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 朝の道路は静かだ。空は酷く良く晴れていて、遠くの方から雀の鳴き声がする。シエルの住むのは薄汚い下町だったが、開発は進んでいたから、こんなところにも雀がいるのかと正直驚かされる。銀杏並木は空き缶やビニールが無造作に捨てられている道路とは対照的に綺麗に色づいていて、シエルはまるで薄汚れた足元を見たく無いとでも言うようにそれをじっと見ながら歩いていく。ノートや参考書のどっさり入ったデイパックを担いで、両手はポケットに突っ込みっぱなしだ。もしシエルが転んでしまったら彼の綺麗な顔に大きな傷ができるのは免れられないだろう。
そうだ、シエルは綺麗な顔をしている。まるで女の子みたいな顔だ。全然日に焼けたことは無さそうだし、まるで真珠湾沖の海水みたいな色をした暗い碧眼はパッチリしていて大きかった。広い額は白く、曙の光を受けて反射しいた。目を縁取る睫毛と眉毛は暗い栗色、と言うよりはほとんど黒だったが、髪の毛は完璧なブロンドである。手足は細いし腰も細い。パッと見た感じだと彼は女の子だが、近くでじっと見ているとやっぱり彼は少年なのだった。さっきの中年の女性―――――シエルに抱かれていた「母親」も言っていたように、シエルはまさに天使に見える。男とも女ともつかない容姿、金髪、碧眼とくれば最早生きた生身のガブリエルといっても過言ではなかった。特に、今のような、よく晴れ渡って澄み切った朝に、馨しい秋風に毛ぶるような金髪をなびかせながら背筋を伸ばして歩くシエルは、さながらゼウスに惚れこまれたガニメデのようにも見えた。
途中で何人ものサラリーマンが通り過ぎていったが、顔馴染みではあっても知り合いではない。彼らもシエルもお互いに軽く会釈をするだけで、振り返りも挨拶さえもしたことはなかった。
「よう!アシュリエール・ド・ヴァラファール!」
突然後ろから声を掛けられて、シエルは振り返る。大きな声でシエルのフルネームを呼んだのは、その日週番を共にする同級生だった。
「ラシード!」
「ヴィクトール、だよ」
馴れ馴れしく手を肩に掛けてくるやたら大きな黒髪の青年――――彼はヴィクトール・ラシードだ。顔はハンサムでは無いけれど、ちょっと印象的な顔をしている。変わった顔だ。醜くは無いけれど、一度見たら10年は忘れられないような顔だ。例えるなら、そう、もしジェーン・エアの中のロチェスター卿が本当にいたら、若い頃はこんな顔をしていただろうという感じだ。髪も目も真っ黒で、ともすると気難しいギリシャ人みたいな雰囲気があるのだった。因みに本当は全然気難しくないのだが。
シエルはあまりヴィクトールが好きでは無い。シエルは物静かな少年だったから、ヴィクトールみたいな陽気で煩い男は理解の範疇外だった。勿論ヴィクトールはクラスの中でも人気者だったが、シエルはこの男が嫌いだった。しかも、悪いことは重なるもので、同じクラスになるのすらごめんだと思っていたのだが、くじ引きで隣の席になり、また週番も同じペアになってしまったのだった。
「その、「ド」って言うのやめろよ。貴族じゃないんだから」
「きゃっ、怖いわ、シエルちゃん」
シエルはついにポケットから手を出してこめかみを押さえる。シエルの言うことは最もなのだ。ド、と言うのはフランス語の「of」みたいなもので、いうなれば「アン・オブ・グリーンゲイブルス」のオブである。つまり「アシュリエール・ド・ヴァラファール」と言うのは「ヴァラファールのアシュリエール」と言うわけだから、シエルだってそんなおかしな具合に古めかしい名前で呼ばれるのは嫌だろう。
ヴィクトール・ラシードの父親はフェリックス・ラシードだ。シエルとヴィクトールの通う男子校で、数学教師と生活主任を兼ねてやっている。こちらは生きたロチェスター卿みたいな男で、顔も形もまるきりヴィクトールそっくりだ。しかし性格は堅物で、気難しい男だ。だが、数学教師にしろ生活主任にしろ、気難しくて堅苦しくなければやっていけないのかもしれない。とにかく形だけは、肖像画を描くときに画家が間違えて手を滑らしてしまったような皺が何本か入っているだけで、黒目も黒髪も顔もヴィクトールそのものだった。いや、この場合はフェリックスにヴィクトールが似ている、と言うべきだろうか?
ラシード氏はヴィクトールとは違って生真面目で、堅物と言う言葉にまさにぴったりの男で、生徒たちからはまるで怪物みたいに恐れられている教師だが、シエルはこちらも好きではなかった。目に付いた生徒に片っ端から怒鳴りつけているのだから嫌われるのも当たり前だ。シエルはなるべくラシード氏の目に留まらないようにしていたが、ラシード氏もやっぱりシエルにガミガミ言うのが好きらしかった。この二人が性格の面でそっくりなのはそこくらいなものだろう。
シエルがヴィクトールの発する喧騒に奥歯を噛み締めて耐えていると、ようやく学校の建物が見えてきた。
シエルたちの通う学校はやたら大きい。まるでお城みたいな校舎だ。その中には女性は一切居らず、男子生徒と男性教師しかいない。こんな中では当然危ない嗜好の奴も出てくるわけだが、今の所シエルは餌食にされていない。これは驚くべきことだ。何と言ったってシエルは男子校の中だと俗にいう「お姫様」とも言える顔なのだから。
「シエル」
「気安く呼ぶなよ、ラシード」
「お前、本当にきつい奴だな・・・・・・だからヴィクトールだって」
「どうでもいいよ。で、何?」
「フランス語の宿題写させて」
「何で僕が・・・・・・!」
校門をくぐると、やっぱり朝早いだけあって生徒はほとんどいなかった。いるといえば精々が使い走りに遣られている運動部の低学年くらいだ。部活に入っていないシエルには生来無縁の姿だが、入学してからずっと数学部にいるヴィクトールだって同じだろう。何故彼がずっと数学部にいるかって、もちろん彼の父親が圧力をかけたからに違いない。ただ、根っからの文系頭のシエルと違ってヴィクトールは数学に関しては中々出来がよかったから、その点では幸いだったといえるだろう。
「な、お願いだよ、ド・ヴァラファール」
「ドはやめろって!」
フランス語の苦手なヴィクトールがシエルの苗字にドを付けたがるのは単なるかっこつけだ。それ以外の理由は別に無い。ただその響きは随分とシエルの神経を逆立てるのに一役買ってでている。
「アシュリエール!頼む!」
「名前呼ぶなよ」
「じゃどうやって呼べばいいんだよ!」
「極力関わり合いにならなくてすむように尽力してくれ」
「フランス語で頼れるのは貴方しかいないのです、殿下!」
「・・・・・・もういいよ・・・・・・貸して上げるから静かにしてよ」
根負けしたシエルは溜息交じりにデイパックを下ろした。

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