21
 空港は人で一杯だった。
もしかしたらあの中に何人か、私の他にも亡命者がいたかもしれない。ナイジェルもキャロルも勿論一緒だった。ナイジェルはそれほど亡命を苦にしていない様に見えたが、キャロルは半分泣いているようで、無理に平静を保とうとしているのが手に取るように分かって痛々しかった。彼女も母の遺体を故郷においていくのだ、彼女の弟のために!彼女の弟を守ろうとして一生涯を終えた自分の母親を、その弟を追いかけることによって見捨てることにしたのだ!彼女はきっと私より苦しんだだろう。私はあの時苦悩する時間が無かったが、彼女には時間はありすぎるほどあったからである。きっと彼女は亡命に踏み切るまでに何度も考え直し、何度も同じ結論にたどり着いたのだろう。
ユーリは見送りにはきてくれなかった。きっとそれは彼なりのけじめだったのだろう。
 私は努めて晴れ渡った空から降って来た幸福にどっぷり浸ろうとした。キャロルと暮らすことは母への償いになるとも、私にとっては辛すぎた一生の最後の安らぎだとも思った。
しかしどうやっても私は自分の中のもやもやとした罪悪感を追い出すことができなかった。それは生きている限り永遠に付き纏うものだ。加えてキャロルは今までにないほど暗い顔をしていた。私の母が弟をこよなく愛したように、彼女はユーリを深く愛していたのだ。その二人の間には私のはいる隙間など1ミリメートルだってなく、私は二人のどちらからも愛されることはなかった。
あの頃は物凄く苦しかった。いずれすぐに死ぬのは分かりきっていて、彼女は別の男を愛していて、そして彼女が私の傍にいることはそのまま私に対する裏切りに繋がるのだと分かっていた。彼女は私の傍にいて嬉しいフリをするだろう、しかし私には彼女の辛くて寂しい心情が手にとるように分かってしまうのだ、皮肉なことに!そうやって彼女が自分を欺くことは、私を欺いているのと結局は変わらないのである。
愚かだ!あれだけ裏切られ、捨てられ、傷つけられて尚愛を追うなんて、何て惨めなんだろう!どれだけ自分が馬鹿な事をしているのか痛いほど分かっているのに、それでも愛されたいと思うのは、生きる限り不自由な肉体と不完全な理性に縛り付けられる人間の性だろうか。
 ゲートに近付くにつれて、私のわだかまりは大きくなっていった。それは涙になって表に出そうで、堪えるのが酷く大変だった。激戦だった。わだかまりと満足感、幸せが心の中で核戦争を起こしていた。どっちも互角だった。それでも、だんだん黒いわだかまりの方が勝っていくのが分かった。黒いわだかまりは水素分子爆弾を持っていたに違いないのだ。幸せが持っていたのは良い所が精々巨大マシンガンくらいだったろう。あの黒い靄は良心だったのだろうか、それとももっと別の汚いものだったのだろうか?それは今もってさっぱり分からない。ただ、ゲートの前まで来て、満足感がその黒いものに呑みこまれ尽くしたとき、私は無意識にこういっていた。
「君の家に帰るかい?」
私が我に帰ったときにはもう遅かった。私は既にその言葉を言い終わっていたのだ。キャロルは大きく目を見開いて私を見ていた。もう後戻りはできなかった。文字は消せても言葉は消せない。私はよくよく考えもせずに言ってしまったのだ。
「家」に帰ってユーリにまた会えるときいて、キャロルはとても嬉しそうにした。私はそれを見て今までにないほどの激しい愛しさに駆られて、笑顔を歪めた。そんな私を、ナイジェルは哀しそうな目で見ていた。
ナイジェルは知っていたに違いない。私が彼の姉を愛していたことを、そして彼の姉を引っ張ってくるために彼自身を人質にしたということを!しかし彼はそれを口に出さなかった。きっといやだったろうに、私を今までに一度も責めなかった。彼は私などよりもずっと大人だ。私は本当に彼に悪い事をしてしまった。あぁ、それでも私はキャロルが好きだった!愛していたのだ!
彼を、ユーリを愛するキャロルが愛しかった。決して報われない愛が幸せだった。
あの時、空港を出て行くときのキャロルの顔を見たときに、初めて慈愛と言うものが分かった気がした。
「バス代を貸すよ」笑顔で、私は言ったつもりだ。
「でも、何時返せば・・・・・・?」
「馬鹿な子だね。女性に金を貸すのは、あげるのと同じだよ」
キャロルがユーリに会いに駆け出していく後姿は本当に綺麗だった。彼女は一度も振り返らなかった。さようならも言わないで走り去った。ただ、最後に、綺麗な漆黒の両の目だけで溢れるような感謝を伝えようとしていた。
彼女の遺していった残影に果てしないキスのシャワーを浴びせかけてやりたいほどに愛しかった。しかし彼女は知らなかったのだ。私が彼女を愛していたということを知らなかったという確信がある。知っているには彼女は純粋すぎて、気づくには彼女は愛らしすぎたからだ!別れ際にそういうことをいうのはおろか、感づかせるのはよくないことだ。そういうことはたちまち決心を挫かせ、彼女に嫌な思いをさせてしまう。私と言う犯罪者を置き去りにすることに罪悪感を覚えるようになってしまうのだ。よくないことだ。折角手放したのだから、地球上の女と言う生き物の中で一番幸せな人になって欲しかった。だから私はどんなにキャロルが愛しくても、どんなに追いかけていって、抱きしめて別れのキスをしたくても我慢した。代わりに爪が手のひらに食い込むほど拳を握り締めて、歯茎がうっ血するのでは無いかと言うほどに歯を食いしばった。唇を噛みすぎて、口の中で血の味がした。それでも私はキャロルを追わなかったし、泣かなかった。代わりに私は目じりに浮いた水滴をそっと拭ったのを覚えている。荒く拭ってしまったら、それが涙腺の刺激になって空港のど真ん中で大声を上げて泣き出してしまいそうだった。辛かった。もう二度とあんな目には遭いたくない。愛しかったが、手放してしまった。
しかし、あれでよかったのだ。私は正しかった!
思えば私は他人を愛する女しか愛せなかったのかもしれない。生身の、そのままの女には興味がなくて、男を愛して慈愛を知り、いつもより数段綺麗になった女しか愛せなかったのかもしれない。それならどうして自分を愛して綺麗になった女を愛せなかったのか、今もって不思議である。
あのままキャロルを連れて行っても、私が彼女の向こうに母を見るだけで、彼女は決して幸せになれなかっただろう。私は決して彼女自身を見ようとはしなかっただろう。彼女を犯罪者にまでして、そんな自己満足に浸るべきだったろうか?
否!それは間違っている。
彼女は行った。渡りをする白鳥のように飛び立っていった。それで彼女は幸せになる。ユーリと結婚して、彼女によく似た子供を産み、じきに私を忘れる。私はたった独りで死ぬ。
それで良い!私の愛する人は幸せになるのだ!
冷たくて気持ちのいい、滝のような悲しみが身を打って洗った。それまで抱いていたわだかまりはすっかり流されて、それまで持っていた残酷な幸福感も消えた。代わりに湧き出たのは達成感にも似た悲哀だった。気がついたら離陸していた。もう私の中にはドロドロしたものはひとかけらもなかった。体の中には胸のすく様な悲しみしかなくて、涙は滝のように流れた。
私は自分が暫く心から泣いていないことに気がついた。幼い頃のあのアパートで泣くことなんてなかったけれど、大家さんなら号泣する私の背中を摩ってくれただろうか。彼女はもう生きていないだろう。生きているとしても私が会うことはもう無いだろう。
人は何時しか愛を忘れ、伴侶を裏切る。それでもユーリとキャロルはきっとそうならない。なぜなら彼らは全人類を導く光だからだ。彼らは身をもって私に、人を愛するという幸福の存在を教えてくれた。彼らはきっと地球上の全ての生き物を導く灯火となるだろう。まるで貧乏な家にクリスマス・イブの間にだけ灯る一本の蝋燭の明かりのように、穏やかで緩やかな暖かい輝きで全ての人々を照らし、暖めてゆくだろう。しかし光は私にはふりそそがない。ふりそそぐだけの時間がないのだ。私は今までに余りにも長い間光から離れていたから、光が私に届く前に私は死んでしまうだろう。私の血のしみこむ大地に光が届くのを待つばかり、いや、待つことすらできないのだ。それでも、爽快な悲しみ、諦めが私を清めてくれたのだからそれで良い。光は燦然と輝き、私以外の全ての人にふりそそぐであろう!
人は私を哀れむかもしれない。しかし私は自分を誇りに思う。妬まれてもいいほどに此処は快いのだ。
 私は電報を頼んだ。
ユーリは逃亡者の身だ。彼は賞金首になっていた。それもマリッツ・コンツェルンの総帥に、彼の「義父」に愛されるが故のことだったが。
彼らが胸を張って人に結ばれたことをいえるようになれば良いと思った。いや、そうなるべきだと思った。光は隠してはいけないものだ。いずれ暴かれてしまうものなのだ。だから私はマリッツ・コンツェルンの総帥に電報を打ってもらった。研究所の住所を、である。彼は帰宅を強いられて嫌だったかもしれない。研究所でひっそりと暖かい家庭を築きあげながら暮らしていきたかったかもしれない。余計なおせっかいとは分かっていたけれども、それでも彼はいずれそれをよかったと思うようになるだろうと思いたい。私がした最初で最後の善行になっていれば、と切に願う。
彼はそう思うだろう。彼にはそう思う日が来るだろう。
 密閉された飛行機の中で、誰もが眠っていた。飛行機は一見朝日を追っているように見えたが、暁の照らし出す大地は血で染まったように見え、そして私が向う先はあの血で焼け爛れ荒れ果てた地平線の先なのだといわれたような気すらした。地獄か、天国かはこれから見極めるといったところだ。この光景をみているのは私だけなのだ、と思った。
涙は涸れず、涙腺は締りがなかった。とめどなく涙が頬を伝ったが、もう拭う気にも隠す気にもなれなかった。自分が何故泣いているのか、どうして哀しいのか、そんなことはもうお構いなしに、まるで一生の内に普通の人が流す分の涙を先払いしておこうとでも言うように涙は出た。過去には涙を堪えすぎ、未来はもうない。熱い涙が冷たい頬を暖めているのか、冷たい涙が熱い頬を冷ましているのか、それすら分からなかった。子供のように泣きじゃくっていた、といっても過言では無いが、しゃくりあげることはしなかった。
ああ、そうだ、私は故郷を愛していたのだ。どうしようもなく愛していた!例えどんなに辛い目にあおうとも、私はあの土の上で育ったのだ。私は国を捨てた。飛行機に乗るまでは、まるで鼻をかんだちり紙でも捨てるように振舞っていられたが、その土と別れて初めて知ったのだ。どんなに酷い目にあっても、私は皆を、全てを愛していた。例え暴力を振るわれようと、誰を愛しても自分の下を去っていってしまっても、やっぱり故郷を離れるのは寂しかった。どんなに屈強な兵士でも、戦争に出て行くときに愛する人と抱きしめあいながら別れていく。知っているのだ。生きて戻ってくることなどない、と。別れるときでは笑顔で、と言うが、戦場に向う戦車の中では兵士たちも私と同じように滝のような涙を流すに違いないのだ。
「泣いてるの?」不意に隣の席から声を掛けられた。
ナイジェルの声だった。わざわざ顔を見ずとも分かった。その声は、声変わりを既に終えていても、やっぱり微かに姉のキャロルの面影があった。彼はキャロルにそっくりだったし、また私の母にもそっくりであり、即ち私にもよく似ていた。ナイジェルは起きていたのだ。窓際に座って、人類の蔓延る大陸を見ながら、シートの肘掛に水溜りを作るほど泣いている私を見て心配になったに違いない。
ナイジェルは彼の姉が随分前に私にしたのとと同じように私の背中を摩ろうとしたが、私は彼がそれをする前に、彼の頭を掻き抱いた。それによって彼には私の涙は見えなくなったし、私は生きた温もりが腕の中にあるのをしっかりと感じた。彼は多少吃驚したようだったが、身動きしない方が良いとでも思ったのか、何も言わずにされるがままになっていた。私のそれとまるきり同じ色の髪がシャツに擦れた。絹糸の髪の房は奇妙に乱れたが、もしそれがキャロルの赤毛だったならば、もうちょっと頑固に逆らっただろう。ナイジェルはもうちょっとだけ純粋で、白に近かった。ナイジェルはちょっぴり多めに誠実で、従順で、私の手元から羽化した蝶のように飛び立つなんてことはしそうもなかった。
彼はキャロルではなく、キャロルは母ではなかった。
涙は私の頬を、レイチェルの鮮血が滴ったのと同じ頬を流れて、ナイジェルの髪にふりそそいだ。誰もその様子を見ていなかった。あんな不様な様を他の誰にも見られなくてよかった、と思っている。
ひょっとするとあの時は、私が一人の人として送る生涯において、最も高尚かつ最良のものを手にしたその瞬間だったのかもしれない。















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