23 最終章
 キャロルは唇を噛み締めて、瞳に浮く熱い涙を気温で冷えた頬に零すまいと一生懸命になった。
愛されていたのだ。自分は知らぬ間にこんなにも愛されていたのだ。こんなにも偉大な無償の愛が、こんなにも卑小な自分に注がれていたのだ。それを自分は知らず、感謝することもなかった!それどころか自分は、彼を裏切り捨てたのだ!
ナイジェルはキャロルの腕からリアを取り上げて、白桃のような色をした柔らかい乳の香りのする赤ん坊の頬を指でつついたりした。吃驚するほど柔らかい頬で、まるで幸福の象徴のようにも見えた。絹より滑らかで、ベルベットより心地がよく、ベロアより手触りがよかった。ナイジェルだってユーリだって、そしてまたルドルフ・カースティン氏だってまた、そんな頬を持っていた時期があったはずだ。
「・・・・・・愛してるって・・・・・・」
ナイジェルがキャロルの隣に座り、初めて見る自分の姪の子守をしながら、リアのふっくらした頬に涙が滴り落ちるのも構わず、微かに細かくしゃくりあげながら言った。
「『君の姉さんに伝えておくれ、昔も今も愛してると、その紙の束と一緒に渡しておくれ』・・・・・・って、あの人、僕が発つ前に言ったんです・・・・・・」
「ナイジェル」ユーリが低い声で言った。「やめろ」
どんなに意図的に低くしても、ユーリの声の震えは隠せなかった。
ユーリは罪悪感に苛まれていたのだろうか?かつてルドルフが感じたように?それは我々にはわからないことだ。きっと彼自身にもよく分かっていないだろう。
(パセリ、セージ、ローズマリーにタイム・・・・・・
そこに住むあの人によろしく言っといておくれよ・・・・・・
かつて本気で愛した人なんだ・・・・・・)
 ユーリ達がタクシーから出ると、薄暗い夕闇の中にたたずむ人が数人見えた。
もう棺には釘が打たれていた。ユーリたちは埋められるルドルフに別れを告げる時間がなかったのだ。『不完全な』ルドルフの棺にそんなことをしても何の得もないが、人間にとって死んだ肉体への別れと言うのは妙な重要さを持つ。例えその中に既に魂が宿っていなかったとしても、肉体は魂がなくなっただけではすぐに冷たく硬くなったりはしないから、まるで生きた人間が眠っているように見えるに違いないのだ。果たしてルドルフのように病で死んだような人間が安らかそうに見えるかどうかは別として、彼は生前に天国で婿入り道具にでも使えそうな素晴らしい『物』を見つけたのだからきっと幸せなのだろう・・・・・・少なくとも彼の死んだ今は。
今にも墓穴に放り込まれようと言う頃だった。どの道棺に入っている肉体はもうルドルフでは無いのだ。ルドルフがどんなに醜い男であったとしても、彼のような繊細な心を持った人間なら彼はルドルフなのである。しかし棺の中の肉体はもうルドルフは宿っていなかった。つい昨日まで体中をめぐっていたはずの血液をごっそり抜かれて、代わりに詰められているのは防腐剤なのだ。たった一時の、遺族が別れを惜しむときのキスを生臭いものにしないためにそんなことをするのだ。にもかかわらず、ルドルフの埋葬に来た人は思いのほか少なかった。そしてユーリたちはキスできなかった。ユーリは陰鬱な人々、葬式にふさわしい慎ましさを持つ連中の中に歩みを進めた。
一人の大男が泣いている。褐色の髪をしていて、人目を憚らない大声で泣いていた。それだけ悲しんでいるのだ。ユーリは彼にじりじりと歩み寄った。
「失礼ですが、ジョージ・タッカーさんですか?」
ユーリが穏やかそうに聞こえる声で訊くと、ジョージはふと顔を上げ、それから慌てて涙まみれの顔を拭った。
「ええ・・・・・・貴方は?」
「私はルディと遺伝子の研究を共にしていたものです。ユーリ・マリッツといいます」
ユーリが手を差し出すと、ジョージは弱々しく握り返した。ごわごわして筋張った手だった。楽器を扱っていた手とは到底思えなかった。初めは繊細なものを扱っていたのだろうが、もう死んだ人間の住居を綺麗にするのに随分苦労した所為か、何度も荒れて破れた手の皮がついに厚い皮の層になって、ささくれ立っていた。
(丘の斜面に舞い散る木の葉が、銀の涙で墓石を洗うよ・・・・・・・・・・・・・)
この男の涙だけで、ルディの墓石をぴかぴかに磨けそうだった。
「霊園の門番をなさっているそうですね?」
「嫌な仕事です。多くの人たちが、遠くからわざわざ泣きに来ます。よくて寂しそうに見えるってところです」ジョージが答えた。
「でもいいんです。婚約者の墓なんです」
「知っています」ユーリが言った。
「貴方は何もかも知っていらっしゃる。・・・・・・ルディは貴方を信頼していたんですね」
ジョージは皮肉そうに言った。ユーリはその歪んだ笑みにジョージの悲哀を感じた気がした。
あぁ、ルディ!此処にもお前を愛している人がいるのに!
「いえ、彼の死ぬ前に書いた書類を読んだのです」
「そんなものを?」ジョージは驚いたように言った。
「あいつは嫌なことは全部溜め込む奴だったのに・・・・・・相当切羽詰っていたんだろうなぁ・・・・・・」
「ルディは貴方の婚約者を・・・・・・」ユーリはおずおずと言う。
「知っていましたよ」ジョージは苦笑しながら言って、また涙を零した。
「気づいていましたよ。あいつ、凄く不器用だったから・・・・・・でも私は彼に怒ることなんてできないんです。そうでしょう?私は彼に罪を擦り付けたんだから・・・・・・レイチェルの墓参りに来たら分かり合おうと思っていたのに。彼は去り、そして死んだ!」
ユーリはそれを聞いて、思わずふっとジョージに似たり寄ったりの苦笑いを漏らした。
ジョージの言う「ルドルフ」は確かにあの時消えたのだ。ユーリの知っている「ルドルフ」は、考えていることのさっぱり分からない、感情はほとんど演技でカバーできた男だった。ユーリは彼の遺書を読んでぎょっとしたのだ。いくら過去の事件のことを知っていたからといって、「ルドルフ」があんなに苦しんだとは知らなかったし、それまででは絶対に気づけなかったのだ。
「書類をご覧になりますか?」
「いいえ」ジョージは首を振った。「あいつが私を恨んでいたのは知ってるんです」
ユーリは違うといってやりたかったが、ジョージはまた両手に顔を埋めて号泣しだしたので、何を言っても聞いてくれそうになかった。それに、気まずくて声が掛けられなかった。ユーリはその場に立ち尽くして、棺に盛られていく土を呆然と見つめた。
(将軍達は兵士に殺せと命じるよ・・・・・・
彼らももう大昔に忘れてしまった理由のために戦えと・・・・・・)
 キャロルはリアを抱いたまま人々を見ていた。
あれだけ自分を深く愛してくれた人が死んだとき、これだけの人数しか葬式に来てくれないなんて、哀しかった。そしてどうにもできない自分に腹が立った。
墓から遠く離れたところで、一人の女性が蹲って泣いている。キャロルはその隣にいる男を見て硬直した。
彼は健康だった頃のルドルフのような姿だった。麦わら色の髪以外は全くルドルフその人だ!
キャロルはじりじりと歩み寄っていく。夫婦ともども似たり寄ったりだ。その歩き方はジョージに歩み寄るユーリそっくりだった。近付くにつれて、彼らの会話が聞こえるようになった。キャロルは耳を大きくして、立ち聞きした。
「ルドルフさんが・・・・・・!死んでしまった!」
「今更何をそんなに悲しむんだ?彼が君をおいていったのに」
「私はどうすれば・・・・・・おお、神よ!・・・・・・ルドルフさん・・・・・・・」
ルドルフの実弟らしき、ルドルフにそっくりの男はうざったいとでも言うようにちっと舌打ちした。
女が泣くのはきっと自分のやった事の酷さにやっと気づいたからだ。彼女は自分が地獄に堕ちるのが怖くて泣いているのだ。そこには微塵もルドルフへの真の謝罪なんてないだろう。それでも、自分が一体それまでに何をしてきたのかサッパリ分かっていなさそうなルドルフそっくりの男よりは、百万倍もマシである。この男はまるで自分のやってきたことは全て正しいことなのだと開き直っているように見えた。そこまで言ってしまっては、もう人間の美学など何もなかった。彼は木偶の坊だった。
優柔不断な異父兄弟よりも、八つ当たりの激しい父親よりもたちの悪い男だった。
キャロルはむかむかしてきてその場を足早に離れた。
埋葬はもう終わっていた。
「何てことだ!」ジョージが叫んだ。
「墓石に名前もないなんて!これじゃまるで無縁仏みたいだ!」
(それが彼の望みだったのよ・・・・・・)
キャロルは眼を地面に落とした。もうその熱い涙がこぼれるのを我慢しようとは思わなかった。皆泣いていたし、泣かずにはいられなかったのだ。
 新しい弔問人が来た。それは1つの家族だった。バイロンと同じくらいの年の夫婦と、一人の娘だ。父親は角ばった顎に灰色の髭を生やして、この寒いのに汗をかきながらジョージの方へ駆け寄ってきた。彼にはジョージが泣き叫んでいて今「お取り込み中」であることなどは全く気にならなかったようだ。母親の方は真っ青になってガタガタ震え、妹は誰の埋葬なのか気になっているようだった。
「タッカーさんですか?」父親が聞いた。
ジョージは声を掛けられて、慌てて涙を拭って、熊みたいな顔をして起き上がった。
「・・・・・・ライドウ氏!!!」
どうやら二人は知り合いのようだ。二人は上っ面だけの中身の無い長い握手をした。
「一体何が・・・・・・?」
「うちの娘が殺人犯で死刑されたのは知っていた」父親は早口に震えながら言った。彼の眼はそれが屈辱だ、といっていた。
「これまでで顔をあわせたのは精々4,5回なんだが」
「6回ですわ。あの子が生まれたときの事を忘れていてよ」母親の方が神経質に言った。
ジョージはそれを聞いて生唾を飲んだ。
「む、無罪だったそうだ」
「何だって?!?!」それを傍で聞いていたナイジェルが絶叫した。
「あぁ・・・・・・真犯人がいたそうだ。そいつも気違いだった。女を殺して指を全部ホルマリン漬けにして収集してたのを家政婦が発見して通報したんだ。新聞の隅っこで見つけて、吃驚して調べたら、スフィアの事件と重なって・・・・・・奴のコレクションには結婚指輪つきの指も沢山あった」
「そんな・・・・・・」ジョージは腰が抜けたように膝を突いた。
「何でだ?何でルディもスフィアも死んじまったんだ?」
ジョージ・タッカーは、墓場の湿った空気の中の、見えない誰かに、そう、誰かにそう囁いた。囁き続けた。まるで、そう、誰かがそこにいるかのように。
「ルディはな」いつの間にかそこに湧き出たように立っていた白髪のバイロンが呟いた。
「あんたを殺したって、半狂乱になりながら言ってたよ」
ジョージは泣きながら囁き、首を横に振り続けた。
ナイジェルはガタガタ震えながら泣いている。彼もルドルフが好きだったのだ。彼もスフィアが好きだったのだ。彼を生きた人々の中へ引っ張り出してくれたルドルフを尊敬していたし、確かに自分をルドルフの愛する姉を拘束するための人質として使ったときは哀しかったが、ルドルフがナイジェルを、出会ったときから死ぬ間際まで本当に愛していたのだ、と言うことだけは身に染みてよく分かった。ルドルフはナイジェルの父親同然だったのだ。声を上げずに泣く青年は見ていて痛々しい。
ルドルフ・バードック氏の埋葬に立会いに来たマリッツ・コンツェルンの前総帥、カストル・マリッツ氏はじぃっとナイジェルを見つめていた。
「泣いて良いんだよ。大声を上げて泣きなさい。そっちの方が良い。ほら、あんな大人だってやってるんだから」
カストルは優しくナイジェルに言って、嘆き悲しむジョージを指差した。ナイジェルはカストルを見上げて、赤い目で彼を見た。今度は病気のせいでなった深紅の瞳というじゃない。泣き過ぎた所為で眼は真っ赤に充血していた。
「貴方は誰ですか?」
「私はカストル・マリッツだ。ユーリの養父だよ」カストルは簡潔に言った。
ナイジェルは顔をゆがめて俯いた。カストルは彼の肩を抱いて、母親が子供にするように優しく揺すってやった。そうされれば大抵の人は少し落ち着く。少なくともまだ正気の人間には。
ナイジェルはそういうことを実の母親にやってもらったことがなかった。ナイジェルが正気になる前に母親は殺された。それまではずっと母親の事を見知らぬ人として扱ってきたので、母親は彼を混乱させないよう確かに他人だ、とでも言うように振舞っていたのだ。
(深い森の緑に囲まれた丘の斜面の雲の上に残る雀の茶色い足跡
毛布と寝巻きを着たあの山の仔は、戦闘ラッパの音にも気づかずに眠る・・・・・・)
彼女は実の息子を抱きしめることなく死んだ。
「どうして死んじゃったの?」ナイジェルが掠れた声で言う。
「あんなに人を愛したのに、あんなに報われなかったのに、神様はどうしてあの人にお慈悲をかけて下さらなかったのでしょう?」
「神様なんていないよ、ナイジェル」カストルは冷然と言った。
カストルは神などいないことを知っていた。もしいたとしたら、カストルの親殺しの下に、ユーリを送るなんてことはしないだろうし、ましてやそこでほとんど囚人のような扱いをされるなんて考えられなかった。ユーリはすでにカストルの実の息子なのだ。カストルが神なんていないと言い切ったのは、そういう経験に基づく考えからである。それに彼自身、嫌な思い出はいくつも持っていたのだ。
例えば、ユーリの兄のアンリは、カストルの養父母にいたく気に入られていて、カストルなどはまるで隣近所のような扱いをされた、とか言うことだ。下らないことだが、青少年には堪えた。
「でもね、ナイジェル、あの人たちを見てごらんよ。ほら、あのルディそっくりの男の人とその隣の女の人だ。彼はルディの本当の血の繋がった弟なんだ。そしてあの女の人はルディの婚約者だった。なるほど二人は愛し合っているかもしれない。お互いが結ばれるためなら、ルディを、兄や婚約者を裏切っても構わないと思ったかもしれない。だが彼らは今、犯した罪の大きさの分だけ幸せそうに見えるかい?二人は愛し合いされている。けれど二人は一生涯ルディへの罪悪感に苛まれ続けるんだ。果たしてそれが幸せといえるかい?
ルディはそんな奇妙で人間がよく嵌る泥沼は選ばなかった。彼は癒えることもないが過ぎることもない、安定した渇きを、縹渺と広がる砂漠を選んだんだよ」
ナイジェルは聞いていなかった。聞いていても、彼には分からなかっただろう。
リアも母親が泣くのを見てぽろぽろと泣いていた。彼女はルドルフがいなかったら生まれていなかったかもしれない。ユーリ達が結ばれたのは、ひとえにルドルフの大博打のおかげだったからだ。
今、リアは場の雰囲気に感化されて泣いている。しかし、彼女もいずれは大切な人を失って、心から叫びを上げながら泣く日が来るだろう。
「一体何時になったら泣き止むんだろうね?」カストルの妻ルチアが言った。
「さぁね。気が済むまで泣かせておくしかないさ。それまで我々はここで待っているとしよう」
空は生きていた頃のルドルフみたいに、青白く曇って銀の涙を湛えていた。


Are you going to Scarborough Fair? スカボローの市に行くのかい?
Parsley, sage, rosemary and thyme パセリにセージにローズマリーにタイム
Remember me to one who lives there そこに住んでるある人に宜しくいっといておくれ
She once was a true love of mine 彼女は一度は僕の最愛の人だったんだ

Tell her to make me a cambric shirt 彼女に伝えておくれ、僕に麻のシャツを作ってくれと
(On the side of a hill in the deep forest green) (深い森の緑の中の丘の上で)
Parsley, sage, rosemary and thyme パセリにセージにローズマリーにタイム
(Blankets and bedclothes the child of the mountain) (毛布に寝巻きの山の子供は)
Without no seams nor needle work 縫い目も針の目もないようにね
(Sleeps unaware of the clarion call) (あんなに大きな音にも気づかずに眠るよ)
Then she’ll be a true love of mine・・・・・・ そしたら彼女は僕の本当の恋人になるだろう・・・・・・

Tell her to find me an acre of land 彼女に伝えておくれ、僕に1エーカーの土地を見つけてと
(On the side of a hill a sprinking of leaves) (丘の上で舞い散る木の葉が)
Parsley, sage, rosemary and thyme パセリにセージにローズマリーにタイム
(Washes the grave with silvery tears) (銀の涙で墓石を洗うよ)
Between the salt water and the sea strand 海の水と波打ち際の間にさ
(A soldier cleans and polishes a gun) (一人の兵士が銃を磨く)
Then she’ll be a true love of mine・・・・・・ そしたら彼女は僕の本当の恋人になるだろう・・・・・・

Tell her to reap it with a sickle of leather 彼女に伝えておくれ、収穫は鎌で刈り取ってと
(War bellows blazing in scarlet battalions) (戦のふいごはひいろの軍隊の中で燃えている)
Parsley, sage, rosemay and thyme パセリにセージにローズマリーにタイム
(Generals order their soldiers to kill) (将軍は兵士達に殺せと命じる)
And gather it all in a bunch of heather それからそれをヒースの束でまとめてと
(And fight for a cause they’ve long ago forgotten) (もうかれらも忘れてしまった理由のために戦えと)
Then she’ll be a true love of mine・・・・・・ そしたら彼女は僕の本当の恋人になるだろう・・・・・・

Are you going to Scarborough Fair? スカボローの市に行くのかい?
Parsley, sage, rosemary and thyme パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
Remember me to one who lives there そこに住んでるある人に宜しくいっといておくれ
She once was a true love of mine・・・・・・ 彼女は一度は最愛の人だったんだ・・・・・・
(“Scarborough Fair” Simon and Garfunkel より)
                        《終》














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