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 ある日曜日の午後のことだった。薄紅色の光が古い屋敷の窓から差し込んで、片眼鏡をかけて読書をする老人がくゆらせているパイプの煙を染めている。老人は痩せて背が高く、白い口髭を蓄えて、確かにその中にクラクスー・ル・ケラックの面影を宿している。
彼こそキトロフスカ銀行の頭取、ル・ケラック翁である。
その風貌から見ても既に70歳を超える高齢のはずだ。身にまとう空気も、洗練された趣味も、人をアッと言わせる教養やウィットも身に付けている。だからこそクラクスーは彼を尊敬しているのだが、にもかかわらず翁はいまだ現役でバリバリ仕事をこなしていた。
そこに静寂を叩き割るものが一つ――ノック一つせずに、ケラック家の若旦那が乱入してくる。
「お爺様!」
「私はお前に部屋に入るときはノックを忘れるなと教えたはずだがね、もう何年も前に、クラクスー・・・・・・」
「そんなことはどうでもいいんです、お爺様。もっと大事なことを話さなくちゃならない」
「何じゃね?そんなに慌てて――」
老人は渋々片眼鏡を外し、本をパタムと閉じた。思慮深げなヘイゼルの瞳が、怒りを浮かべるクラクスーの額の辺りをまさぐる。
「僕は・・・・・・僕、お爺様に見せなくちゃならないものがあるんです」
「何じゃね?」
「これです」
クラクスーはここぞとばかりにデスクの上にあの日記を叩きつけた。
黄ばんで所々虫に食われている広告の裏紙の束は、ノミか何かであけたのだろうか、細い穴に黒いビニールの紐が通されていて、表に汚い字で「ジョシュア」と書いてあった。
ケラック翁は顔を顰める――そんなに汚いものはここ10年来見ていなかったからだ。
「これがどうしたね?」
「ここですよ!!みてください」
怒り狂った面持ちのクラクスーがそれを引き千切らんばかりに捲って、最後のページを祖父に突き出した。ミミズののたくる様な字が一面に敷き詰められていて、老人はまた片眼鏡をかけなくてはならなかった。

 くらやみのなかでかあさんがげたげたわらうのがきこえた、そっとだいどころをのぞくとあたまからちをながしてとうさんがたおれてたの・・・・・・
ぼくはそれがとてもおそろしいことのようなきがして、シェラスティがみないようにあの子をだきしめたんだ。
ぼくがそうケージさんとかいう人に言うと、ケージさんはげじげじまゆげをハの字にしてぼくのあたまをなでてくれた。
やっと、そのときやっと、ああおわったんだとおもえた。
ながいながいあいだおわりがないようにみえたくるしいじかんがおわったんだ。もうとうさんはいない。かあさんがころした。かあさんもじきいなくなる。ぼくたちとうとう黒パンもたべられなくなっちゃうかもしれないけど、でももうなぐられたりけられたりしなくていいんだ。

「これがどうかしたのかね?」老人は訝しげに孫を見る、
「まだ続きがあるんです」クラクスーはページを乱暴に捲った。

 ケージさんといっしょにケーサツにいってしばらくしたら、ケージさんがぼくだけをよんだんだ。ぼくはシェラスティにいい子にしてるようにいって、それからケージさんについていくと、せのたかいおおきなおじいさんがたってました。
「ジョシュア?ジョシュア・ヴァラファール」
「うん、おじいさん・・・・・・おじいさんはりっぱなおひげを持ってるのね。おじいさんはサンタクロース?」
ぼくがそう聞くとその知らないおじいさんはクスクスとわらった。
「いいや、私は君のお祖父さんだよ。ジョシュア、もし君がいやでなければ、私とくらさないかい?ケージさんに聞いたよ。こんなにやせて、傷だらけになって・・・・・・」
「お祖父さん?ぼくにお祖父さんがいたの?」
「ああそうだよ」ケージさんがあいづちをうった。
「ねえシェラスティもいっしょにつれていってくれる?ぼくたちいつもいっしょだから」
「ああ、きっと君の妹もつれていってあげようね。君たちに新しい生活を上げる。もう誰も君たちをなぐったりけったりしないよ。
君に新しい名前をあげようね、そうだな――――クラクスーは?クラクスー・ル・ケラック、洒落た名前じゃないかね・・・・・・うん、君は今日からクラクスーだよ、ジョシュア・・・・・・・じゃないね、クラクスー」
だからぼくは今日からジョシュアじゃないクラクスーになった。
 いまこれをかいてるあいだにもお祖父さんはそとで待ってるんだ、ぼくをおうちにつれていってくれるんだって。今まできたこともないようなきれいなおようふくはちょっときゅうくつだけど、でもシェラスティがいっしょなら大丈夫。でもシェラスティはまだケージさんのところにいるんだ、ほんとにだいじょうぶなのかなあ?

 「お祖父様――これは一体・・・・・・?」
クラクスーの声からはもはや凶暴な響きは薄れて、代わりに背筋が粟立つようなひっそりとした囁きになっていた。
「ル・ケラックなんていう名前はこの辺じゃ滅多にない。金髪のクラクスー・ル・ケラックは僕しかいない!どういうことなんです、お爺様、僕に5歳より前の記憶がないのはご存知でしょう?・・・・・・これはほんとに僕ですか?僕なんですか?」
クラクスーは険しい顔で老人に詰め寄る。老人は心臓発作でも起こしたかのような顔で一瞬宙を見つめたが、すぐに片眼鏡を外して孫に座るように指図した。
「わしは・・・・・・ああ、わしはお前にずっと黙っておった。もう少し大きくなってから話したかった・・・・・・」
「そんなことはどうでも良い。で、僕なんですか?」
「ああ、君は正真正銘ジョシュア・ヴァラファールじゃ。わしの孫だ」
老人の長い白銀の睫毛が翳を落とす。まるで拷問で秘密を吐かされた捕虜のような、疲れて老いた顔に、クラクスーはすこしばかり躊躇した。
「全部話してくれますね?」
「・・・・・・」
翁は物憂げに眉間を解して、溜息交じりにクラクスーを見た。
「あの時お前には戸籍がなかった。あの両親が市役所に届けているとはおもわなんだ、確かめたら案の定な・・・・・・だから色々しちめんどうな手続きを済ませるとき、わしはお前を養子にしたんじゃ」
「養子?」
「確かにお前とは血が繋がっておる。わしの馬鹿娘がお前の父親を殴り殺したのだからな。わしはお前の妹も引き取ろうと思ったんだが、駄目だった――娘がどうしてもあの子だけは残していってくれというので。お前は初め妹がいなくて不安がったが、直に何もかも忘れていった・・・・・・忘れなくても、わしが催眠術でも何でも使って忘れさせたじゃろう。だがお前さんは時と共に全部忘れたよ、精神科の先生に聞いたらそれは嫌なことや怖いことを忘れようという強い心のはたらきだというておった」
「嫌なこととはやはり・・・・・・」
「まずお前を引き取ってしなくてはならなかったのは心のケアじゃった。お前は人見知りが激しいし、何しろ革のベルトらしいもので打たれた痕まであったからどういう生活をしていたかは一目瞭然じゃった、お前は痩せてぼろぼろだった。両親も兄弟もいる生活をしていたのにいくつも病気を持っていたよ」
「革のベルト・・・・・・」
クラクスーは右の頭が半分だけ痛むのを感じた。記憶に厚い霞がかかっていて、鐘が鳴り響いている、だが音だけは鮮明に聞こえる――泣き声、叫び声、柔肌にベルトが喰いこむまで叩きつけられる音。
「クラクスー、大丈夫かね?頭が痛むのか?」
「大丈夫です。続けてください・・・・・・」
「娘やお前の妹の話はそれきり聞いた事がない。聞こうともおもわなんだ、あまりの恩知らずさにわしはかんしゃく玉を破裂させておったからの・・・・・・ああ、まだわしにあの忌まわしい話をさせるのかね?クラクスー、本当に聞きたいのかね?」
「ええ、話してください。聞きたいんです。僕が僕を知るために」
老人は片眼鏡を外して、憂鬱そうに髭を弄んだ。
「あの子が何処の馬の骨とも知れないゴロツキと駆け落ちしたのは16歳のときじゃった。相手は見たこともない。何でも運送業をやっていたらしくて、なるほど若い娘がぞっこん惚れるだけの器量はあったらしい。お前はわしに似ているが、わしはプラチナブロンドでは無いし、うちの家系にプラチナブロンドはいない。それにあの子は醜男に惚れるほど寛容でもなかった。・・・・・・そんなことはどうでもいい、お前が本当はいくつなのかは分からなかったので、わしはお前をとりあえずあの時5歳ということにしておいた。娘はお前達に酷い暮らしをさせていたが、夫の方も酒飲みで、外には何人も女がいたらしい。腹いせのように娘も浮気をして、金をせびるような手紙が来たことすらある。世間知らずな箱入り娘が!」
「そういうようなことは書いてありましたよ、確かに」クラクスーは静かに言った。
「男を連れ込んでいる間、母は僕たちをキャビネットの下に閉じ込めて置いたんです、子連れだって知られたくなかったから・・・・・・なるほど、僕はそういうことをしたような気がします。これを読んでいて不思議な気分になりました」
「そうかね・・・・・・全く!特に父親のほうは暴力が酷くて、うちの娘をしょっちゅう酔った勢いで殴ったそうな。ところがすぐに酔いが醒めて、娘に酒をせびるんだという。それまで酷く殴られていたのに、夫が猫撫で声でねだるのを見ると憎めなかったらしい。だが――此処から先は娘の警察での供述だが―このまま放っておくと殺されるかもしれないと思ったからやったそうだ。使ったこともないような大きな麺棒で、何度も、何度も、何度も・・・・・・死体はほとんど頭の原形をとどめていなかった。子供の目には恐ろしい物に見えただろう」
老人がまたもや髭を弄びだす。クラクスーの瞼の裏に、黄色いような、オレンジ色のような、白いような、赤いような、なんだか得体の知れない混合物が一瞬映し出される。これは確かにアレだろう。アレしかない。
多分アルコールにすっかりやられて萎んだ父親の脳みそだ。
「僕は・・・・・・僕は・・・・・・」
「さよう」老人は苦しげな声を出す。
「左様――わしは跡継ぎが欲しかった」
「僕はどうすればいいんですか?」
「どうもしなくていい」
「でも、でも――これをくれた友達が・・・・・・」
「くれた?」老人が訝しげに眉を上げる。
「てっきり拾ったのかと――」
「その友達もヴァラファールで・・・・・・」
「女の子かね?」
「いえ、女みたいですけど、男です」
「そんなばかな」
老人はうろたえたようにクラクスーを見る。
「だってあの子は正真正銘女の子だったのだから」

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