15
 「どんなわけがあったんだ」と、男はそう聞いた。
私はもう涙も涸れようという有様だった。とにかくその問いに答えられるような状態ではなかった。
「もう沢山だ・・・・・・」
私は何度でも飽きずにそう呟いた。そう呟くと、もう疲れきって動こうとしない棘だらけの心がぐちゃぐちゃになって、互いに互いを傷つけあった。それが激しい虚脱感の中でほんの少しだけ気紛れになった。だから私は、何度でも自分に向かってそう囁いた。
「どうしたんだ?」
「・・・・・・」私はそれには答えなかった。
「俺はバイロン・ジェンキンズだ。此処で研究員の面倒を見ている。隣は官舎だから、あんたの部屋も手配してやるよ」
「あ・・・・・・ありがとうございます」
バイロンは私の命の恩人だ。それまでに本当に色々な苦労をしてきたのだろうと思った。彼は私の様子に最大限の理解を示してくれたからだ。
 利用価値のない人間に、存在価値なんて無いと思う。
私は指を失った。私はヴィオラを弾くためだけに生きていたある種の「器」だったのに、のに義父はそれを破壊した。普通に生活するのだって、指二本もなくせば拷問同様だった。
カースティン氏はこういう、「自分が生きているのは死ぬのが怖いからだ」と。
バードック君の亡霊は反発する、「犯した罪を償いたいから生きるのだ」と。
ヴィオラの弾けない手をしたルドルフなんて誰も必要としないし、乱視でほとんど見えないような目で、自分じゃろくに実験もできないような学者なんて赤しかない信号と同じくらい性質が悪い。
 私は毎晩悪夢に苦しんだ。レイチェルが泣き笑いしながら「赦してルドルフ」といい、そのレイチェルを嘲笑いながら隣でスフィアがずっとクスクスと笑っている夢である。何時しかスフィアは義父に変わって、「お前は私の下にいない限りはクズ鉄以下だ」と言う。夢の中の義父にそういわれると、本当にそんな気がしてくるのだ。今研究所にいるのはクズ鉄以下のルドルフで、あの偉大で恐ろしい義父のところに帰らないのなら自分は死ななくてはならないと本気で思いこんでいた。義父が帰ってくる時間になると、いい年をした大人になっても恐怖と言うのは人間を変えてしまうのだろうか、私は半狂乱になった。昼間は物思いに耽り、時々暴れたりもしたが、大抵は廃人のようになっていた。夕方か夜になると私の身体は自分で自分を殺したがり、さもなくば恐怖でのた打ち回って、食べてもいないのに奇妙な色をした吐瀉物を吐き出した。半ノイローゼの私は夢遊病者のように研究所を徘徊した。一体何度バイロンに連れ戻されたか知れない。私があんまり自殺したがるものだから、一ヶ月以上もスツールに縛り付けられたままでいなければならなかった。
それほどまでに私の心の傷は深かった。いや、そういうのは正しくないかもしれない。私自身の「心」は最早使い物にならなかったからだ。氷のような乾燥した風にさらされ、荒み果て、流れた血は凝固していた。バードック氏の亡霊はそんな心に取り憑いて、私の命を終わらせようとする。
どのくらいそうしていたのか分からないが、何時しか亡霊は気がついた。
自分の起こすポルターガイストを嘲笑う奴が体の中にいる――――
それからは彼、カースティンが絶対的な主導権を握るようになった。
仕方がなかった。生きていくためには確かにカースティン氏が必要だった。カースティン氏がいなければ私は性格分裂を起こしていただろう。私が生き残るためには、残忍で冷酷で、割に学習能力のないカースティン氏が必要だったのだ。憎むべき動物の自己防衛本能から、私はそういう男を一人、声を上げて笑いたくなるほど迅速に作り上げたのだ。あんな、ぼろぼろと言う言葉すらまだお上品に聞こえるような状態で、死にたいと思いながらも身体は正直だった。
私は死ぬのが怖かったのだ。
カースティン氏に何故学習能力がなかったかは後々話すことにしよう。
 カースティン氏がこの身体を乗っ取ってからは、物事が憎らしいほど簡単に、また円滑に進んだ。
カースティン氏は事も無げに身の上話をバイロンにしてのけた。バードック君にはできないことだ。
「人を殺した」
私は全然私の元を去らないバイロンに、無表情にそういった。
彼は片眉を引き攣ったように上げた。
「5人だ。一人目は片思いの女。滅多刺しさ」
「二人目は鬱陶しかった女。電気椅子でね・・・・・・」
「三人目は親友。一人目の女の後を追って、今は墓場だ」
「四人目は母親。そうさ、人食いの狼のところに置き去りにしたんだよ」
「五人目は・・・・・・」私は少し口ごもった。
「君だね」バイロンはその人相からは想像できないほどソフトに言ってのけた。
「そうだ。五人目は俺だ!」
バイロンは初めそう叫んだ私を疑るような眼で見たが、やがて彼は悲しそうな顔をするようになった。心優しい繊細なバードック君の死を悟ったからかもしれない。
カースティン氏は当時、バードック君が白痴のように求め続けた愛とか、幸福とか、そういうお涙頂戴の系統をばっさり切り捨てるだけの理性を持っていた。前にもいっただろうか、これを此処まで書き連ねるのは辛くて、出来ることならもう二度と読み返すことはしたくないから確認はしないが、情を追求して苦しむくらいなら残忍になりきったほうが、冷酷になりきったほうが、もっと簡単に言うのならば鬼になったほうがずっと楽なのだ。夜叉の方が人間よりもずっと単純である。狂人の方が常人よりもずっと幸せである。一人の人間は一つの宇宙よりもずっとずっと質量のある、広くて深い精神をうちに秘めているのだ。しかしその世界は、忍耐を続けられなくなるとか、ひとつ酷く衝撃的な事件がおこるとか、そんなことで圧縮されてしまうことがある。デフラグされて、ディスククリーンアップされてしまうのだ。それを正気の人間は一般的に「狂気」と呼ぶ。自分たちがよく知りもしないものに、言葉で名前をつけて支配下においてしまう。全く宝の持ち腐れだ。もっと深く考えれば、もっとよく感じれば、もっと酷く苦しめば彼らが自らの内に持つ「世界」は無限に広がるというのに。そうした時、ようやく我々は「神」という昔からよく憧れてきた偶像になりえるのだ。あぁ、だが、私は神になろうとは思わない。これ以上苦しんでまで神になろうとは思わない。崇拝されようとは思わない。生きることを諦める方がいい。どんなに大切なものを捨てることになっても、消滅する方がいい。人間のそんな中途半端で情に流されやすい馬鹿なところも、一つの味だと思う。私は神を崇拝するが、人間が好きだ。巻き込まれたくないようなことに私を巻き込んでも、やっぱり人間の織りなす運命と言う一枚の毛織物が好きだ。毛織物には色々な物が混ざりこんでいる。だから温かいのである。穴が開けば風が通り、人間の手で織れば穴は開き、神は人間の手をつくりたもうたのだ。人間の手は神を冒涜することも同じだけの血を流す人間を絞め殺すこともできるのに、神は人間に手をお与えになった。一本だけ異常な指を作って物をつかめるようにした。時には尊敬すべき年金生活者の老人のごま塩頭を鷲掴みにする手を!そんな背徳行為を促すようなものを人間に与えたのはなぜか?それは人間に毛織物を織らせるためである。鶴の羽や羊の毛を毟り、時には乱暴さを、時には優しさを交えながらカタン、コトンと織物をさせるために神は手をお与えになったのだ。神は自分の居間のガラスケースの中に人間の織りなす毛織物を飾っておく。時には美しい色を、大抵は哀しい色を、そして片隅に必ずどす黒さを抱えた毛織物を飾っておく。毛織物の模様が止まることは無い。何時もいつも流れるように動いているのだ。何て美しい織物なんだろう!
鬼とは化物だろうか?妖怪だろうか?違う。鬼は元々人間だったのだ。夜叉も鬼も、自分の心を守るためにフリーズドドライしてしまった人間か、切り刻まれすぎてまともな考えのできなくなった人間のなれの果てだ。人間は夜叉を恐れ、鬼を忌み嫌うが、自分がそうなる未知の可能性をもっていることに気づこうともしない!彼らはいつか、自分達が冷凍人間になって他人を嘲笑う「心」しか持たなくなるかもしれないし、ただの肉片となって世の道理を目を向けることなく見るようになるかもしれないという事実から目を背け続けている。そして代わりにするのは鬼や夜叉を蔑み、白眼視することなのだ。カースティン氏はそういう夜叉や鬼を蔑むだけの素晴らしく理想的な資質を備えていた。彼は四六時中やれ神だやれ慈悲だと騒いでいる俗物には嫌われるかもしれないが、私には重宝すべき人物だった。
 彼は私を可哀想だといったが、私にはそれも分からなかった。私が、もう終わったのだというと、彼は自分を可愛がることのできないお前が一番哀れだといった。私には彼の言うことが分からなかったが、多分私は哀れだったのだろう。
 バイロンは私の話を聞き終えたあとに、義理とでもいうように研究所の話をしだした。彼によると、そこは国が勿体無いと思うほどの才能を持った犯罪者が隠密に連れてこられる研究所らしい。そこで彼らは気ままに専門の研究を続けるわけだ。私が貴方もそうなのかときくと、バイロンは気まずそうにそうだと答えた。今思うと、私はかなり無遠慮な質問をしたのかもしれない。
「俺は夫婦を轢き殺したんだ」彼は短く簡潔に言った。しかし彼の声は震えていた。
「彼らは金持ちの親戚だった。ご子息は今は大物らしい」
私がその時彼から聞き出せたのはそれだけだったが、私はその声の響きから莫大な資産の餌食になったバイロンの、不条理を毛嫌いする性質を読み取った。きっと激怒したのだ。自分に完全な非があるわけでは無いのに重い刑罰を与えられたことに対して、きっと社会に復讐してやると思ったに違いない。彼の目にはそんな炎があった。
私は疲れていたから、そういうものは一切瞳の中になかったと思う。
彼は運命の不条理を理解できなかった。物事の進む方向なんてころころ変わるという事に彼は納得できない。私が慈悲を理解できないのと同じようなものだ。こればかりは生まれ持って出てきた性質なのだから、我々自身ではどうにもできない。
 何度も言うが、私は彼に本当に感謝している。ありがとう、ありがとうと会って言えればどんなに良いだろう!だが昔の私は捻くれていた。あの頃は彼のしたことが、私などを助けたことが、熱血な彼の気まぐれだとしか思っていなかった。私は一体彼に何度感謝の言葉を述べただろう?一度か?二度か?三度だったらいいほうかもしれない。私は彼に感謝したりないのだ。一生を欠けて恩返しをしなければならないはずだが、生憎私の一生は精々もってあと一ヵ月である。

 風の噂でマリーと弟が結婚したと知った。それでも構わないと思う。彼らが結ばれたかったのなら、私の関与することでは無い。好きにすればいい。私に害がなければそれで良い。そう思った。そう思うのは至極妥当なことで、なぜなら私はもうバードックの人間ではなかったからである。
それと噂ついでに母が死んだという事も知った。母は姓名が有名だったのに,その小さな街の新聞にも出なかった。肺癌だったという。私もなりやすい体質だった。

母はバードックの墓には埋めてもらえなかったそうだ。

























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