリネンのシーツが滑り落ちて、シーツよりももっと白い体がむき出しになった。朝日に透けるような金髪がサラサラと流れ落ちて、僅かにへこんだ枕から離れる。海よりも青く冬の夜空よりも暗いシエルの碧眼が細められた。
しなやかな腕に乗るのは、中年の女の頭。
(そうだ、そういえば昨日も彼女と寝たんだっけな)
シエルといえども一応は16の青少年だ。自分が一体何をしていたのか位は知っている。彼女が先にシャワーを浴びて、シエルはそのあとに入った。長い夜だった。――――特に珍しいことでもないのだが。
遊びでは無い。しかし結婚する気はさらさらないし本気でもない。ただ、いつの間にかこの女と寝ることは日常茶飯事になってしまって、もう顔を見ても何の興奮もできなかったし、昨日だって本当は満足していなかった。そろそろ「さようなら」を言わなくてはいけないと思うのだが、それができなくてずるずると引きずっているのだ。だから多分、お遊びでは無いのだろう。
「朝だよ」シエルが囁く。
「おきて。もう行かなくちゃ」
「ン・・・・・・」女は声を上げる。
女は皺の少し見え始めた肌荒れした顔を上げてシエルを見た。彼女も綺麗な碧眼だった。
透き通るほどに透明で暗い蒼・・・・・・・・・・・・
「ねぇ、あなた天使みたい」
「もう聞き飽きたよ」
シエルが早くどいてくれといわんばかりに腕をこわばらすと、女はからかうように静脈の浮き出て見えるような腕をシエルの身体にまわした。
「ちょっと!!」
「いいじゃない、ちょっとくらい」
「週番なんだ」
「いい子ぶりっ子しちゃって」
「早く行かないと、退学になってしまう」
「あなた、その身体で充分稼げるわ」
「僕はちゃんとした仕事につきたいんだ」シエルは突き刺すようにいった。
いつもこんなに無愛想なわけではない。ただ、その日は本当に週番だったし、何より眩しかった。眩しいというのはいけない。シエルは眩しいとすこぶる機嫌が悪くなる。何故かはわからない。きっと人間が火を食べられないのと同じような理由だろう。
「ほら、どいて」
シエルが弱く彼女を睨むと、彼女はばつが悪そうに笑ってやっと頭をどけた。
「あんまりだらしないんじゃ駄目だよ。貴女こそ仕事しないと」
「お金は有り余るほどあるわ」女は青白い首を仰け反らせていった。
「旦那がくたばってくれたおかげでね」
「僕が死ぬまであるわけじゃないんだから、さ」
シエルは気だるげに服を着ていく。まずパンツ、それからTシャツ、次にワイシャツ、最後にズボンだ。制服のタイは後で付ければいいし、ベルトも今はまだいらない。シエルがシャワーを浴びないのは、昨日彼女がぐっすり眠っている間に浴びてきたからだ。彼は慣れた手つきでワイシャツのボタンを留めていく。
最近はこの生活も馴染んできた。学校からのんびり帰ってくると、宿題をして、晩御飯を食べて、風呂に入って、彼女を抱くのだ。気がつくと朝になっている。自分でも何故彼女を抱いているのかは分からない。
あぁ、何故だろう?特に不満は無いけれど、自分が何故彼女を選んだのかは不思議だ。まだシエルはたったの16だし、顔もそんなに悪くない。そんなシエルがなぜ落ち目の中年女を抱くのかは、ひょっとすると世界の七不思議になるかもしれない。それともシエルが選ばれたのだろうか?彼女がシエルを選んだのだろうか?
何故シエルは彼女を拒まなかったのだろう?
「色が白いわねぇ」
「そんなこといわれても嬉しくないよ」
シエルはとうとう服を着終えて、肩を揉み解しながら寝室の出口に向う。
「ねぇ、シエル、もう10分だけ・・・・・・」
「週番の相棒が教師の息子なんだ。悪いね」
「じゃ、朝ご飯は目玉焼きとトーストでよろしく」
「分かった」
彼は靴をしっかりとはいてからドアに向った。寝室は狭い。狭くはなくても、お世辞にも広いとは言えない。シエルが出て行ってしまうのは本当にすぐの話だった。精々5歩の話だ。
「ねぇ、シエル・・・・・・」
「何?」
「・・・・・・いや、なんでもないのよ」
「あ、そう」
シエルは思わず振り返らせられて、面倒臭そうにドアノブをまわした。
「あたしはもうちょっと寝るわ」
「勝手にすれば」シエルはもう女に一瞥もくれなかった。
「・・・・・・母さん」


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