14
 ナイジェルはスフィアの面会に行くと言い張っている。
彼が帰ってきて、私にスフィアの居場所を尋ねるまでに長い時間がかかった。スフィアは何時も彼女の部屋に篭っていたから尚更だ。ナイジェルはスフィアが夕飯の時間になっても出てこないのを見てやっと私に居場所を聞いた。私は訊かれるまで言わなかった。彼は彼女の居場所を聞くと,私を罵り,泣き叫んで、家を飛び出そうとした。
私は間違っていたのかもしれない。スフィアとナイジェルが此処まで強く繋がれていたとは知らなかったのだ。見送りに立ちあわせるべきだったか?いや、私は二人の絆を知っていてもそうさせなかっただろう。なぜなら私はナイジェルに隠し事をしていたからだ。私は奇麗事を言う男だから、自分が嘘をついたと認めたくなかった。スフィアが本当はずっと一緒にいられる身ではないのだと明るみに出たとき、彼は傷つくだろうと思った。とにかく私はナイジェルをスフィアの面会にはいかせないつもりだ。変にこちらが手を出せば、スフィアはこの世に未練を作ってしまうかもしれない。一人の方が良いに決まっている。
それでもやっぱり、私はまちがっているだろうか?
 まだもっと書かなければならないことがある。全然足りない、私はこれを書き終えなければならないのだ、私を遺すために!だから、今どんなにやめたいと思っても、何があっても耐えなければならない。
 私は絶望に打ちひしがれていた。
母への強烈な同情心は募り、義父はそれまでどおりに暴力をふるった。サークルを抜け,卒業論文を提出し,ジョージとは音信不通になった。それまで私を構成していたあらゆるものが、銀ねず色の液体になって溶け出ていってしまったようだった。気がついたら持っていたはずのものは何もなくなっていた。気がついたら渇き切っていた。気がついたら泣けなくなっていた。
「心が渇けば涙も渇く」といったのは文豪ユゴーだ。実に的を射た言葉である。
 ある夜のことだ。雪は酷く、三十センチ先が吹雪で見えないような夜のことだった。私は街をふらふらすることをやめた。部屋で拷問を待つことしかしなかった。他に何もやる気が起こらなかったからだ。私は半分燃え尽き症候群、半分うつ病のようになっていた。時間が来ると母は私を呼びに来て、私は痛めつけられる。
 楽器はもう見たくもなかったが、全てを忘れたらまたやり始めるだろうと思っていた。ヴィオラは、既に彼らの忘れ形見と言うだけではなくて、虐待と孤独を忘れさせてくれる道具と言うだけのものでもなくて、既に私の体の一部となっていたからだ。
その晩義父は酔っていた。その日は特に酷く酔っていた。酒瓶はもう三本もあけられていた。
私にはその時、義父がどんなことを言っても全く動揺しない自信があった。私の感じる心は先に言ったようにもう完全に麻痺していたからだ。侮辱を侮辱と取れないほどに堕ちて、何もかもに無関心になっていた。しかし義父はそれを既に知っているようだった。なぜなら義父は次に述べるようなことをやったからである。
 彼は突然立ち上がり、私に向って酒瓶を投げつけだした。空っぽのも中の残っているのも全部だ。私はそれでも避けようとしなかった。中身の入った酒瓶が鳩尾に当っても、声を上げずによろめくだけで、義父の望むような悲鳴は上げなかった。おかげで義父は機嫌を悪くして、辺りにはアルコールの匂いがぷんぷん漂っていた。
もしかしたら母は私が虐待されているのを知っていたのかもしれない。いや、十中八九そうだろう。あの騒音に気がつかないわけがないのだから。母はきっと義父が恐ろしくて何もいえなかったのだ。結局母は私のために何の勇気も示せなかった。
酒瓶は色々なところに当った。壁に当って砕けるものもあれば頭に当るものもあった。幸い骨は折れなかったが、もっと悪いものが駄目になった。
投げられた酒瓶のうちの一本が、私の左手を直撃した。
鈍い音を立ててそれは私の左手を壁に打ちつけ、欠片となり、容赦なく私の左手に襲い掛かった。吐き気のするほど激しい痛みが全身を襲い、中のアルコールが沢山の切り傷にしみこんだ。私は思わず絶叫した。
「痛っ」
欠片は運悪く私の薬指と小指をざっくりと切っていた。義父は苦痛に叫び声を上げて悶え苦しむ私を見て高笑いした。私がジョージにしたことと同じ事を今度は私にしたのだ。二人ともおかしくなっていた。私も義父も、結局は正常な反応が返せなくなっていたのだ。
もうそこにはいられないと感じた。
全てを捨ててでもそこを出る必要があった。別にこれといった理由があったわけではない。ただ、もしあそこで私がそうしなければ今の私はいなかっただろう。私は恐らく義父に廃人にされ、甚振られながら死んでいっただろう。
 私は義父の高笑いをBGMにして吹雪の中へと飛び出した。コートも着ず、防寒具なんて何もつけていなかったので痛みは徐々に感じなくなった。全く狂気の沙汰だ!あの吹雪の中を薄着で出て行くなんて、それだけで寿命が5年縮まりそうである。私の後には点々と血の跡が続き、途絶えることはなかった。私は朦朧とする意識の中、今にも崩れ落ちそうになる足を必死で前へ前へと追いやった。足は重く、何処まで行っても何も見えなかった。いくら歩いても、見えるのは白い雪だけだった。人家の少ない地域に入るまで誰にも会わなかった。いや、会ったかもしれないが、はっきり言ってあんな狂人のような私を見て関わり合いになりたいとは夢にも思わないだろう。
何時間歩いたか知れないが、あと二・三歩進んだら倒れるといった頃合になって、やっと鼻先三寸のところに建物があるのが見つかった。見た事のない形をしていたから、相当遠くのほうまで歩いていたことが分かった。
私は右足で強く扉を蹴った。しかし鍵がかかっているようで、びくともしなかった。
もう一度試してみた。やっぱり駄目だった。私の右足の方が叫びを上げる羽目になった。
もう無駄だ。私はここで野垂れ死にするのだ、と本気で思った。
私は膝を突いて雪の上に滴る血痕を眺めた。穢れきった己の身から流れ出す紅い血は、真っ白な雪の中で見えるせいか、自分よりもずっと綺麗なはずのレイチェルの血よりも美しく見えた。だんだん体が温かくなってきて、そこで死ぬのも悪く無いと思えてきた。
   死んだらレイチェルに会えるかもしれない。
      そしたらレイチェルはもうジョージのものじゃなくなる。
穏やかに降り積もる雪の中で、私はそんな気違い染みた事をふと思った。
ただ安らかに眠りたかった・・・・・・紅はどんどん白に掻き消されていく。
私が気絶する寸前に扉は開いた。私は彼の足しか見ることができなかったが、中にいた男が崩れ落ちる私を抱きとめた。
残念ながら私はそこまでしか覚えていない。その後見たのはたった一つの映像だけだ。
 私は、私と同じ顔をした男に、ナイフで原形をとどめなくなるほどにズタズタに切り裂かれている。自分の顔中に血がはりつくのを、視界がどんどん白んでいくのを感じながら、私は奇妙に冷めた思いで「彼」を見ているのだった。


 気がつくと体が大分温まっていた。私は点滴を打たれながら毛布に包まれていることに気がついた。私は生きていたのだ。意地悪な神はもう「人」ではなくなってしまった私を殺さなかった。私は性懲りもなく現世に漂っていた。
私が身体を起こそうとすると、誰かが私の胸を押した。
「動くんじゃない」
男の声だった。私はふと、その男に助けられたのだということに思い当たった。
感謝の気持ちを表そうとしたが、生憎喉は完全に潰れていた。
「無理はするな。凍死寸前だったんだ」
若白髪の男は何処からどう見ても学者だった。そんなオーラが滲み出ていた。学者と言うのは本当にオーラが違うから、見ただけでその人が学者だと分かるのだが、そんなのは私だけだろうか?それとも学者同士だったら分かるのだろうか?
「此処は・・・?」私は掠れた声で訊いた。
「国営の冷蔵庫だ」
「冷蔵庫?」私は彼を凝視した。
「あぁ」
「うそだ」私は吐息だけで囁いた。「あなたは科学者だ」
男はあからさまにぎくりとした。私は真実を問うように彼を見た。
「・・・・・・そうだ。此処は遺伝子工学研究所だ。表向きは冷蔵庫だが」
「奇遇ですね。私もそれを専攻していたんですよ」私は抜け殻のような笑みを浮かべた。
「ワケありみたいだな」
「・・・・・・」
「雇ってやってもいいぞ」
「本当に?」
私は笑みを本物にした。ここは安全だ。もう誰も自分を傷つけない。
それに、もう誰にも自分を傷つけられないように、自分が変わってしまえばいい。
・・・・・・本当にもう誰も私を傷つけることはできなかった。なぜなら私が傷つけなかったからである。
「それから・・・・・・その・・・・・・」男は口ごもった。
「何です?はっきり言ってください」まだ私の声はかすれていた。
「あー・・・・・・左手の指は・・・・・・神経が切れてるんだ」
「神経が?」私はぎょっとして起き上がろうとし、また男に押さえられた。
「もう動かない。・・・・・・それでも尽力したんだが」
私は点滴の打たれていない左手を持ち上げて見てみた。一見前と変わらないように見えた。
私はそれを動かそうとした。だが、以前ヴィオラの弦を弾いた薬指と小指はこわばって、ぴくりとも動かなかった。まるで回線が切れてしまったように。
私は義父が残した最後の傷がそんな酷いものであったことを呪った。
男は黙ってそこに座っていた。私は涙を見られたくなくて顔を背けた。何故泣いたか?そこにはルドルフ・バードックその人の生きる意義など何もなかったからだ。それまではただ漠然と自分が生きていても仕方がないとしか思っていなかったのだが、指の神経が切れたと知って、突然現実を突きつけられたような気がした。私は真の役立たずだった。たった一つ、ヴィオラだけは少なくとも私の思いどおりに動いてくれたのに、私はそれを失った。
あの事件以来泣いたのはそれが初めてだ。ほとんど咽び泣くように泣いた。指を失ったことだけでなく、あの自暴自棄になって暴れたまわった夕暮れでさえ出なかった涙も、父親に対する激しい怒りも、最後まで自分を愛してくれなかった母への憎しみや性懲りもなく残った愛も、どうして自分ばかり此処まで不幸なのかと言う理不尽な怒りまでも全部ごちゃ混ぜになって激しく泣いた。泣くというか、吼えていたといった方が正しいかもしれない。
男は去ってくれなかった。デリカシーのない奴だと思った。
 あの時ルドルフ・バードックは死んだ。母を愛し、義父を赦そうとしたルドルフ・バードック君は善良な市民として凍死したのだ。凍りついてしまった。せめて大学の卒業証書を貰っておくべきだったとおもう。
涙は止まらなかった。後から後から泉のように溢れ出てきた。どうして自分はほんの少し前まで手の中にあった幸せを失くしてしまったのだろう?あの頃は満ち足りていたのに。
 バードックの姓はその辺一体では結構有名な名前だったので、私はカースティンと名乗った。これは母の旧姓だ。これを名乗っていた頃だって、その時よりは幸せだった。死んだ心優しいルドルフ・バードック君の後釜には、人として痛々しいまでに骨と皮がさらけ出されるような、縹渺としたルドルフ・カースティン氏が収まった。それで万事うまくいった。今思えば、あの夢の中の白い人はカースティン氏だったのかもしれない。
 地獄の炎が第二の死で、肉体の死が第一の死ならば、あれは第零の死だったに違いない。0番目の死だ。昔の私、ルドルフ・バードックの墓場は、今の私、ルドルフ・カースティンの中には無い。あれはあの時消滅したのだ。陰も形も、煙すら残らなかった。昇華した。
 義父は私から音楽家の道も科学技術者の道も奪ってしまったが、なるべくそのことは考えないようにした。苦しかったからだ。私の片割れもその灼熱の苦しみで蒸発した筈だった。
 それでもやっぱり涙は止まらなかった。
























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