9
 スフィアは中々病室を出たがらなかった。彼女は雑踏を嫌った。それも当たり前だろう。それまでずっと、限られた人しか見た事がなかったのだから、突然沢山の人の発するオーラを汲み取らずに通りすがりの人でいろと言うのは難しいことだ。恐らく彼女に対して一人の人間として語りかけてくれた人はそれまでにも少数だっただろうから、彼女はずっと相手の瞳から思考を読み取られることを強いられてきただろう。そうしなければ意思の疎通が成り立たないからだ。それなのに突然、通り過ぎる人々の内誰の雰囲気にも振り回されるなといわれてはたまったものでは無い。私はスフィアでは無いから彼女がどうして雑踏を嫌ったのか知らないが、恐らく私が今言ったような理由からだと思う。
ジョージとレイチェルが大学で首を延ばして待っているのに、スフィアは私の腕に爪を立てて病室を出るのを拒んだ。毎日病院の電話から断りの電話をかけるのも億劫だったので、結局連れ出しが成功したときに即報告するということに決まった。
いつの間にか彼女の担当は私になっていた。二人は「色々」忙しかったからだろう。二人は私に避妊薬の調合をよく頼んだ。私への罰はそれで充分だったと思うが。私はそれを断らず、律儀に返した。少しだけ二人に罪悪感があったのかもしれない。この世の中に、命の恩人の恋人に横恋慕して罪悪を感じない男がいるのだろうか?いるとしたらお目にかかりたいものだ。私はそいつを偶像化してやろう。
とにかくスフィアは出たがらなかった。
仕方がないので、私は辛抱強く彼女と「会話」した。と言っても、私が彼女にどうでもいいような言葉を投げ掛け、彼女が一言はいかいいえで答えるか、そうでなければ返答しないといったようなもので、決してこれを読んでいる方々が日常的に行っているようなものではない。これはこれで皆さんは気を使うと思われるかもしれないが、私の方では全くそう感じていなかった。それはまぁ、初めの内は何しろ相手が女性なので気を配りもしたが、向こうは何の気兼ねもなくただ黙って私を見ているだけだったので、私もなんだか吹っ飛んでしまって、心配も何もなくなってしまった。私と彼女は心を通わせるでも何でもなく、ただ二人、四角い病室の中で存在するばかりだった。
 いつだっただろうか。もう思い出せないが、記念すべき出来事が起きた日だ。彼女は突然、
「いいよ」
といったのだった。私は吃驚して思わず聞き返してしまった。
「何が?」
すると彼女は馬鹿なことを訊くなとでも言うように、
「外」
と一言言ったのだった。
私は苦労が報われて真面目に喜んだ。これで残りの二人にも顔向けができるというものだ。私は心底喜んで、彼女の身辺の世話をした。
 彼女にとって、恐らくそれは初めての外出だったのだろう。彼女はそれまでに家族(と呼べるのなら、だが)の体面を守るために外出を許されなかっただろうし、また彼女も外出を望んだことがあるとは思えなかったからだ。先にも述べたように、彼女は非常に「純」であった。私は彼女に、悲しいとか嬉しいとか、そういう馬鹿馬鹿しくてドロドロした感情があるとは考えていなかった。恐らく誰もがそうだったろう。そうだ、一体誰がこの女を、スフィア・ライドウと言う1つの「機械」を人として扱えただろう?白い顔は常に無表情だった。話す言葉は稚拙だった。それに彼女は利用価値のない人間だった。
 いや、私は世間をとがめる事は出来ないだろう。人は一体何のために生きるのだ?お互いに利用し利用され、また裏切り裏切られるためでは無いのだろうか。残念ながら私にはそれ以外思いつかない。人は私を「偽善者」と呼ぶ。そして私は音楽と言う大義名分に隠れて彼女を利用しようとしたのだ。私も俗世に生きる蛆虫共と大して変わりはしない。ただそれに気づいて、自らを罰しようとするだけまだましだ。・・・・・・と思いたいだけで、実際のところそうやって自己弁護しているあたりが最悪なのだろうが。
 スフィアは外界を見て、ただ呆然とするばかりだった。耳をつん裂くような騒音、目の痛くなるような汚らしい色、臭いにおい、そして蛆虫がとうの昔から飼いならしている「欲望」、それら全てが大津波のように彼女を襲ったに違いない。私は心配したが、彼女は気丈に耐えてくれた。
 私の空いている方の手、彼女の感情を表す「器」を持たぬ方の手はずっと彼女が掴んでいた。彼女の手は小さかった。そして少し冷たかった。まるで陶磁器みたいで、でもしっかりと私のてに縋りつくように繋がっていた。怖かっただろうに、よく耐えたと思う。まるで内臓から蟲の幼生が皮を突き破って出てくるようだっただろう。私も母の新しい男を見たときにそう思ったから。その蟲が死ぬまで人の心を、身体を、脳を貪り食って増殖することを知っていたから。
 彼女は恐らく私が知る中で最も高尚な存在だったのだと思う。しかし賢いとはいえなかった。とはいえ、賢いとは即ち泥沼のような絶望を生きることを表す。無を知り、人の奸智に侵されず、考えることを美とせず、純真な殻の中で育ってきた彼女・・・・・・私は世慣れて諦めと妥協を身につけた人よりも、ずっと彼女を羨ましく思うのだ。そういう人々はきっと酷く疲れているだろう。死ぬ間際に彼らは安息を得られるのだろうか。いや、きっと彼らには死こそが安息なのだろう。この話では勿論、私利私欲の為だけに生を貪り、自らに脂を殖やすことを生き甲斐とするような魑魅魍魎は含まれない。こんなしけたことを言うのは爺だけだと思われるかもしれないが、神は地球を創造するにおいてたった一つだけ過ちを犯した。それは人間に考える力を与えたことである。人は自らを「ホモサピエンス」などといって慢心する。神はきっと悪戯心から考える力を人間に与えたのだ。そして恐らく、神は今その力が大地を栄えさせるためだけではなく地球を破壊するために、己を貶める為に使われていることを嘆いておられるだろう。いつか取り返しのつかないしっぺ返しが来る。それまでの行いを改悛する暇もなく我々は大波に呑まれてしまうだろう。そうだ、太古の昔にあったとされるあの大洪水のように。そして太古のノアのように忠実で誠実だった人間は今はもう存在すらしない。そして今度こそ、神も情けを捨てて人間を唾棄するのだ。
 もしスフィアがもっと昔に生まれていたのならば、彼女こそがノアであり、キリストであったに違いない。いや、彼女を人間と同列として扱うのはどだい無理な話だ。ノアは自らが悲しみ苦しむことのないように忠実に箱舟を造った。もしノアがもっと崇高であれば、自らとその縁者のみ助かろうとはしなかったはずだ。罪深き民とともに溺れ死ぬことを選んだはずだ。自分も罪深き人間の一人であることを認めたはずだ。そしてキリストも人であるのなら決して己を呪ったことがないとは言い得ないのだ。ギリシャの人々が崇めた神々は人の穢れを最も如実に表したものとは言えまいか?そうだ、そもそも人の性ほど痛々しくまた悪臭を放ち天を怒らせるのに事足りないものは無いのだから。キリストは人の子として、救世主として生まれてきた。そして若くして人の性を叩きなおそうとされた、それならば何故この世を終わりにしてしまわなかったのか、何故自殺を禁じたのか。自らが自らを罰することほど高貴なものは無いと思う、私がこれほど怯え、悶え苦しむ激痛に進んで身を投じるのだから。人々にプレッシャーをかけられ、崇められ、尊ばれ、そして信じられるのは時として罵られるよりも辛い。先に述べたように,人は人を利用して生きるものだ、そう、あの一度死んだ娘をキリストが生き返らせた時だって彼女の親に利用されたのだ。どうしてキリストに慈愛だの、寛容だのといえるだろう。彼こそ人類史上最も人を憎んだ男であっただろう。それで無ければよっぽどの馬鹿だったに違いない。
 私は神が定めた法の中で最も罪深い生物だ。何故此処まで思いつめてまで尚自殺も出家もしなかったか?そんなことは火を見るよりも明らかだ。私は死ぬのが怖かった、そして世捨人になるには余りにも好奇心が強すぎた――――好奇心とは往々にして人を堕落さしめたことは言うまでもない。パンドラが良い例である。あの箱に最後に残ったのは希望だった。希望は人々を惑わす。結局なるようにしかならないという事実を認めさせようとしないのだ。
私はまだまだ現世に思い残すことが沢山あった。しかし今では、神の手によって地獄に落ちるなら本望だといえる。
 もしキリストが自らを呪うことなく許し続けたのであるというのなら、その時こそ私は彼を崇拝しよう。しかし最早それを確かめる手立ては何一つ残っていない。私は赦すと言う行為が全く理解できないのだ。利用価値があるか、よっぽど面倒なことでもない限り心に復讐を留めておく。私にはミケランジェロの「ピエタ」の聖母の顔すら無表情に見えるのだ。私には慈愛が理解できなかった。私は、私に向けられる全ての優しさとか温厚さとか、そういうもの全てに相手の下心を見出そうといつも目を光らせていた。
 スフィアは俗世に出てすぐに疲労を表した。私はそれを労う事を厭わなかった。私は彼女には無理をさせず,結局もう一度病室に押し戻した。私の、元々の希望とは矛盾する行動にスフィアは解せないという瞳をした。
私は何も言わずに早くに家に帰り、それから三日三晩外に出なかった。眠ることもできず、読書に集中することもできず、食物は私の体が受け付けなかった。何をするとも無く悶々とする中で、義父はきっと私を待ち続けただろうが、私は決して出なかった。出られなかったのだ。ある種の神がかった力が私を殻の中に押し込め続けた。あれはなんだったのだろう?あれはきっと罪悪感だったのだ。スフィアを、天使を無理矢理連れ出して掃き溜めの中に引きずり込んだことへの罪悪感だったに違いない。そして神は彼の娘に対する無礼を償わせようと、私に三日の虚無を課したのだ。
それほどまでに私はスフィアを畏怖していたのである。
























>8
>10
>go to Silenzio top

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送