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 私の使ったある卑劣な手管について話そう。
私はここで、このこれから生きるべき人々にあてる手紙の中で初めて罪を認める。これが初めての懺悔なのだ。その「手管」の犠牲者は今も私と共に暮らしている。ついこの前も、私は彼に対して何度目か知れない罪を犯したばかりだ。
これを読んできた方々にはもうお見通しだろうか?そう、犠牲者と言うのはナイジェルである。彼こそが真に、この話の悲劇の主人公なのだ。
ナイジェルは、スフィアと同じで重度のアルビノだった。もしかするとスフィアよりも酷かったかもしれない。人間を人間として認識できないほどだったのだ。彼と出会った後、彼の主治医に聞いたのだが、彼は医者のことをクラゲか何かだと思っていたらしく、物珍しげな目でいつもみられていたという。この義弟は、元はリア・・・・・・じゃない、キャロルの実の弟だった。今も勿論そうなのだが、私が勝手に義弟扱いしているのである。
俗世で暮らすには余りにも愚鈍で純粋だったナイジェルを病院で保護するために、キャロルと彼女の母は身を粉にして工場で働いた。二人で紡績をやり、日曜日は往来の人の服を繕う、そんな事を死ぬ気で命を削りながらやっていれば、ナイジェルの入院費と極貧生活の中二人だけで生きていく位の金は稼げたのだ。生きていくために、二人は何でもやった。死体公示所に上げる死体の洗浄だって、下水道に落としたものを拾う仕事だってやった。金が入って出来ることことならほぼ全てやったのだ。一ヶ月に一回会うか会わないかの、言葉が通じない、自分たちを人間とも思っていない弟への無償の愛を込めて。
しかし母親は殺された。多くの貧乏女が大戦前のパリでそうしていたように、彼女は情人を作った。娘にそれ以上苦労をさせてはいけないと思ったのだ。情人は妙なところで役に立ってくれる。その男もろくでなしだったらしいが、多少の稼ぎをくれたらしい。しかしその情人は年をとって働きすぎで美貌を失った母親では満足できなかった、だからあの・・・・・・あの強くて美しいキャロルに手を出そうとした。キャロルは抵抗したが、とても敵いそうに無かった。
母親は娘を庇って死んだ。逆上した男に刺されたのである。
彼女がどんなに悲しんでも苦しんでも母親は生き返らなかった。ナイジェルの入院費は日に日にかさむようになった。彼女の弟は母親が死んでも悲しみもしなかったが、それでも彼女は弟を愛していた。何という素晴らしい愛だろう!一体この世の中でどのくらいの人が彼女の真似を出来るだろうか!そして彼女は弟をこの汚らわしい俗世から守るために、母親を亡くしたのも知らずに涙1つ流してやらなかった弟を清潔な病室に保護しておくために、彼女の持てる最後のものを売ったのである。
この哀れな娘は娼婦になった。
以上に述べたことは全てキャロルが自分で、口頭で説明してくれたことである。彼女はこれを述べるときに涙の一粒も浮かべなかった。すこぶる快活に言ってのけた。「全てあの子のためだったのよ」と、大抵の娘が命を掛けてでも守りたがるものを全て失くしてしまったのに、胸を張って言えるほどキャロルは強い女性だった。
この世のなんと理不尽なことだろう!こんなによい娘が、こんなに気丈な娘が娼婦となって都市の坩堝に呑みこまれていき、私利私欲におぼれる愚鈍極まりない人間ばかりがベルベットのソファに沈み込んで絹のハンカチでケツを拭くのだ。キャロルは身体を犠牲にし、私は他人を贄にした。全て社会が悪いのだ。なんて哀れな人間だろう!こんなに道理に適わない社会なんてものに縛り付けられなければ、寂しすぎて生きていけないのが現実なのである。
 ナイジェルは充分すぎるほど愛されていたのに、彼自身は彼女たちを認識できなかった。病気の所為だとは分かっていても、私は彼になんともいえない嫉妬の念を感じた。
この世では弟や妹が恵まれすぎていると思う。しかも恩知らずだ。そして長男は弟を厭う運命にあるのかもしれない。カインとアベルのように、私も弟も血縁者としては悲しすぎるほどにいがみ合った。私は彼を憎み、彼は私を傷つけた。彼が優先され、褒めちぎられ、愛される代わりに、私が彼の受けるべき試練や苦しみを全て一生分受け取った。裕福になった女の同じ腹から生まれたのに、一方は宿無しに、一方は放蕩息子になった。まるで鏡に映る虚像の姿が違うかのような話だ!弟が鏡を覗いているときにみすぼらしくその鏡に映るのは私に違いない。そして弟は激しい怒りとともに鏡を拳で砕いてしまうのだ。全く同じように見えて常に対立していった。進む方向も違えば行き先も違った。彼は今幸せだろうか?私の苦痛は彼の幸せに反比例する。きっと彼は今とても幸せだろう、あぁ、それ以外の何だというのだろう!
また、ナイジェルにしても、家族に死ぬほど愛されているという世にも素晴らしいことを認識できない方が、身を粉にして働いて愛を捧げるにも拘らず報われることのない運命よりはずっと幸せだったに違いない。
 キャロルは来てから暫くして、彼女の本名と肉親を明かした。
ナイジェルはやっぱり病院で入院していた。女が一人体を売るだけでは到底賄えないような費用はもう三か月分も滞納していて、何時追い出されてもおかしくない状態だった。そこで「またしても」、私が迎えにやられた。
 あの時私は、全くスフィアのデ・ジャ・ヴュを見ているように感じた。やっぱり彼も銀髪に赤眼で、その時は眼の色は分からなかったのだが、すやすやと眠っていた。
白。白。白の洪水の中に差し込む金の光。その光の中で穏やかに眠る白金の王子。
私もアルビノだったら、精神をわずらっていたらあんな綺麗なところで生きていられたのだろうか?これまでの人生の中で何度も狂ってしまったほうがずっと楽だろうと思ったことがある。死ぬよりもそっちの方が痛くないからだ。三食寝床つきであの家から追い払ってくれたんだったらこの上もない幸福である。考えるのがいやになることも沢山あった。皆さんも一度は、起き抜けに「このまま消滅してしまいたい」と思うことがなかっただろうか?完全に頭がおかしくなる、つまり狂うということは、魂の「消滅」にぴったり当てはまるのだ。死ぬのは大抵は痛みを伴うし、私はそれが怖いのである。だから気違いになりたかった。どんなに痛めつけられても、嫌いなものは嫌いなのだ。私は苦痛にいつまでもなれないし、奴らが大嫌いだ。だんだんだんだん私の精神を蝕んでいく。そして最後には苦痛が私を乗っ取ってしまうような気分になる。
アルビノだった彼らのそれによく似た私の銀髪は、最後まで大した幸運は運んでくれなかった。母が弟を愛したのはきっと私の銀髪の所為なのだ。母は自分を捨てるなり置いていくなりした男の面影を私の髪に見るのが苦痛だったに違いない。母は生粋の赤毛の家系だったのだから、私たちを置いていった父親が銀髪だったに違いないのだ。
そう思っていなければ気が狂いそうだった。私によく似た弟の方を皆が可愛がるのは、お前の方が劣っているのだと面と向って言われるようなものだったからだ。例えそれが事実だったとしても認めたくなかった。自分が本当に価値のない人間だなんて思いたくなかった。結局、どんなに狂いたくても最終的には自己防衛に走る、私はそういう中途半端でだらしない人間なのである。それでも、どんなに自分のやっていることが矛盾していると分かっていても、いっそ狂ってしまったほうが、生きている間に私を愛すことのなかった母の幻想と共に生きる方が、キャロルとユーリの幸せを見せ付けられるよりもずっとマシだと思った。
 彼はなぜか英語を話した。しかしまあ、彼の知能の範囲で話せるのがそれだけだったのかもしれない。言葉は通じれば問題ないのだから、私はそれでも一向に構わなかった。彼は初対面の私に異常なほどよく懐いた。何故だかは分からない。犬がトレーナーに懐くようなものだろうか。それとも何も知らないラットが、研究者の手袋に鼻を摺り寄せるようなものだろうか。
 私は彼にある種の治療を施した。全くの気まぐれから、と言うのでは無い。半ば気まぐれ、半ば憎悪からだ。今では愛すべき青年になったナイジェルに、少し前まで私は嫉妬し、また羨望していた。勿論法律では認められていないし、半ばナイジェルをモルモットにするようなオリジナルの治療法で、成功するかどうかも分からない代物だった。
その治療は、成功はした。彼は凡人になった。キャロルは泣いて喜んだ。
でも、私はそれが彼の幸福だったとは思わない。
それによって彼の見た事もないもの、見たくも無いであろうものたちを見せ付けられることになったからだ。彼はきっと、それまでの自分のあり方を恥じただろうが、私はあれでもよかったと思う。あれのほうが幸せだったのだ。私のような汚い人間が隣にいるのだと気づくよりはずっと幸せだった。自分が取るに足らない一人の子供だと感じるのも嫌だっただろう。
それでも、キャロルに愛されていたのだから、幸せなのだろうか?

 ユーリは私にはすぐ分かるようなやり方でキャロルにアプローチしていたが、生憎キャロルの方は全く認識してくれなかった。ユーリ自身自分のやっている事に気づいていなかったらしい。そんなことでは他人は靡いてくれない。しかし私には幸いだった。キャロルがユーリに惹かれると、私にとっては色々不都合だったからだ。
 亡命がすぐそこに迫っていた。直に故郷を捨てなければならない日が来ていた。私は最後まで黙っていようと思っていた。その方が潔いと思ったからだ。
しかし卑怯にも、私は土壇場になってユーリに亡命することを告げた。初めはユーリを、バードック君の形見のように可愛がっていたけれど、時を経るにつれて、彼は私の弟に見えてきた。あの、義父にそっくりな傲慢さで、私と同じように母を見殺しにした実弟に、だ。実弟も義父も母の身柄の責任をとったはずなのに彼女を自分たちの墓に入れてやらなかったのだ。哀れな母よ!彼女は苦しんだ末に数々の罪人とともに葬られた。そう、彼女が死んだ後に行った先は共同墓地の一角だったのである!しかも、話を戻すが、ユーリ自身が傲慢だったというわけではなくて、母にそっくりなキャロルの愛する相手が自分ではなかったと言う理由だけで、私はそういう、人間として唾棄すべき、恥ずべき告解を犯した。ユーリを自分勝手な偏見から蔑んだのと同じである。
ユーリは高尚な人間だ。堅実で、自分の主義や思想に反することは絶対しない。たとえ彼自身が酷い差別や逆境にあったとしても、それが彼の意志に従った理由からならば、彼はキャロルのようにきっぱりと「それで良い」と言い切れるだろう。ユーリとキャロルは似ていた。キャロルと母は、似ているようで全然違った。キャロルは母よりもずっと芯の強い女性だった。今思えばそうやって認識できるのだが、あの頃は、といっても人間誰でもそうだが、死んだ人間と言うのは生前よりずっと美化されるので、母もキャロルも同じ人物に見えたのだった。キャロルが私を愛せば母も私を愛しているのだというような奇妙な妄執に取り付かれていた。研究所での私はちょっとおかしかったのかもしれない。狂気は伝染する、としみじみ思い知らされる。
私が弟のことをとやかく言える立場では無いことくらい知っている。私だって母を見捨てて家をでたのだ。弟が全然母の愛に報いるという精神を持っていなかったのと同じで、私も結局は母を顧みなかったことになる。私は誰を責める事も出来ないのだ。いくら物分りの悪い男だったにしろ、私もいい加減反省して、誰かを傷つける事をやめなければならなかった。
それでも、故郷を去る前に、そして死ぬ前に、一度くらい叩きのめしてやりたかったのだ。一度くらい、私を差し置いてどんどん幸せになっていく周りの人間を、不幸のどん底に突き落としてやりたかった。彼らには非のない私の不運を、誰かの所為にしてしまって、その仇を討とうという嗜虐心に溺れた。悪魔のような衝動だった。丁度あの、私の住んでいたソドムを初めて直視した日のように、何かを破壊したいという、そして誰かを傷つけたいという願望に囚われていたのだ。
 私はフィレンツェにナイジェルを連れて行くことにした。白状すると、私はナイジェルを利用しようとしたのだ。あれだけ毛嫌いしていた、人をチェスの駒のように扱う人間に成り下がったのだ。ナイジェルを連れて行ったならば、キャロルは私を追うだろうと思った。ユーリは酷く悲しむだろう。それでも彼は、そんなそぶりを微塵も見せなかっただろうが。
それと言うのも、外見は全然進展していないように見えても、彼らは深いところで繋ぎあわされていたからだ。
 思ったとおりだった。私がナイジェルを連れて行くというと、キャロルは少し吃驚して、それから私を縋るように見た。私が、一緒に来るかい、と言うと、彼女は長い間考え込んで、それから小さく頷いた。彼女がナイジェルを愛していたからだ。絶対に手放したくないと思ったからだ。
 もうキャロルは私のものだった。死ぬまで一緒にいてくれると思った。私が死ぬのはどうせ早いのだから、私が死んだらキャロルを返せば良い。キャロルとユーリが幸せになるのはそれからでもいいだろう。そう思っていた。馬鹿なことだ。亡命した人間が祖国に帰るなんてありえないことだとは知っていたはずだ。そんなはなれ業はナイジェルだけで充分だったのに。一生を棒に振る事件なのに。
またスフィアに幸せな生活をぐちゃぐちゃにされなければ良いけれど、と思いつつ、本気ではそれを心配していなかったのも事実だ。きっとキャロルはスフィアとうまくやっていけるだろうと思った。アルビノの人間の扱い方を誰よりもよく知っていたはずだから。それに私はスフィアにとてもあいたかった。
ユーリはなにも言わずに、傍から見ていて痛々しい目でキャロルを見ていた。私のことは半ば怒り、半ば哀れむような眼で見ていた。そんな目で見て欲しくなかった。まるで私の事を何も知らない赤ん坊か何かのように扱っているように思ったのだ。誰かを不幸にすることでしか幸せを得られない人間は可哀想だ、とでもいわれているようだった。あぁ、そうだ、ユーリの言うことはいつでも正しかった!正しい人にこそ従うべきだ。でも私は正しい人間は嫌いだ。なぜなら自分が正しくないからだ、自分がどれだけ下等な人間かまじまじと見せ付けられるのは、プライドの高い人間には苦痛だからだ。そんなわけで、キャロルを自分のものにしたと思いこもうとするほど、そしてユーリの突き刺すような視線を肌に感じるほど、私は惨めになっていった。
自分が自己嫌悪に陥らないために、たったそれだけのために、私はユーリを殴り殺してやりたかった。義父が私にしたように。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、こんなに汚くてごめんなさい、卑小でごめんなさい、優しくなくてごめんなさい、出会ってしまってごめんなさい、逃げ出して来てごめんなさい、生まれてきてごめんなさい、一緒にいてしまってごめんなさい、駄目人間でごめんなさい、存在してしまってごめんなさい、「繋がり」を求めてごめんなさい、ユーリにキャロルにスフィアにジョージにレイチェルにナイジェルに母さん!!!!こんなに他人に迷惑をかけてばかりいなくては生きていけないのも、全て私が人間であるせいなのだ!あぁ!神よ、私を赦したまえ!

だけど、誰か僕に「ありのままでいいんだよ」といってください・・・・・・・・・・・・

疲れてしまった。私はとても疲れてしまった。思えばもう20年も前から疲れていたのだ。やっと今人間としての最盛期を迎えようとしているところで、私はぼろぼろになって死んでゆく。私の周りにいた人間たちは暖かい家庭を築き上げている頃なのに、私の周りには私の罪悪の被害者しかいない。
逃げてはいけない。逃走は敗北を意味すると、身に染みて知っているはずだ。被害者と膝をつき合わせていなければいけない。眼をそらしてはいけない。一秒間でも、私が罪を忘れる瞬間があってはいけない。もうずっと自分に優しくしてきたのだから、今度は自分に厳しくする番だ。私はできる範囲で償いをし、そのために残りの僅かな命を全て注ぎきらなければならない。私はせめてナイジェルを世界一幸福な男にしてやる位の意気でいなければいけない。私の青春は、他人のそれとは違って穏やかに風化することはなく、音を立てて倒壊した。それがどんな音だったか知っているか、諸君?それは善良な一人の男のすすり泣く声だったのだ!その男は私を救ってくれた男だった!私を虚無の深淵から引っ張り出してくれた男だったのだ!私がその男を絶望の奈落へと引きずり落としてしまった!そうだ、私の青春はジョージが私を平手打ちしたときに既に崩れ去っていたのだ!

 私は臆病だったから、ユーリを殴り殺そうとはしなかった。
私が義父を赦そうとしたのは、半ば同情心からだ。しかし私が本当に義父を分かったのは、私がユーリを殴り殺してやりたいと思ったあのときなのかもしれない。
私は義父をはるかに超えた極上の駄目人間だった。私は卑小なくせにプライドが高くて、粗暴なくせに臆病だったのである。
















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