25

 なんとなく彼には近寄りがたかった。
なぜかって、「あの人」が彼について突拍子もないことをぬかしたからだ。
シエルはここ数日、クラクスーと一言も交わしていなかった。
クラクスーが何か言おうとすると、シエルはうまい具合に何か用事を思い出す。こんなことではダメだ、いつかきっと話さなくちゃならないと思っているのだが、それでもシエルはクラクスーを見るとおたおたしてしまうのだ。
 ええっと、なんだっけ。僕がエミリアを好きで、エミリアはヴィクトールが好きで、ヘンリー卿はクラクスーの事が好きで、僕はクラクスーをたぶらかすんだっけ。
・・・・・・たぶらかす?何かおかしいなあ。
「シエル」
シエルはその声に飛び上がってしまった。何故って、それは彼が一番聞きたくない声だったからだ。
「な、なんだい?」
「あのさ、そろそろあの日記返したいんだけどね。僕今日家に忘れてきちゃったから、まあ色々世間話でもしながらお茶を飲みに来ない?」
嘘だ。絶対嘘、忘れて「来ちゃった」なんて。クラクスーのことだから、きっとシエルをおびき出すつもりで置いてきたんだろう。
「あ、あれね。今日じゃなくてもいいんだ。明日持って来てくれればさ」
「それに是非祖父にも会わせたいんだ。日頃学校の話をすると、祖父はえらく君に興味を持ってね」
興味を持つ。それはヘンリー卿に会った今となっては、シエルには身の毛のよだつような言葉だ。
「うん、じゃあまたいつかね」
「いや、だから今日ね・・・・・・」
いたちごっこになりそうなところでベルが鳴る。神よ!始業ベルがこんなに嬉しかったことはついぞございません、ございませんとも!
釈放された死刑囚のように晴れ晴れとした顔のシエルを横目に、クラクスーは思わず舌打ちした。

 結局目的の「モノ」を「持って帰」れず、クラクスーは不貞腐れて玄関の階段を上る。すぐにでも祖父にシエルを識って欲しかったのだが、その望みはかなえられず、クラクスーの心はその日のどんよりとした曇り空と同じくらい憂鬱だった。
 その時頭上から声がした。
「やぁクラクスー君」
見上げると、隣の家の変人博士がクラクスーに手を振っていた。もう片方の手にはまたわけのわからない測量器具を持っている。
「ヘンリー兄さん」
「学校帰りかね?よかったらうちでお茶でもどうだい」
その「よかったら」とはヘンリー卿にとっては「絶対」だ。たとえその日クラクスーがはしかにかかっていたとしても、ヘンリー卿はあらゆる姑息な手段を使ってクラクスーを彼の巣に引きずり込む。
 あんな風に妙な研究ばかりで飄々としてはいるけれど、若い内に両親を亡くして、幼い妹を養うために見知らぬ大陸に移り住んできた人だ。きっと人知れず寂しい思いをしているんだろう。
 小さいときは彼のことを幾度鬱陶しいと思ったか知れないが、今では少し大人になって、そう思えるようになった。
「さっきカーラがスコーンを焼いてくれたんだよ。イギリスにいる友人から美味しいクリームも届いているよ」
「でも、お仕事中じゃないんですか?」
「お茶のほうが重要に決まってるだろう!」
いや、普通は違うって。クラクスーは心の中で突っ込んだ。
でも――育ち盛りの青年にとって、スコーンにイギリスのクリームは魅力的で、急にクラクスーはお腹が減っていることを思い出したので、快くヘンリー卿の申し出に応えることにした。
 部屋に入ると、いつものように奇妙な道具が埃を被ってキャビネットの中に収まっていて、晩秋の光が静かに机の上に光を投げかけている。底には複雑な書き込みやスウェーデン語とは思えないような記号が散乱していて、この部屋の主と同じくらい奇抜に思えた。
 家政婦のカーラは間違いなく良い仕事をしているはず(廊下には足跡一つ残っていないからだ)なのに、ヘンリー卿の部屋はいつも埃を被っているようだった。
「ああ待っていたよ。さあ、何処でも君の好きなところに掛けなさい」
ヘンリー卿はむずむずするくらいクラクスーに甘い。実の妹に対するよりずっと兄貴性を発している。――おっと、兄貴なんていっちゃあいけないか。
「学校はどうだい?友達とは仲良くやってるかい?」
「まあまあですよ、ヘンリー兄さん。それにしても相変わらず変わった事をしてますねえ」
「私から見れば君の方がよっぽどおかしなことをしているよ。髪の毛をいじったり、機械を改造したり」
「それにしたって兄さん。もうそろそろエミリアも大きくなったんだから、いい加減僕じゃなくて別の女の人をお茶に呼んだらいかがです」
「女は好かん」ヘンリー卿は切って捨てた。
「クラクスー君こそどうなんだね。男子校なんてところに行って、異性とは縁遠くなっているんだろう」
「ええまったくですよ。本当にむさ苦しいです。シエルみたいなのがいてくれるからまだ救いがありますけどね・・・・・・」
「そのシエル君だが」
ヘンリー卿はカーラからスコーンとクリームとお盆を受け取ってテーブルの上に置いた。
「近い内に養子縁組を申し込もうと思っているんだ。先方がえらく彼女を気に入られてね、あの子ならうちの妹を任せられるし・・・・・・」
「でもエミリアはどうなんです?」
クラクスーは紅茶にミルクを入れながら言った。
「エミリアはこの前失恋したばっかりだし。シエルもあの子に失恋して酷く落ち込んだし」
「そうなんだ。だからクラクスー君、できれば君がそれとなくあの子達を慰めてやっておくれ。私はこう見えても君をけっこう買っているんだ。君ならできるだろう?」
「はあ、まあ、最善の努力は尽くします」
クラクスーはなんだか間の抜けた気分だった。
小さい頃から――ごく小さな頃からエミリアとは一緒だった。一緒に昆虫採集やかくれんぼやいろんな悪事をした。そのエミリアがいつの間にか、クラクスーよりも早くに初恋を体験して、失恋を経て、結婚する。
それがなんだかクラクスーを呆けさせた。時が経つのはこんなに早いのか、女の子というものはそんなにも生き急ぐのだろうかと、彼は思う。
「本当は君のほうがいいと思うんだ」
ヘンリーがうそ寒いことを言う。クラクスーはクスッと笑った。
「僕なんて・・・・・・」
「けれど私にはそんな酷い仕打ちを妹になんてできない。私は卑劣漢であっても、あの子は違う・・・・・・」
「酷い?」
「今日はそのつもりで呼んだんだ」ヘンリー卿は真っ直ぐクラクスーを見つめる。
「愛しているんだ、クラクスー。君は私の最愛の人だ」
・・・・・・・。
 クラクスーは金縛りにあったように動けなくなった。今この人はなんていったんだろう?あ、愛?この人が?自分に?
冗談だろうか?
ヘンリー卿は眼をそらさない。クラクスーに至っては、目まで金縛りにあってしまって、視線を剥がそうにも剥がせなかった。
「愛・・・・・・ですか」クラクスーの喉から言葉が飛び出る。
「ずっと好きだった。誰にも渡したくなかった。君が12のときから・・・・・・・君の変わりにシエル君を妹に宛がえば全部解決する。私は妹を裏切らないし、君は彼のためにここを離れられない」
「やめてくれッ!」
クラクスーはやっと自由になった手でヘンリー卿の手を振り払った。ヘンリー卿はちょっと傷付いたような顔をする。クラクスーは気にもしない。
「やめてくれ!やめて!そんなことを僕に言うのは!!」
ふらつく足をどうにか奮い立たせた。とにかくそこから離れたかった、嫌悪感よりも恐怖の方が先立って、クラクスーは無闇に手足をばたつかせながら、転がりでるように部屋を飛び出した。
「クラクスー・・・・・・!」
ヘンリー卿の哀切な声が追いかける。
クラクスーは走った、カーラの心配そうな声も払いのけて、進むごとにぶち当たる階段は10段飛ばしぐらいで下りた。ほとんど蹴破るようにして自宅に転がり込み、へとへとになってやっと自分を自室にねじ込む。
 手汗が酷く、自分の顎の骨が痙攣しているのが分かった。ベッドにたどり着く前に膝を突いて倒れこむ――ただただ恐怖がクラクスーを丸呑みにしてしまって、彼は白目を剥いて俯いた。
 信じていたヘンリー卿の緑の目が、クラクスーには紺碧に見えた。
 シエルと見まごう程のその深い藍は、もうとっくの昔に忘れたと思っていた自分の母親の顔を、まざまざと彼の脳裏に呼び起こした。

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