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 この章を書き終わったら、ナイジェルを彼の祖国に戻すつもりだ。
一度は亡命したナイジェルをもう一度彼の故郷に送り出す、なんてことは狂気染みた無謀なことだと思ったが、彼は私の優柔の一番の犠牲者なのだから姉の元に返してやるべきだろう。彼に姉を返してやるべきだろう。そして彼の姉に彼を返してやるべきだろう。なぜなら彼らは二人で1つなのであって、私が無理矢理引き剥がした状態なんてもう一年以上はもたないだろうと分かっているからだ。私はこのためにスカルラッティ氏に無理を言って、また偽パスポートをこしらえてもらったのだ。スカルラッティ氏は本当によく私の願いを聞き入れてくれる。何度も彼の職業における地位を危ういものにしただろうに。彼だけなら別にいいのだが、彼には妻があり子があるのだ。スカルラッティ氏には彼女達を養っていく義務がある。彼にはそれなりの収入が無ければならないのだ。それなのに私が個人の願いによってそれを潰してしまっても良いのだろうか?良いわけがない。
しかし私はそうしなければならなかったのだ。やってしまった間違いは拭い去れないし、罪の償いは生きているうちにしなくてはならない。
 ここ数日は不気味なほど穏やかに日が過ぎていく。発作の苦痛は少し前についに極みに達したようだ。神経が麻痺しているのかどうか知らないが、もう発作の痛みは感じず、一切がふわふわと私の回りを優しく漂っているような気すらする。穏やかで、心地良い。素晴らしくいい気分だ。加えて、私の心情に大きな変動や混乱は無い。まるで私の体の中を刻一刻と蝕んできた癌と同じように、静寂が私の中に蔓延り始めた。穏やかだが恐ろしい静寂だ。「静寂」とは聖なる死語ラテン語ではSilentium,英語だとSilence,ドイツ語ならStille,フランス語ではSerenite,スペイン語はSilencio,そして私がこれから埋まるであろうこの国の言葉ではSilenzioという。それは少しだけだが、一歩ずつ確実に死に近付いている証拠なのである。今日では私の体の中に蔓延る静寂の中に誰ともないそよ風のような囁きが聞こえる。きっと私の記憶の中から消えていった人々の死霊が囁いているのだろう。そうでなければ、ついに私は死後の世界へ片方の耳を突っ込んだに違いない。私は今日、ほぼ間違いなく死ぬだろう。それは致し方ないことなのだ。私は生きている間のあの死んでいたような時期、つまり研究所の中で、残り僅かな時間を潰してでも「生」にしがみ付いていようとして鎮痛剤と抗がん剤を飲み続けた。薬の副作用は発作と同じくらい酷かった。ほぼ四六時中眩暈に苛まれ、体のあちこちが悲鳴を上げ、ベッドの上でへたばりたがった。あれだけ無理をしていれば死ぬのも無理は無い。もし私が医者だったなら、私のような患者には匙を投げてしまうだろう。頑固な患者ほど扱いにくいものは無い。
 死とは一体何なのだろうか。
それは生きる物がこの地球上に生まれたときからもった宿命で、また知性を持った種族、即ち人間がそれについて何世紀もの間検証してきた荘厳な問題である。単に心臓が止まるその瞬間といってしまえばそうだろう。あらゆる俗世のものとの別れといえばそうだろう。それまで犯してきた罪の清算といったらそうだろうし、新たなる旅立ちと言うのもあながち間違ってはいない。死に関する解釈はさまざまだ。そのどれもがあっていて、そのどれもが間違っている。それを知っているのは神のみだ。私達のように、今生きているものがどれだけ考え込んでも分からない問題なのである。
ただ1つ、分かっているのは、これほど激しく、本能に赴くままに、見苦しいを通り越して胸のすくほど美しく死を恐れるのは人間だけである、と言うことだ。例えば枯れた木の葉などがそうだが、彼らはまるでそれが宿命であることを生まれる前から知っていたかのように、死と言うひとつの「変化」を易々と受け入れる。最後の一枚の葉が枝から落ちる瞬間、木は裸になり、むき出しになった幹を冷気に晒すが、落ちた方の枯葉は踏まれようと雪にぐしょぐしょにされようと、文句の1つも漏らさずに母なる大地に還るのである。そして彼らは土となってまた自然に、そして親の幹に孝行をするのだ。
実は私が知りたいのはその向こう側だ。死を迎えたその後に、私達はどうなるのだろうか?
魂は天に昇るのだろうか。地獄に堕ちるのだろうか。それとも生まれ変わるのだろうか。永遠に分からないことではあるけれども、私としては非常に気になるものだ。誰だって一度は気にしたことがあるだろう。無い者はよほどの頓馬かよほどの賢人だけだろう。頓馬は物を考えないし、賢人の考えていることはいまいち私にはよく分からないからである。
今私はこれを読み返していたのだが、自分で自分が荒み果てていたことが改めて分かった。私の人生に出会いは少なかった。代わりに別れは異常に多かった。得るものよりも失うものの方が断然多かった。失うものばかりが重なって、ついに私自身の番が来たのだ。これを読み返していて気がついたのだが、私は昔、死ぬことは自我の消滅だと思い込みたかったらしい。
本当にそうだろうか。私は今、正直に言うとそうは思えないのだ。
今こうやってこれを書いている最中ですら、あの白い母の腕が私の首に纏わりついている。もう少しであの細い体が、白い顔が見えそうなのだが、それをこの本物の肉でできた紫色の眼で見る事はきっとないだろう。私は母に償いをしたい。犯した幾万もの罪を償いたい。だから輪廻転生があればいいと思う。生まれ変わって、母とまためぐり合って、母に存分に仕えたいのだ。神はきっと私を母の元に遣わしてくださるだろう。
世の中の物は全て循環し、流動している。それが魂に当てはまらないといういわれは無い。
水は川を流れた後に大海から昇って雲になり、雨になって大地に戻る。また、万物は死に行き、死体から新しい生命が生まれ出て、そしてまた死んでいく。ならどうして魂は循環しないのだろう。しないわけがないではないか。
 天に昇ったら母に会えるだろうか?母は私が来たのを喜んでくれるだろうか、それとも悲しんでくれるだろうか?いや、もしかしたら母は柔らかく笑って地上を見下ろしているのかもしれない。地上の、生きているもう一人の息子を。
 地獄に堕ちたら母に会えるだろうか?もし会ったら、私が母の分の罪業を全て肩代わりしてやろう。私が母の分も地獄の業火に焼かれよう。それが母への償いになるのならば。
 生まれ変わったときには、また息子になるのだろうか、それとも赤の他人になるのだろうか?ただ、もし息子になるのなら一人っ子が良い。他人になったら、その時は私は母を娶ってでも幸せにしてやろう。
どうなるにしろ、消え去るのは絶対嫌だ。
 そうだ、もう少し贅沢を言うと、私が死んだ後の話なのだが、できれば墓石は何の表記もない質素なものにして欲しい。
最低限墓石としての役目を果たしてくれるような切石に、ノミか何かで彫り付けた十字架があれば良い。それから、母の隣で眠りたい。しかし、それは今となっては無理な話と言うものだ。越えてはいけない国境線を不法な手管で越えてしまった死体は、もう故郷の土には横たわれないのである。
私の墓には花なんて一本も添えなくて良いから、母の墓を花で埋め尽くしてやって欲しい。母は死んだあとにこそ幸せになるべきなのだ。彼女をこぼれ落ちるような花で覆ってやるのが良い。生涯私ができなかったことなのだ。私のただ1つの未練なのだ。
何故無記名にして欲しいか。それは酷く単純な理由からだ。
皆さんは名前も知らない男の墓を見てもきっと何も思わないだろう。よくても、結核か何かで死んだんだろうとしか思わないはずだ。しかしもし、皆さんが名もない墓碑を見たらどう思われるだろうか?悪くても不審にくらいは思ってくださると思う。墓場で遊ぶ不謹慎な子供や四六時中哲学について考え続ける夢想家が見たら、きっとあちこちに思いを馳せてくれるだろう。私の哀しい生涯のことを、色々楽しい想像で塗り替えて彼らの心に思い描いてくれるだろう。彼らの頭の中では、私は成功したヴァイオリニストにも、親を早くになくした犯罪者にも、海賊の首領にも、有能な遺伝子工学学者にもなれるのである。
そういう風に私の生前の姿に、多少誇張や嘘が入っていてもバリエーションをもたせてくれる方が、忘れ去られて無視されるよりも遥かにましだ。
 今、私はナイジェルをこの寝室に呼んだ。死出の旅は近い。
彼が階段を上ってくるのが分かる。彼は私が死んだら泣いてくれるだろうか?私は彼の人生をめちゃめちゃにしてしまった。彼の無知と言う極上の幸せを奪い、彼をたった一人の血縁者から引き剥がしたが、それでも彼は私の死を悼んでくれるだろうか?
あぁ、彼がドアの外に立っている。
ノブのまわる音がしても、母の冷たくてしなやかな腕は消えることはない。

                      ルドルフ・カースティン















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