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 前章で身勝手な宗教論をひけらかしたことを心から詫びたい。
私はこれから、スフィアのことと、もう一人の非常に迷惑で印象深い男性のことを書くことにする。
スフィアは健気にスタジオに通おうとしたが、私は無理をさせないように押しとどめた。こうしてスフィアの為といえば聞こえはいいが、ひょっとしたら私は彼女とあの二人を会わせたくなかったのかもしれない。会わせればきっと、彼女はあの二人を認め、好きになって、私を捨ててしまうだろうから。誰だってそうするに決まっている。あの二人は輝いていたからだ。まるで春に咲く一対の蓮華草か何かのようによく人をおびき寄せた。私は多分スフィアを手放すのが嫌だったのだろう。スフィアにだけは二人に惹かれて欲しくなかったのかもしれない。スフィアにだけは裏切って欲しくなかったのかもしれない。スフィアにだけは、傍にいて欲しかったのかもしれない。
 彼はイタリア人だった。名前はリオネッラ・スカルラッティとか言って、夜いつものようにさ迷い歩いている私に絡んできたのだ。私が街を歩いていると、あんまりフラフラしすぎる酔っ払っている奴がいたので避けて通ろうと思ったのだが、声をかけられてしまった。酔っ払いは無視すると怒る。殴られるのは義父からだけで充分だったから、私は立ち止まらなければならなかった。
例によって例の如く、彼は私のことを女と間違えた。
「お嬢さん、お嬢さん、おじさんと一緒に遊ばないかい」
ごく普通に見える酔っ払いの男は本当に私を女だと思ったらしい。これだって別に変わったことでは無い。私は無視して通り過ぎようとしたが,この男は前触れも無しにいきなり目の前で倒れた。
・・・・・・誰が見ているか分からない。教授が見ていたりしたら卒業できない。結局私は彼を自宅まで連れて帰る羽目になった。
 そんなわけでその日はいつもより早く帰らねばならなかったので、家に帰って義父がいないことに驚いた。義父はいつも遅く帰ってくるらしい。私に合わせてか、それとも仕事の都合でかは知らないが、初めてそれを知ったときは少し驚いた。私だって半端な時間には帰ってこないが、彼も相当遅くまで家に帰ってきていなかったのだ。何の利害も絡んでこないが、私はなぜか純粋にそれに驚かされた。
家にいる執事達は昔から私のことを目の敵にしていたが、流石に男を連れて帰ったときてはもう頭がおかしくなったのだと思われたのだろう、彼らは私とは交わりを持とうとせず、命令だけ聞くようになった。これは非常に好都合であったことは言うまでもないだろう。下手に気を配られると、迷惑なときと言うのもある。私は男に自分のベッドを提供した。私は彼の横に椅子を持ってきてすわり、提出前のレポートを読み返した。
 暫くすると母に呼ばれた。義父が待っているとの事だった。いつの間にか帰りの遅い義父は家についていたのだ。母は何時だって私と義父が話すときは席を外した。もしかしたら、あの人はあの人なりに私に罪悪感を抱いていたのかもしれない。勝手に父親を作って、弟までこしらえて、しかもうまく行っていないのだからそのくらい当然だとは思うが。だから義父と私をと懸命に仲良くさせようとしていたのかもしれない。だとしたら母は健気な人だ。しかし秘密は永遠に墓の中である。死人はしゃべらず、母は死んだ。
義父は私をいつもどおりに殴った。その時初めて気がついたのだが、あの男はずっと「いなくなってしまえ」「死んでしまえ」「お前はクズだ」といったようなことしか言い放っていなかったのである。残念ながらいつものように主語は全く聞き取れなかった。
 私はその頃からある妄想に耽っていたと思う。多分この義父の言葉が始まりだったのだろう。覚えている限りはそうだ。その妄想について話すことにしよう。
妄想・・・・・・と言うよりは夢と言うべきかも知れない。夢と違うところといえば、私は意図的にこの夢を見ることができたという事実くらいだ。つまり、意識がある状態で、勝手に想像するだけなのだが。
私は白くて何も無いところにいる。それが三次元なのかどうかさえ分からないようなところだ。私はそこで現実世界で言われたあらゆる悪口雑言に素で傷付いて、泣き、苦しんでいる。そこでは何故か私も白ずくめである。しばらく私がすすり泣いていると、私の下に一人の人が来る。その人も白い服を着ている。私のことを抱きしめて、そして言うのだ、「大丈夫、君は悪くない」と。その人の声には全く感情が篭っていなかったが、その人の腕の中は不思議と安心できた。全く意地を張らずに泣くことができた。私は顔を上げる。
その人は自分と同じ顔をしている。
彼はその時の自分自身とは全く違う人格だったのに、私は自分で自分を慰めているのだと思った。そう言うとなんだかいかがわしく聞こえるが、真にその言葉が当てはまっただろう。私が私を慰めているのだ。その妄想を続けていると、大分心は穏やかになる。しかし夢が醒めたあとに私に残るのは、他人に慰めてもらったときのような安心ではなく、空虚な洞穴、虚無だけだ。そのころにはもう涙は出なくなっている。かわりに胸は潸然としている。初めて「それ」を見たときには心底寒くなった。しかし当時、私はその夢想をやめられなかった。
 暴行が終わるころには私はすっかり疲れ果てて、シャワーも浴びずに寝室に向かった。そしてベッドに勢いよく飛び込んだ。
生物の感触。
私は思わず叫んでしまった。私は忘れていたのだ。
そこでは正体を失ったあの男が眠りこけていた。生憎誰も私の事など気にしなかったが、私は心臓を掴まれた様に固まっていた。男は目覚めて私の痣だらけの顔を見てぎょっとした。
「おい、アンタ、嫁入り前の身体になんて傷を・・・・・・」
道端で女と遊ぼうとしていたこいつに言われたくないのだが。
「嫁じゃない」私は言った。「触ってごらんよ」
私は男の手を無理矢理私の胸に押し当てた。そして男は顔を蒼白にして震えた。
私はにやっと笑ってやった。
 スフィアは中々ジョージやレイチェルと打ち解けてはくれなかった。私が心の底でそれに安心していたのも否めないが、彼女が彼らに打ち解けられなかったのも無理もないかもしれない。彼らとスフィアとでは生きる世界が違ったのだ。ある意味ではスフィアと私は同じ精神世界に生きていたのかもしれない。ただ私達は決して混ざり合うことがなかったのだ。私が一時の気の迷いで彼女に気を許しても、彼女は絶対に私を他人以上には見ないだろう。私の世界は自分と他人で出来ている。しかし、スフィアと母だけはその境界線に辛うじて引っかかっていた。
 もしかしたら私達は同じ凸で、しかし全く逆の方向を向いていたのかもしれない。もしかしたら私達は互いに凹と凸で、全く逆の性質を持ちながらもぴったりと合う存在だったのかもしれない。今となっては分からないことだし、二人の残りの人生が50年以上あったってきっと分からないことなのだろう。
 彼女が外に出たのはいいが、依然私を頼りすぎる感があった。彼女は私がいなくても充分やっていけただろうし、私は何時だって彼女を突き放すことができた。
しかし私達はそうしなかった。
私は彼女を信用しきっていた。しかしスフィアは何時でも私の寝首をかく事ができた。

 私はスフィアがレイチェル達に打ち解けなかったのを悲しいとは思わない。
理由は私がレイチェル達に嫉妬していたから。
























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