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 私のガンは肺に転移したそうだ。
今日電話があった。警察からだった。明日スフィアを逮捕するそうだ。
元々そういう話だった、私がスフィアを預かったのは、スフィアが死刑になる前に仮釈放としてスフィアを返して欲しいという話だったのだ。私がそう望んだのだった。ナイジェルには秘密にしていた。それを話せばきっとスフィアを守ろうとして無謀なことをしでかすだろうから。スフィアは罰されるにふさわしい罪を犯してしまったのに。
物事は始まった時点で既に終末へと向っている。しかし誰もがその終末を幸せなものだと信じきっているし,幸せでなかったら認めたがらない。実際はその終末が幸か不幸かなんて関係ないのだ。どちらであろうとも物事は終わる。重要なのは物事がどちらに転ぶかと言うことではなく、物事が終わるというその事実なのだ。
私は終わってくれるだけでも充分だと思っている。輪廻なんてない、1つの命が終わればその時点で魂が消滅するのだと信じている。そのほうが私にとって都合がいいからだ。二度とこんな苦しい世界になんて生まれたくないし、二度と人を苦しめるようなことはしたくない。私はもしもう一度人としてこの世に生まれてこなければならないのなら、今度こそ残忍になりきりたい。人を苦しめた後のあの後ろめたさを追体験したくないからだ。綺麗事だけで生きていけないのなら、いっそ冷酷で残忍な人非人になりきってしまったほうが、きっと生きるのに苦労しないに違いない。どんな物語でもそういうキャラクターは最終的に主人公に殺されるというのが王道なのだが、実際問題、激しい生存競争の中で玉座を勝ち取るのはそんな雑草タイプのキャラクターなのだと思う。ただし、私は不完全な人間の中でもさらに不完全だから、きっとそんな人間にはなれないのだろう。だったら生まれ変わりなんてしたくない。どうせまた不幸になることが分かりきっているのに、わざわざそんな無駄なことをする必要は無い。
しかしこの世のものは全て循環している、ならば・・・・・・・・・・・・
そう考えるのはよそう。もしそうだったら、私は気が狂ってしまうだろうから。
 明日私はナイジェルに薬を取りに行かせるつもりである。その間にスフィアと別れられればいい。多分彼女は何も言わずに去っていくだろう。彼女が昔、警察に連れて行かれたときと同じように、彼女は髪の毛一本乱しもせず、泣かない代わりに笑いもせずに消えていくのだろう。そして彼女は私の人生から永遠に去るのだ。
 前章で話したイタリア人はなんと外交官の大金持ちで、私は吃驚した。それはもう、管弦楽部に引きずり込まれたときのように、心臓がまた止まったと思ったくらいだ。私は無礼者だったのだ。しかし彼は大いに私を気に入ってくれた、これも驚くべきことだが。そして彼は結局今の今まで私のために尽くしてくれた。私がしたことといえば、女嫌いの彼を説得して許婚と結婚させただけなのだが。こんな馬鹿なことをしたおかげで、今でも彼は私のことを精神科医と思い込んでいるのだ!
彼は私たちの亡命にもスフィアの仮釈放の件の警察の説得にも尽力してくれた。
 スフィアは素晴らしいヴァイオリニストだった。私たちには勿体無いほどだった。
レイチェルはスフィアと仲良くなりたがったが、スフィアははねつけた。前にも言っただろうか?レイチェルはまるで実の姉のようにスフィアに接したが、スフィアはまるで石のように、返事はせず、反応もせず、レイチェルに見向きすらしなかった。これは恐らく前にも言っただろうが、私はそんなスフィアを見て密かにほくそえんでいた。しかし彼女はようやっと合同練習に入ってくれるようになった。私とレイチェルとジョージの演奏は何とか聞けないことも無かったが(むしろ聞けなかったらそれはそれで哀れすぎるのだが)、スフィアは戸惑っているのか調律も巧くできなかった。おかげで私は毎回二つ分も調律しなければならなかった。
 奇妙なことに、合同練習をいくら聞いても私は美しいと思えたことがないのだが、レイチェルとジョージはいつも最高だというのである。私がそれを指摘すると、よく「完璧主義過ぎる」とか「真面目だ」とか言われるのだが、私は自分をそう思ったことは無いし、第一それが罵りなのかその逆なのかすら分からなかった。今もって理解に苦しむ。ひょっとしたら私は完璧主義者なのかもしれないが、それの何処が悪い?それに私にとって音楽とは必要不可欠なものであり、私はレイチェルたちとの合奏を心の底から愛していたのだ。だから私にはそれにおいて全力を尽くさないことは酷く思い上がったように思えたのだ。
 嬉しいことに、スカルラッティ氏は音楽に通じていた。
結婚した後もしょっちゅう電話してきたが、練習中は一番肝が冷えた。電話がかかってくると、それは練習を私事で中断した事になるし、そうなれば私は3人分の時間を盗んだことになるのだ。それを許せるほど私の神経は図太くなかった。私はとにかくスフィアに実力を出させるためにつきっきりで指導していた。スフィアは週進月歩くらいの速さでマシになっていった。そんなとき、突然我が家にスカルラッティ氏がやってきたのだ。
 スタジオはそんなに長時間借りられないので、当然私の家で練習させていたのだが、流石のスカルラッティ氏にもアルビノのスフィアの様子には驚かされたようだった。スフィアも突然の来訪者に驚いていたし、私も実はそうだった。スカルラッティ氏は少し普通じゃなくて、少しキャラクターが強すぎるから、「突然の来訪者」役には明らかに向いていなかったのだ。
私はすまないね、少し待っていてくれとスフィアに言った。スフィアは少し嫌がるようなそぶりを見せて(そう、嫌がったのだ!)別の部屋に移っていった。
「巧いじゃないか」
「他に二人いて、四重奏団を組んでいるんですよ」
私がそう言うと、スカルラッティ氏は異常な興味を示してきた。一度聞かせてくれといわれたので断ったが(何しろ四人合わせたらあれは黒板を生爪で引っ掻くみたいな演奏になってしまうのだ!)、聞き入れてくれそうもなかった。
結局彼は二週間後に会う約束を強引に取り付けて出て行った。
 次に、不意に母が現れた。私がスフィアを呼んでくる様に頼むと、母は「彼女は帰った」といった。私は一人で帰らせたのかと聞いた。
「タクシーに乗せたわ」母はそういった。私は部屋を出ようとした。
「貴方って、本当に女の子のことを何も知らないのね」
「は?何です、母さん」
「毎日手取り足取り腰取り音楽を教えてもらってるんだから、何時変な気を起こしてもおかしくないわよ?」
私はいきなり母がおかしなことを言うのに驚いた。母は意地悪く笑っていた。
「でも、彼女は・・・・・・」
「変わんないわよ。病気だろうが何だろうが、女の子だって事は同じだわ」
私は何故だかは分からないが酷く居心地が悪くなって、母と一緒にいたくなくなり、その場を逃げ出した。母はその時私にとって、背中を這い回るナメクジか、悪くすれば寝る前に耳の横をぶんぶん飛び回っている蝿くらいに嫌な影響を私に与えた。
私の顔はきっと真っ赤だったと思う。
 それから暫くスフィアの練習中に突然顔が真っ赤になる、なんてことがしばしばあったのだが、スフィアはそのほぼ二週間後、合同練習にてやっと真の実力を示したので、私はスカルラッティ氏に顔向けができた。彼は我々を酷く気に入って、自分が出資者になるからレコードを出してみないかといってきた。変わったことを言う人もいるものだと、私とジョージは思わず顔を見合わせたが、目の前にぶら下がっているチャンスには牙を剥いて噛み付かなければいけないお年頃だったので、私達は勝手にその話を承諾した。
 私はいい加減くたびれていた。、ジョージとレイチェルを目にする度に気持ちを押さえ込むのにも、永遠に満足できないであろう合奏をいく当てもなくただ只管に練習し続けるのにも疲れきって、練習が来るたびに神経が、生命力が削り取られていくようだった。そう、贅沢だ、言われるまでも無く分かっている。音楽に触れるまではただ虚無と言う深淵にどっぷり浸かっていたのだ。音楽と言う素晴らしいものを手にするのならそういう代償が必要なのだろうということも、頭の隅ではわかっていた。ただ、認めたくなかったのだ。音楽に触れている間は幸せであるべきなのだという強迫観念が私を縛り付けていた。何度もサークルを抜けようと思ったし、留学もしくは退学をして自分の手で全てを終わらせてしまおうかとも思った。いっそレイチェルを刺し殺して、自分も首を吊って後を追おうかとすら思った。凄まじいだろう?私はあの頃の自分はきっと気が触れていたのだと思っている。
 それから暫くして行われた、レコードの録音についてはほぼ何も言うことは無いといってもいいだろう。
私はずっとあの時間が続けばいいと思っていた。生身の人間達の世界では不可能なほどの一体感があって、四人とも恍惚としていたことはいうまでもない。ジョージは興奮しすぎてレイチェルだけではなく誰にでも抱きつくような有様で、スフィアにまで魔の手(?)を伸ばし、スフィアも珍しくくすっと小さく笑っていた。こうやって言うと、まるで私が傍観していたように聞こえるかもしれないが、私も大分気持ちが昂っていて、思わず相手を選ばずに叫んでしまった。しかも叫んだ相手が狂ったジョージだったのだ。
「ジョージ、今なら僕は君にキスしても良い!」
「あぁ、友よ、遠慮せずにドーンと来たまえ!」
恍惚状態のままで危うく男同士でキスしそうになったところを、すんでのところでレイチェルが二人の頭をヴァイオリンのケースで殴ってくれたから助かった。その後暫く殴られたところがたんこぶになってしまったのだが、その痛みは義父からの暴力の痕とは違って幸福であり、その傷は数ある傷痕の中でも特別だった。
 レコードはどういうわけか飛ぶように売れた。ジャケットにレイチェルが大きくのっかっていた所為かもしれない。男二人、女二人のグループなら女性陣を前にして写真を撮るのが一番だ。女性と言うのはことのほか思い出を残したがるものだし、男は女に負けるに越したことは無いのである。レイチェルは半ば無理矢理スフィアを前列に引っ張り出して、強制的にスフィアにヴァイオリンを握らせ、格好のつくポーズをとらせた。あのときばかりはレイチェルの功績は賞賛に値した、といえる。
学生だったので報道の仕事はすべて断ったが、それでも人々の中でレコードの噂はまことしやかに流れた。スカルラッティ氏と夫人は飛んで喜び、四人はのべ、その四十四倍喜んだ。四人・・・・・・と言うと少しおかしいかもしれない。中には若干名、嬉しいという感情のない人間がいたかもしれない。

 とにかく誰もそれが最後だなんて思ってもいなかった。

























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