13
 つい先ほどスフィアは発った。
警察は本当に無礼な奴らだと思う。大して壁も厚くないこの部屋であんなに喚いていくことは無いだろう。これ以上私の世間体をぐちゃぐちゃにされて堪るものか。ただでさえお隣とうまくいっているとは到底思えない状態なのに。
 スフィアは抵抗しなかった。私の予想通りだった。
しかし彼女は・・・・・・彼女は私を振り返った。そして一言言って行った。
「どうして私じゃ駄目だったの?」
 私はきっと彼女は何も言わずに去って行くだろうと思っていた。しかし、警察という憲法の犬に引っ立てられていく小さなスフィアは立ち止まって私を見たのだ。
 瞳が全てを語っていた。掠れた悲愴な声はそれに深みをつけて、私はそんな彼女を目の当たりにしたときに急に何か得体の知れないものに心臓をつかまれたようになった。
別れを悲しむ目、と言うのが一番ぴったりな言葉なんだと思う。決してその言葉ひとつでは説明しきれない意味深長な瞳だったが・・・・・・・無表情な彼女にしては珍しく眉根を寄せて、一人にして欲しく無いというように私を見た。長年ともにいた私ですらそんなスフィアを見たのはほとんど初めてだったのに、無情にも警察は彼女を連れ去ってしまった。あの繊細なスフィアを殺すために!やっと言葉で自分の気持ちを伝えられるようになったような小さな子供を電気椅子に座らせるために!
「どうして私じゃ駄目だったの?」と、彼女はそう言った。
あぁ、私は知らなかったというのだろうか?否。私は逃げていたのだ。私はもう随分前からスフィアのその気持ちに、丁度私がレイチェルに対して持っていたような気持ちに気付いていたはずだったのに、私は逃げた。振り返ろうとせず、いいわけもせずにひたすら逃げ続けた。私を守るために。自分が二度と傷付かないために。
怖かった。自分がまた叶わぬ人を愛してしまうのでは無いかと、また愛する人を失ってしまうのでは無いのかと恐れていた。行く先の分かりきったスフィアを愛したら、私はどうしたらいいのだ?彼女の後追いをすればいいか?そうすれば彼女は満足しただろうか?女と言うのは恐ろしいものだ。彼女たちは生きている間に男に自分を刻み込めないと知ると、命を絶ってそうしようとする。そうすると男はもう彼女たちの幻影から逃れられない。その生命の焔が蝋燭の火となって消え去る瞬間まで、彼らは彼女たちへの罪悪感に追い回され続ける。そして黄泉の国で初めて彼らの贖罪は終わるのだ。そのころにはもう彼らは何もすることができない。彼らは死んでいるからである。もう生きてすらいないからである。
しかし私に、自然に訪れる病の携えた死ですら恐ろしくてたまらないのに、どうして自分で自分の命を絶てただろう!そんなことがもしできたのなら、とっくの昔に、スフィアに出会う前に私は舌を噛んで死んでいただろう。
 スフィアは私を愛していたのだろうか。こんな私を愛してくれたのだろうか。
もう一生私が愛されるなんて奇想天外なことは無いだろうと腹を括っていたのに、あれは間違っていたのだろうか。私はもっと幸せになってもよかったのだろうか?
・・・・・・いや、愛など所詮儚いものだ。まるで砂糖菓子のようなそれをたやすく信じれば、すぐさま絶望の奈落へと突き落とされることを知りすぎるほど知っている。一度身体で学んだことをすぐに忘れてまた同じ過ちを犯すのは能無しのやることだ。私は名誉のためにも、そんな事はやらないと誓ったはずだ。
―――そうやって自分を守ったところで、結局別れ際に後味の悪い思いをするのだったら、こんなハリボテの自己防衛は道化ともいえるのだろうか・・・・・・?
 運命とはいたずらなもので、これから書くことはスフィアの第一の罪である。私は彼女の罪はそれが最初で最後だったのではないかと思う。
 その日は雨が降っていてとにかく寒かった。私は正式に四重奏団の退団の書類にサインするために「事務所」に行かなければならなかった。「事務所」と言うのはサークルの主な活動場所で、古びた大学の一部屋である。その日は四人全員集まるはずだった。道中の人々は、休日だった所為だろうか、酷く陽気で、同じ年頃の人たちはまるでヒバリか何かのようにケラケラと笑いながら雨の中のピクニックにでも行くように見えた。自分以外の大通りの人間が、羨ましいくらいに幸せそうに見えた。私は人々の速い流れに逆らって歩いていた。憂鬱で足はまるで鉛のように重く、全然前に進んでいないように思えた。何度も道中で立ち止まって、深呼吸をし、通行人に煙たがられたと思う。一人の男がどこかに慌てて走っていったが、私は前をよくみていなかったので正面衝突してしまった。気がつかなかったのだ。目に入らなかった。私は俯いて相手の顔もろくろく見ずに小声で謝った。実際は私のほうがはね飛ばされたのだが、今の人たちは怒りっぽいから、下手にでた方が命のためと言う奴だ。舌打ちされるかと思ったが、意外にも男は何もいわずにまた走り去っていた。ちらりと顔を見ると、本当に歓喜に顔を輝かせていたので、見たこともないような他人とぶつかったくらいでは壊れないような幸福を得たのだろう。一般人にはそういうものは安売りされているのだろうか?逆境と言う黄色い旅券を持った人間は、ジャン・バルジャンの様にいくら代価を払ってもそういうものは得られないのだろうか。人ごみの中で走るなんていうのは狂気の沙汰だが、一度でいいからそんな喜悦を味わってみたいものである。
数分経ってから我に帰ったようにポケットを探ったが、財布はあったのでスリではなかった。
 そんな風にしてぼんやりしながら事務所まで来ると、私はゆっくりとやけに重いオーク材の扉を開いて、やっぱり足元ばかり見ながら中に入っていった。
次の瞬間私は硬直した。呆然と、その場に立ち尽くした。「事務室」の空気が血の臭いを漂わせているように思ったからだ。しかし微か過ぎたから、錯覚だったのかもしれないと思った。
まず初めに目に入ったのは、無造作に捨てられた小さな眼鏡だった。レンズは1つ残らず砕け散って、キラキラ光るガラスの粉になっていた。私は恐怖に駆られながら中に進んでいった。どうして恐怖を感じたのかは分からない。多分動物の本能と言う奴だ。ひょっとしたら誰かが誰かの眼鏡を踏み潰して、罪業から逃れるためにそこに放って行ったのかもしれないが、私はそれを見た瞬間言い知れない恐怖に襲われた。
次の部屋に入って、私はハンマーで頭を殴られたかと思うほどに驚いた。
いや、ひょっとしたら私は脳みその隅っこでそういう情景を予想していたのかもしれない。―――そう思うと、ぞっとする。
血、血、血、そこら中一面血の海だった。私は動悸がするのを感じた。
誰の血だ?
――――長い黒髪を乱した女が、不自然な格好で横たわっている。
今でも時々夢に見る。蒼い目は開いているが、己の血しか映しだしていない。青い目に映るどす黒い血は、ぱっと見濃い灰色にも見えた。
指は一通り切り取られていて、彼女の金色の婚約指輪はどこかに行ってしまった。
それは彼女の最も愛しかった人と交換するはずではなかったか?
女の腕は腹を抱え込んでいる。私はそれを見てふと気がついた。
そういえば、最近は避妊薬を頼まれていない・・・・・・
生まれてくるはずだった子供は女だったろうか、それとも男だろうか?私が産ませるなら女がいい。自分に似た子供なんてぞっとしない。黒い髪に蒼目がいい。レイチェルにそっくりなちょっと上向いた鼻をした、見ているだけで心が穏やかになるような女の子が良い。残念ながら、私には口が裂けてもレイチェルを見ているだけで心が穏やかになったなんて言えはしない。彼女は私の心を何時も強引に乱した。
レイチェルは優しい女性だった。人間国宝といっても過言ではなかった。
 何処かで音がしていた。何かをプツン、プツンと切る音、そして漏れ出てくる笑い声。
私は神に祈るような思いで後ろを振り返った。滅多に送らない祈りは私から遠く離れた神までは届かなかった。
長い長い銀髪が楽しげに揺れている。血まみれの手でヴァイオリンをひっ掴み、血まみれの長く伸びた鉤爪で弦を一本一本引き千切っている。鉤爪は時々ヴァイオリンの木の部分を引っ掻いて、跡を残していた。弦を引き千切る、ブチッ、ブツン、と言う音だけでも充分耳障りだったが、加えて生爪で黒板を引っ掻くような音まで出していたので、私の頭には一本の大きなひびが縫合と縫合の間をジグザグに縫ったように入りかけていた。それはスフィアの高級なヴァイオリンだった。「彼女」は振り返った。
「ルディ」
実験用のヌードマウスのような高い声。
スフィアは褒めてくれといわんばかりに朗らかな笑顔を浮かべていた。その眼は、「ねぇ、褒めて?もう大丈夫よ。あの女はもう他の誰のものでもないのよ」と言っていた。目は口ほどにものを言うというが、あれは嘘だ。口はいくらでも物事を誇張し、また隠蔽するが、眼は口なんかよりもずっと正確に、正直にモノを言ってくれる。
私はスフィアと同様に血まみれになった両手で目を覆った。頬にレイチェルの血が滴り、乱視の目を冒してゆく。
穢れた私の穢れた涙が清らかな血に混じって頬を伝う。
(こうすれば嫌なものは何も見えない)
白いコートは赤茶けた血に染まって使い物にならなくなった。髪にもこびり付くその血液が全てレイチェルのものだと思うと、図らずも脳内に狂気にも似た何か、いや、狂気よりももっと性質の悪い何かがちらついた。
誰かがやってくる。誰かは言わずもがなだ。彼は少し遅刻していた。
沈黙―――――
「レイチェル?!」
ジョージは普段の彼からは想像もできないような甲高い叫び声を上げた。
(これは全て自分の所為だ。恩人の女に横恋慕していた自分への罰なのだ。これこそが、人間の最大にして最悪の悲愴なのだ!)
そんな自傷にも似た思考が頭を支配する。
「お前か!お前がやったのか!許さない、殺してやる・・・・・・レイチェル!!!!」
今でも耳に生々しく響いてくるジョージの罵声―――――
私の心はだんだんあの「何か」に埋め尽くされていった。
私は笑った。狂人のように高笑いしてやった。それ以外にどうすればよかったというのだろう?私の心は昂っていく。燃え盛る炎よりももっと猟奇的に全てを焼き尽くしていく。
(避けられ、傷つけられ、裏切られて
もう僕の心は凍ってしまったよ・・・・・・
何も感じないのは、此処が黒い殻の中だからなんだ
ここでは自分の感情さえ感じられないよ
暗闇の中で僕を包み込むのは君への愛と言う卵白さ
君が死んで尚僕を侵していく卵白
生まれでることを許されなかった雛は
殻の中で腐っていくのさ・・・・・・)

そんな私の頭を麻薬のように侵してゆく唄に追い討ちをかけるように、ジョージは私の頬を激しく打ち続けた。

 その後尋問に警察に連れて行かれたが、三十分程で解放された。全て終わったのに、なんて短い時間だったろう?幸せな時間は全て終わってしまったのに、だ。
家路に就くと、その日は義父が出張だということに気がついた。どうして世の中ではいい事が続かないのだろう?悪いことばかりなら、ばらばらに来るよりもいっそ纏めてくる方がいいのに。そうしたら気違いにでもなれたかもしれないのに。あの時はそう思っていた。私は魂のない抜け殻のようになっていたからそんなことを思ったのかもしれない。不思議とスフィアに対して怒りは感じなかった。自分を責める気持ちばかりが先立って足を重くした。通りの人は無表情に私を通り過ぎて行く。
ただ静かな悲しみが頬を覆っていた。もう涙は出ず、涙のあとだけが私の頬を焼いていた。
 家に入ると、入り口のところにコートが1つ余分にかかっていることに気がついた。
私のコートは血だらけでもう使い物にならなかったので駅に捨てたが(おかげで酷く寒かった。しかしそんなことはもう気にもならなかった)、その余分なコートは女物だった。弟が恋人を連れ込んでいるのかもしれないと思って、私は極力静かに階段を上った。邪魔はしたくなかった。邪魔をされたほうもいい迷惑だろうが、邪魔した方だってそれなりに気まずいのだから。
「ねぇ、あの人が帰ってくるわ」誰かが囁く。
「構いやしないさ」弟の声が答えた。
そこで私はハタと気がついた。その声はマリーのものだったのだ。
呆然と立ち尽くした。マリーは弟といる。何故?
我に帰ったときには遅かった、マリーは弟を振り払って部屋を出、私と顔を突き合わせていた。私の唇はわけもなく小刻みに震えた。弟なんかに嫉妬したわけでは無いのに、やりきれなくなった。
   あちらでは人が死に、こちらでは人が肉を貪る。
「出て行ってくれ!!」私は図らずも叫んでいた。
「出て行け!帰ってすぐ破談の書類にサインしろ!」
マリーは絶叫する私に怯え、顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き、よろめきながら靴も履かずに走り去っていった。弟はもうそこにはいなかった。薄情な男だ。恋人を見殺しにするなんて。私は部屋に駆け戻った。そうだ、あんな部屋でも一人になれるならましだ。誰も壊すことのできない殻に閉じ篭ってしまいたい。そう思った。
私は愕然とした。いつもどおり、あたりまえのようにそこには私の存在した形跡など跡形もなかったのである。
悲しかった。しかし涙は湧かなかった。渇いてしまったのだ。心から溢れ出るのは涙ではなく血だった。心にあるのは悲しみではなくて傷だらけの怒りだった。
こんなに悲しいのにどうして夜が明けるとその形はすべてなくなってしまうのだろう?みんながこぞって無情にも私を消し去ろうとする。要らない私を消し去ろうとする。私はあんなにも一生懸命になって正気でいようと、生きようとしていたのに!
私は手応えのない枕に拳を何度も何度も打ち付けたり、苛々して自分の腕をコンパスの針でぐっさり刺したりした。苛々なんてものではなかった。果てしない破壊衝動だった。
(何もかも無くなってしまえばいい)
そんな投げやりで熱いのに虚しい思いが襲い掛かる。実際のところ、熱いのは涙腺だけで背筋も肝臓も心臓も孤独に凍えてしまっていた。ついでにレイチェルもスフィアもジョージも失ってしまった悲しみがその頃になってやっと奔流の様に私を苛んで、まるで薬の副作用のように破壊衝動は膨れ上がり、中々収まらなくなった。
私は二人も犠牲者を出したのに、三人の聖者を助けられなかった。否、私は三人の聖者を差し出したのだ。二人の私の娘、優柔と退廃のために聖者達は贄となった。
世の中にはあらゆる悪が蔓延っている。私が体験したこの一連の事件は、心なしかソドムとゴモラの話に似ている気がしないだろうか?ただ、私はロトの様に逃げなかった。私はもうすぐ死の香りのする硫黄に溺れる。私を助けてくれた二人の天使は誰だろう?あぁ、そうだ、決まりきったことを自問するんじゃない。ユーリとキャロラインの他に誰がいる?
 しかし私は硫黄に溺れてゆく。
 やっと気持ちが少し治まった頃には部屋の中は大惨事になっていた。身体は一生涯分の気力と体力を使いきったような疲労と虚脱感に苛まれた。それだけのエネルギーを消費しても、きっと翌日には何も残っていないのだろう。私が傷付き、やっと暴れることを学習した形跡は、無情にもこの世界から消し去られてしまう。
 唐突に母を救おうと思った。あの醜くなった母は正に私と同じ道を歩んだのだ。苦しみながら頼った男は裏切り、息子は離れてゆく。私達は真の血族だった!血縁関係のある全ての人間に見捨てられる運命にあるのだ。そう思うと、それまでの怨恨は消え去って、私はまたいつかと同じように母を愛した。研究所は外国にしよう。母さんを連れて、南仏にでも行こうか。そんな夢みたいなことを考えて、しかも本気で実行しようと思っていた。

 レイチェルの墓には本物の彼女の指が入っていない。本物の彼女の血も入っていない。本物の彼女の魂も恐らく入っていないだろう。彼女の墓は不完全だ。いや、墓なんて所詮人間が無理矢理作り出したものなのだから、誰のものでも不完全なのだろう。
 それでもジョージはチェロを捨てて、不完全なレイチェルの墓の守人になった。

























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