16
 今朝初めて喀血と言うものを体験した。
中々寝付けずにいたら急に苦しくなった。何か口に当てるものを探す猶予もなく咳き込んだ。それがいけなかったのだ。激痛だった、いっそ殺してくれとすら思った。肺が裂かれるような感覚が喉から伝わって、あっというまにシーツに花弁のような血が飛び散った。物凄く大きな咳に驚いたナイジェルが駆け上がってきて、ぐったりした私と血だらけのシーツを見て、気を失うほど吃驚したという次第だ。これでナイジェルにまたシーツを洗わせるという手間を掛けさせてしまう。せめて枕にやればよかった。
私は確実に死に近づいている。自分でもそれが分かるのだから相当なものだ。日々迫り来る圧迫感、絶対に追いかけられているという確信、逃げ切れない、でも逃げたい。
誰か分かってくれ!
スフィアが電気椅子に座るのは四日後だという。
 研究所に居候し始めてから半年後くらいに私を発見した男がいる。
スカルラッティ氏である。彼はコネを幾つも利用して研究所を見つけたという。我が故郷とイタリアの間にそんなに特別なコネクションがあるとは思えないのだが、愛想のいい彼のことだ、きっと無理矢理吐かせたのだろう。
「こんな所にいるなんて」彼の第一声はこれだった。そういいたくなるのもわかる気はする。
「落ちぶれたな、って言いに来たんでしょう」
そういう私を見て、スカルラッティ氏はやっぱり驚いた顔をした。
「変わったな」彼はそういった。
きっと私の、カースティンのことを見て言ったのだろう。ハイド氏の化身のような鉄骨の骨組みはあんまり愛想良くないのだ。
「ヴィオラはやめたのか?」
「指の神経を切ったんです」私は短く朗らかに言った。
スカルラッティ氏は酷く傷付いた顔をした。自分のことでもないのに、どうしてそんな顔をしたんだろう?未だに分からない。人間は、女性に限らず永遠の謎だ。肉体は勿論、精神はその百万倍も深い闇の中に包まれている。
「そんな顔で笑わないでくれ」
「どうして?」
「見てて痛い」
すると突然スカルラッティ氏はおいおいと泣き出した。いい年をして、大の男が、突然泣き出したのだ。私はどうしたらいいのか全くわからなかった。私の笑顔は痛かったらしい。他人の笑顔が痛いなんて、サッパリ意味が分からなかった。私はそういう経験をしたことがなかったからだろう。普通の人は沢山するのだろうか?「痛い笑顔」を見ることがあるのだろうか?私は幸せだったのだろうか?決して私自身に向けられない笑顔でも、身近にあったことを喜ぶべきなのだろうか?
分からない。理解不能である。
「このままでいいのか?」彼はばかばかしいことを聞いた。
「このままのほかに何かあるんですか?」私は答えた。
「此処まで来たからには、もう此処にしかいられません。私に義父の元へ戻れというんですか?それこそ酔狂です。私にはもう此処しか残されていないのです」
これを聞くと、彼はもう何も言わなくなった。彼はそれから一晩中私の隣で泣いていた。
 母が死んでからどのくらいたった頃かは忘れたが、私にとって重要だった相棒が、そして今でも重要な人物が、研究所に来た。
本名ユーリ・ロナン、仮名ユーリ・セヴェルスという男である。
初めて会ったとき、私とは正反対の人だと思った。外見だけでも、黒髪が長くて黒ずくめで、白子みたいな私とは全然違った。私と同じで着の身着のままで家出してきたようだった。彼は普段経済学を専攻していたそうだが、遺伝子工学も驚くほどデキた。論文は勿論良かった。彼は根っからの上流貴族だったから、文法においては非常に優れていた。綴りがまちがっているなんてことはまずなかった。そして「私と違って」実技にも長けていた。
 何の運命だか知らないが、バイロンは私とユーリを研究のペアにした。明らかに略称を狙っていたが、チーム名は「ダイダロスの遺伝子」、英語にすると「Gene of Daedalus」、略称は「GOD(神)」になった。もうこれは冗談としか思えない。しかし、どうやらバイロンは大げさな名前をつけるのが大好きらしくて、私は研究所の中で他にも「サテュロス」とか「エルコレ(ヘラクレスのフランス語読み)」なんていう名前を見たことがある。
 ペアにされて、彼は私と同棲することになった。官舎の部屋はそれほど多くなかったからだ。他のペアも大抵は同性同士だったので、同棲を強制された。だから私は彼にこんなに詳しいのだ。日常生活においては、彼は私にとっては対極にいる男だったから、膝を突き合わせて話し合っても何も彼の事は分からなかったのだ。
彼は初め、私にあまり過去の話をしたがらなかった。誰だってそうだ。話したくない過去のない人間があそこにいるはずがない。囚人か逃亡者なのだから。そのどちらもれっきとした理由なく罪を犯した、とは言い切れないはずだ。しかし彼が身の上を話さないなら私も話すわけにはいかなかった。これと言った理由があったわけでは無い。ただの意地だ。どうしても言いたくなかった。彼が折れても言いたくなかった。
 ある夜、彼がウィスキーを飲みすぎたことがある。珍しいことだった。多分嫌なことがあったのだろう。例えば、故郷に残してきた人のことをうたた寝のうちに夢に見てしまったとか、そんなことだったのだろう。
ユーリは酒の勢いに任せて突然話し出した。
「俺はマリッツ・コンツェルンの後継者候補だった」
私は一体何の話をしているのだろうと思った。彼はぐでんぐでんに酔っ払っていた。
「俺の許婚は派閥の所為で殺されたんだ」
身の上話はいつか聞かなければならないと思っていたが。
酒の力を借りるなんて、フェアじゃないと思う。
彼の話によると、彼の許婚が殺されたから、キレて飛び出してきたのだという。
―――世間知らずの坊ちゃんだ。それでも私よりずっと優れていることには変わりない。
私は全く酔っていなかった。ほとんど素面だった。眠くなるだけの損な体質だったからだ。
「義父はよく私を殴ったんだ。耐え切れなくて飛び出して来た。それだけだよ」
ユーリは訝しげに私を見た。まだあると気づいていたのだ。どちらかと言うと「感じて」いた、と言うべきかも知れない。
「大変だったね」私はまるで嘘を誤魔化すかのようにいった。
彼は愛されていた。きっと父からも愛されていただろう。そして、決定的な事実は彼自身が愛すべき人を愛する権利を持っていた、ということだ。
ぜいたくだ、と思う。
先にも言ったように、私と彼は正反対だった。私は愛することの反対は無関心でいることだと思う。彼は愛する人を失って憎しみを抱いたが、私は愛する人々を失ってただ絶望し、諦めてしまっただけだった。何を憎めというのだろう?スフィアか?あの何の罪悪感も無さそうなスフィアを憎めというのか?私を愛してくれた彼女を?それとも私が私を憎めとでも言うのだろうか。所詮私はエゴイストなのだからそんなことができるわけがないだろう。私は自分を詰るか陥れるか愛するか、のどれかしかできない男なのだ。
私は人間として情をもつことを捨てた。そうやって同じ間違いを犯せばどういうことになるかは身に染みてよく分かっていたからだ。私は疲れていたのだ。
 ふとスフィアがどうしているのか気になった。
精神病院の飯は美味しいんだろうかとか、ヴァイオリンは続けているのだろうかとか、そんな他愛のないことだ。彼女は私が指を壊したことを知らなかった。
それから、あぁ、私はその時やっと昔を見返すことができるようになったのだと気がついた。どんなに他愛のないことであっても、私にとっては大進歩だった。もう輝かしい青春のことはほとんど忘れていた、と言うよりは忘れてしまおうとしていたのだ。四重奏団のことを思い出すと私の心はまたしても滅多刺しにされるから。
初めて思い返してみて感傷に浸ることのできる人物がスフィアだったなんて、皮肉なものである。あんなに彼女を嫌がっていたのは結局人見知りだったのだ。
 暫くユーリと暮らしてから、バイロンが妙な様子なのに気がついた。
どうも彼はユーリが気になって仕方がないようだったのだ。
私は昔から残業三昧だったが、バイロンが見に来たことはほとんどない。きっとユーリが残業しているときはもっといったのだろう。その数少ない中でも一番印象深かったのは、バイロンがユーリに対して抱く「恐怖」を打ち明けてくれたときである。
「彼の兄を知っているんだ」彼は震えながら言った。
「俺の轢いた夫婦はあいつの養父の両親だったんだ。あいつの兄の話は・・・・・・お前は幼かったから知らないだろうが・・・・・・ロナン伯爵家の没落の発端は長男の殺人の冤罪だった。ユーリの兄貴は俺の向かいの独房にいたんだよ」
私はぎょっとして彼を見た。背筋がぞぉっと冷たくなった。バイロンは廃人のようにぶつぶつと呟いていた。
「今でも覚えてる。あいつの兄貴はアンリって言うんだ、本当に男前だったんだが・・・・・・俺の轢いた夫婦の名前を聞いたら、自白したんだ。もちろん嘘の自白だったがね。あいつは嘘をついてまで死にたがったんだ。俺はまちがってたか?アンリにだったら話しても良いだろうと思ったんだが、奴は俺が奴の友達の親を轢き殺した奴だって聞いて、俺のお向かいにいるのが嫌になったらしいんだ。なぁ、俺だって誰かに言いたかったんだ。重荷を押し付けたかった。だけど奴は、奴は・・・・・・死んだ!多分マリッツ・コンツェルンの総帥とアンリは親しかったんだろうな・・・・・・ユーリの顔を見ると思い出すんだ。死に際のアンリは・・・・・・綺麗な赤毛の恋人の前で、泣いてた」
そしてバイロンは私に縋りついて泣き出した。
「凄いヘッドライトに目が霞んだんだ――慌てて避けたら、バンッて・・・・・・・一人は弾き飛ばされた・・・・・・もう一人は追いかけてって、車にぶつかって、フロントガラスに腹を押し付けて、ズルズル落ちてった。目が忘れられないんだ!じっと俺を見てた!」
「おちついてください」
「メリメリッて音がした。踏んづけたんだ、初めの奴を・・・・・・次の奴は衝撃で目玉が飛び出てフロントガラスの前でつぶれて・・・・・・」
「やめてください。落ち着いて。話さないほうがいい」
「舌が・・・・・・舌が出てたんだよ、そいつがフロントガラスに後をつけてくんだ、眼を逸らしたら窓の外は血の海だった。黄色い内臓が紅い血に混ざってた・・・・・・俺がやったんだ・・・・・・」
「黙って!」私は怒鳴った。
「アンリが死のうがユーリが落ちぶれようが」バイロンはご丁寧にも私の白衣で涙と鼻水を拭いてくれた。
「俺にはあいつらは気持ち悪い代物でしかないんだよ。泣き叫ぶ奴等の子供を見ても、そうとしか思えなかったんだ」
私はどういうわけか昔から人によく泣きつかれる。バイロンの話は支離滅裂だったので、何故泣いていたのかはよく分からない。そのアンリとか言う男のことを思い出して泣いていたのか、自分の所為でユーリが研究所に流れてくるような運命に陥ったことを悔んで泣いていたのか、はたまた自分の殺してしまった人たちを人間として受け入れられないことに罪悪感を感じていたのか、それともその全部だったのだろうか?どの道死んだ人を忍んでも生き返って来はしないし、ユーリがそこに来たことはもう取り消せない事実だった。私が今どれだけ母を忍んでも、どれだけレイチェルを忍んでも、またどれだけスフィアを忍んでも彼女たちが戻ってこないのと同じだ。そしてやってしまった事はもう消すことが出来ないのだ。丁度暴力によって破り去られてしまった処女膜のように。
それでも、バイロンが自分を頼ってくれて少し嬉しかったのを覚えている。

 ユーリは非常に優秀な相棒だった。私は彼に感謝している。















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