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 どうしてこういうときに涙が出ないんだろう?
もうあの綺麗で純真なスフィアはいない。死んだ、殺されてしまった・・・・・・
違う!お前が殺したのだ、ルドルフ!
カースティンはそういった。バードックを殺し、己の肉を貪り食った。彼は計算された冷徹さの中で徐々におかしくなっていき、彼は殻を破ってでてきた。その時彼は歓喜の叫びを上げたのだ。
人を殺した!
 涙は涸れてしまったのか、それとも我慢しすぎて涙腺がおかしくなったのか、全く涙は出てこない。とにかく故人を惜しみながら独りで悶々としているのは泣き叫ぶよりも百倍も悪い。泣けば大抵のことは忘れられるし、我を忘れてしまって自分のやった事や個人との思い出を思い返す暇もないが、悶えれば全てを心の中に押し込み、自分の内へ忍び込んでくる絶望と戦わなければならないからだ。
それとも、涙が出ないのは私が殺人に快楽を覚えたからか?
 部屋の中に手が見える。
私のベッドのすぐ前にはただの灰色の壁しかない。そこから白魚のようなたおやかな手が二本、いつも手招きしている。
この前血を吐いたときには左足を掴まれた。それから、ベッドから引き摺り落とされるほど引っ張られた。手はひんやりとして、蒟蒻のようにぬるぬるして弾力があった。私はシーツを掴んで連れて行かれないように踏ん張った・・・・・・私には分かっていた。あれはとうとう私を息子として母の腕の中に捕えようとし始めた母の手だった。
 母が私を迎えに来たのだ・・・・・・
その時ナイジェルが来て、手は跡形もなく消え去った。
母は、私が死ぬときになってやっと私に目を向けてくれたのだろうか。あの世で、義父も弟もいないことを苦に思って、私を手元に置こうとでも思ったのだろうか。それならばきっと、弟か義父がそこまで来たら、私はお役目終了として捨てられてしまうのだろう。それまで母の慰みになるのだろう。そんな屈辱的なことができるだろうか?私は彼女の腕の中ではただの玩具にしか過ぎないのだ。彼女の溢れる母性愛を束の間入れておく器に過ぎないのだ。やがて私の中の愛は全て乾き、他の男へと注がれることになるのだ。
しかし、それでもいい、と思ってしまう私は馬鹿だろうか?それでもそう思うのだ。母が私を欲してくれたというそれだけのことでも十分だ。私は一度母を見捨てた。それなのに彼女は私を求めてくれるのだ。私がスフィアを死刑にしたようなものだったのに、彼女が最後まで私のことを愛してくれたのと同じようなものだと思いたい。それならば私は過去の罪の、母を生贄にしたという罪の償いをしなくてはならないと思う。もう1つ、私が彼女の元に行きたい理由があるが、それは私が途方もなく母を愛しているということだ。
しかしきっとあの手は、私の自分勝手な幻影なのだろう。
私はナイジェルにそのことを言わなかった。彼を怖がらせるからだ。既に一度スフィアのことについて私は罪を犯した。だからもうナイジェルに悪い事をしてはいけない。
 私が何故亡命しようと決心したかをお話しよう。
私は研究所に入ってから格段に女癖が悪くなった。女性研究員を片っ端から食っていると言われたほどだ。私は男性研究員の不快感を大いに買ったが、別に不名誉だとも思わない。行き当たりばったり気味に女を抱いてその場限りの癒しを求め、玉砕するのが常だったのだ。女のほうも嫌な顔はしなかった。遊びだと割り切っていた。皮肉なことに人間味たっぷりのバードック君よりも、理性と狂気が吹きさらしになったカースティン氏の方が女性には好まれたのである。カースティンはあの義父の面影を色濃く受け継いでいるのだ。最早その影から逃れることは叶わず、だんだん義父に蝕まれていくのだ。
私を蝕む癌は義父である!決して肺癌などではないのだ!
 そうそう、亡命の話をしなくてはならない。あの日、私は使いっぱしりで外に出ていた。酷く蒸し暑く、一雨降りそうな天気だった。そのときは別に何か事故があるとは思っていなかった。
 人は晴れた日に大嵐のことを考えないといったのは、確かスカルラッティ氏の故郷フィレンツェの書記官マキアヴェッリだったように思える。まさにそのとおりだと思う。あの日は本当に平和に見えた。とにかく上っ面だけは、だ。
裏路地の安い薬局でエタノールをごっそり買わなければならなかった。実験中に足りなくなったのだ。あれは私の過失だった。買い足さなければいけなかった。どこかの誰かが細かな薬品代をけちったのがいけない。そんな下らないことをするために、私は大通りから一本逸れた横道に入った。しかしそれがいけなかったのだ。
通りに入るや否や、突然誰かにぶつかられた。咄嗟に感じたのは息の詰まるような感じだった。そして自分の白いセーターの腹部に真っ赤な染みができるのを身た。私は呆然として、自由の利かない手を自分の腹に当てて血で浸しながら、その傷を他人事のように眺めていた。
全身を走る、電流のような激痛――――やっと気がついたときには、もう犯人は後姿を見せていた。
自分は通り魔に遭ったのだ。初めはそう思った。
咄嗟に相手を見た。相手はもう遠くに行っていたけれど、私の万能眼鏡で何とか腕章くらいまでは見えた。例え見たとしても、、私は彼を訴えられるような身分ではなかったが。なぜかというと、国の上層部だけが知っている機関のことがばれたら、我々はスパイの標的となり、折角の技術を盗まれるくらいだったら、今の上層部はいっそそ知らぬふりをして我々をつぶしてしまうだろうからだ。そして我々は敬虔なクリスチャンたちから容赦ないクーデターの洗礼を受け、みんな首と胴体がお別れしてしまうことになるだろう。まるでフランス革命みたいな話だ。ひょっとすると、遺伝子操作嫌いの市民を楯にとって警察が上層部を脅かして国を乗っ取ってしまう可能性だってあった。
 さて、話を戻そう。その腕章が大きな問題だったのだ。大問題だったのだ。その腕章はドナチアン・バードック氏の経営する、トカゲの紋章の武器会社のマークだったのである。
私は狙われていたのだ。義父が執念深いのを、その頃にはすっかり忘れていた。
私は激痛に朦朧とする意識の中、片足を墓穴に突っ込んでいるような状態で何とか研究所に戻っていった。そんな体験は前にも一度やったことがある。そうだ、あの逃走劇だ・・・・・・あの時も義父が私を傷つけ、私は三キロメートルもあの雪の中を傷負いで歩かなければならなかった。その時私には道行く人が、路上で生活している方々が、娼婦たちが、電話ボックスの中にいる人でさえ自分を攻撃するためにいる刺客に見えた。実際のところ、彼らは私を奇怪なものでも見るような眼で見つめながら後ずさりし、なるべく係わり合いにならないように遠退いていっていた。
もしかしたらナイフの切っ先に毒でも塗ってあったのかもしれない。私には彼らが奇妙な形にゆがんで、まるで散々加熱されて解けてしまい、ぐちゃぐちゃになったプラスチックの下敷きみたいに見えた。それはただでさえ過敏になっていた私の神経を異様に逆撫でして、私はそのとき全てのものを攻撃したい気分に襲われた。丁度私が弟とマリーを見た夕暮れのようにだ。義父はいつもあんな感覚の中に生きているのだろうか?奔流のような嗜虐心である。
 私は何とかして研究所にたどりつけた。きっと神の思し召しだったのだろう。私は何時だって妙に悪運が強いのだ。そんなだから、あんな義父を持つし、四六時中本命の女には振られっぱなしだし、しかも生きていて仕方がないときに生き延びてしまうのだ。研究所に帰ったときには、失血と損傷でぼろぼろになっていたが、それでも本当に心の底から安心した。バイロンは血みどろの私に驚きすぎて私を丸々三分間も見つめたまま突っ立っていた。それを見かねたユーリがあわてて止血してくれたから私は生き延びられたのだ。せっかく彼の助けてくれた命も、私の肺の中の小さな癌のおかげでもうすぐ尽きようとしているけれども。それも元はといえば義父のせいだ。
 私はこのときユーリとバイロンに過去の詳細を話さなければならなかった。2人とも、私がどうして襲撃されたのか激しく問い詰めたからだ。二人とも絶対譲ろうとしなかった。女は三人集まるとうるさくなると言うが、勿論二人だけでも充分うるさい。それと同じで、男は三人寄れば意志を固められるが、二人だけだと頑固になるのだ。もし言わなかったら、縛り上げられて、逆さ吊りにされて、真実を吐くまで食事抜きとか言う恐ろしく子供っぽい刑罰に掛けられたかもしれない。それはそれで辛いと思うのだが。しかし、黙っておくべきではない、とも思った。黙っておくよりは言った方が遥かに損害も少ない。私は最終的に今までに話したようなことを彼らに簡潔に告げた。
 バイロンは、感じやすい性質だからか、私の話を今一度聞いて涙を目に溜め込んでいた。ユーリは奇怪なものを見るような眼で私を見た。私のような目にあった人間は少ないかもしれないが、父親が暴力を振るう家庭は沢山あるだろう。
 ユーリと私は相容れない存在だったのかもしれない。彼は愛しすぎたから、私は疲れてしまったから研究所にやってきた。ユーリの様に愛する気力が残っていればよかったのに、私にはそれすらなかった。そういう人間が生まれたときから持っているプラスの力は色々な俗世の害悪に削り取られてしまって、残ったのは歪んだ形をした芯だけだったに違いない。良くてもせいぜいが愛することに対しての漠然とした恐怖、もしくは嫌悪といったところだろう。
愛するの対義語は憎むではない。多くの人が勘違いをしている。愛することを行えば必然的に憎しみも湧いてくるものだ。人間の感情に綺麗なものだけというのがあるわけがないのだ。そもそも人間そのものが不浄の生き物であり、良心と欲の間で彷徨う運命にあるのだから。愛情と憎悪とは二つとも表裏一体の事物であり、二つの対義語は無気力、無関心である。
 私はもうそれ以上その国にはいられないと思った。そこにいればいずれは刺客の手にかかっただろう。絶対に義父の手にかかって死ぬのは嫌だった。そんなことは私の海より深いプライドが許さなかった。
スカルラッティ氏は外交官で官吏だったので、亡命させてもらえないかと頼んでみた。無謀な頼みごとだった。政治家に頼みごとをするのには山のような金がいるのは知っていたが、私はそれなしで突っ込んだのだ。私は金の変わりに、相手の目の前に私の悲惨な人生を突きつけた。
スカルラッティ氏はそれで良いのか、ときいた。私はそれで良いと言った。今になってやっと少し分かる。彼は、私が亡命をすることが結局は逃げ出すことであること、全く何の解決にもならないことを知っていたに違いない。そしてきっと、私が後悔する事も手に取るように分かっていたのだろう。事実だ。彼は正しかったのだ。私は否定しようもなく、後悔している。
 あぁ、故郷よ、わが土よ!私はお前が恋しくて堪らない!
どうして私は亡命したのか、今でも時々わからなくなる。義父の手にかかって死ぬほうが、母の手に抱かれて逝くよりも何ぼかましだったかもしれない。私は母に罪悪感を抱いているのだ。私は肉親を見捨てた。だからあんな幻を見るのだ。母の手は気持ちの悪い感触だ。全ての母親があんな風に、奇妙に柔らかくてひんやりした手を持っているのなら、私はそれには全然慣れていないからあまり嬉しくない。あんな蒟蒻みたいな手に絞め殺されるのと、銃で一発ドカンとやられるのだったら後者のほうが断然マシだ。どんなに義父の手にかかるのが嫌でも、蒟蒻に絞め殺されるよりはマシである。軍人は断頭台よりも射殺を望む。病死よりも戦死を望む。それと全く同じように、私は絞殺よりも射殺を望んでいる。・・・・・・ような気もする。
 スカルラッティ氏は、亡命は可能だといった。
まだそのことは、ほかの誰にも告げなかった。

















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