私はごく普通の、母子家庭の一児だった。
私には物心のついたときから父親と言う肉親はいなかった。何故なのかは知らない。多分実父は母を捨てたのだ。もし実父が不慮の事故で死んだのだったら、どうして彼女は私が生まれて何年もしないうちに再婚なんてしたのだろう?私は母がそこまで薄情だとは思わない。彼女はむしろ情の強(こわ)い女だったと思う。
 その頃の私の世界は狭くて、薄汚いアパートと、そこで一緒に住んでいた母、それから口うるさかった隣の大家さんだけが私にとっては全てだった。幼い非力な私にとってはそれが本当に全部だったのだ。小学校に行くまでは、私の前に広がる空間にそれらの内の1つもなかったことがなかった位だ。そしてまた、それらの1つもないことは私にとっては失明を意味していた。
 母はほとんど家にいなかった。母は私にたった一冊きりの聖書を与えて、昼間中仕事に出ていた。私が夜眠りに落ちた後に帰ってきて、私が朝まだ眠りについている間に仕事に出て行った。今思えば育児のために仕方のないことだったと分かるのだが、幼心にも私は寂しいと思ったのを覚えている。そう思わない子供がいるだろうか?母親しか頼る身内がいないのに、その人とほとんど会えずに心細いと思わない子供が世の中にいるのだろうか?いなければ心細いとは思わなかっただろう。しかし幸運にも、いや不幸にも、私には会えない母がいたのである。
 私が義務教育を始めるまで、事実上の養育者は大家さんだった。母はどうやら私を大家さんに頼んでいたようだ。朝起きると既に大家さんは私の枕元にちょこんと座っていた。大家さんは口うるさいが善良な太った老婦人だった。何処にでもいる普通のおばさんだ。身内は一人もいなくて、家族の代わりに飼っていた5匹の猫と3匹の犬と4羽の兎と私をこよなく愛していた。
 私は母が一体何の仕事をしていたのか今もってさっぱり分からない。母は私にとっては謎の人だ。今となっては真相は闇の中、といったことが山ほどある。針子をしていたのかもしれないし、女工だったのかもしれない、はたまた売笑婦だったのかもしれない。こういうとまるで十九世紀の話に聞こえるが、売笑婦と言うのはとにかく娼婦のことを言う言葉だ。
私が母に会えたのは日曜日と祝日だけだった。私が母と一緒でない時はいつも大家さんと一緒にいた。幼い頃私はあの大家さんが大好きだったのを覚えている。でも、大家さんの飼っていた3匹の犬のうちフラッピーという犬だけは好きになれなかった。大きくて真っ白な犬だったのだが、どうもところどころインクの染みみたいについている黒いぶちが好きになれなくて、いつも遠巻きにしていた。と言うよりは、初め彼に拒絶されたので諦め気味に遠巻きにしていたのだが、他の犬と遊んでいるのをみて何を思ったのか近づくようになり、小さい私には彼は少し大きすぎたので結局最後まで仲良くはなれなかった。私が彼を最後に見たときには、もう大家さんの母親くらいにはよぼよぼだったろう。ちょっと茶色くなってしまった尻尾が、別れ際には萎びていた。まるで渇いたたまねぎの皮みたいに見えた。小さな黒い眼は潤んでいた。それ以外は良く覚えていない。
私の母は度々家賃を滞納したが、大家さんは脅かすだけで尚私の面倒を見続けてくれたし、母も必ず二、三日のうちに金を工面して来た。大家さんは母を実の娘のように扱い、私を実の孫のように扱ってくれた。今思うと、大家さんは不妊症だったのかもしれない。生まれない子供の代わりに私たちを愛してくれたのかもしれない。だとしたら私達は彼女のその不幸な病気を喜ばなければならないだろう。
 母は一度もアパートの寝室に男を連れ込んだことが無い。これは貧困に暮れた女にとってはかなりの賞賛に値するものだ、と思う。必要な金を工面する際に真っ当に労働して稼ぐことは、何処の馬の骨かも分からぬ男に身を任せて金をせびるよりもずっと高尚な事だからだ。また、母はそうしたことは外で済ませていたのかもしれない。だが家賃を納める日の次の日にちらりと見る母の手には肉刺の潰れた痕が沢山あったので、多分働いて稼いでいたのだと思う。他に何をすれば肉刺ができるだろう?鉄棒だろうか?
 私は極端に母親に似ている。うっすらと父親の面影が残るも、はっきりとしたのはこの忌々しい銀髪のみだ。母親に似ているということは女顔だというわけで、おかげでしょっちゅう女と間違えられる。今でも便所に入ると嫌な目で見られるし(そして用を足そうとすると周りの奴らは驚くのだ)道を歩けばあんまり係わり合いにはなりたくないような格好をした輩に声をかけられる事もしばしばだ。しかし、だからといって父に似たかったというわけでは無い。母は恐らく、自分から去っていった男の面影を息子の中に見るのが恐ろしかっただろうからだ。そして私は母を愛していたから、もし母に嫌われたら私は死んでしまうとすら思っていただろう。母は美人だった。きつい労働の中でも輝いていた。私はマザコンだろうか?あぁそうだろう。
 今まで述べたことを簡潔にまとめると、私の幼児期は至って幸せだったということだ。
私は部屋の中で一心不乱に聖書を読みふけり、それで読み書きは覚えた。小さい頃は本当に慈悲深い主がいて、世の中のどこかにエデンの園があって、ケルビムがそれを守っているのだと思っていた。何時だって私の隣には大口を開けて笑いながら喋り倒す大家さんがいたし、さもなければ離れた親子特有の過度な接触を私に求める母がいた。私は特に母の赤毛が好きで堪らなかった。しっかりとした質感があり、巻貝のように巻いていた。残念ながら母が最も美しいと思われたその頃の容姿としては、私はその赤毛しか覚えていない。
 私が学校に行き始める前、あの日、あの時、今でもはっきりと思い出せる――――――そう、八月十五日だ。
私の運命を揺るがすあの男がやってきたのだった。
此処で私は敢えてその男を父とは呼ばない事にする。かつてそう呼ぶことを強要されただけで充分だ。それだけでも今思えば拷問だった。私は彼をここで義父と呼ぶ。
 義父はある日、母とともに突然我が家にやってきた。彼は大きな花束を持っていた。今思っても、つくづく気障な奴だったと思う。女性にプロポーズするときには花、確かにそんなレトロな手口を好む女もいるだろうが、同性から見れば冷やかしの的にすら値しない。
全く癪に障る男だ。
あの男に一時でも養ってもらっていたと思うと身の毛がよだつ。その結果がこれだ、私は悪性腫瘍で死ぬ、これはきっと義父の恩恵にあやかった業の清算なのだ。世の中は全て自分を中心に回っていると、金こそが世の中の統治者なのだと考えていたような義父が、私の前に、私といるときよりも幸福そうな母を従えてやってきたのだ。私はその時何も知らなかった。義父は何でも武器商を営んでいるとかだった気がする。私の小さな世界の中では考えられないほど富んでいた。権力を持ち、金を持ち、そしてついに女を手に入れた。
「今日からこの人は貴方のお父さんになるのよ、ルディ」
母は花が咲き零れるような笑顔でそういった。
幼い私は何が何だかよく分からないままに笑い返したのだが、義父はにこりともせずに私に手を差し出した。私は義父が元々そういう顔の人なのだなとしか思わずそれを握りかえした。冷たくて乾いた手だった。手の冷たい人は心が温かいというが、あれは嘘だ。手の冷たい人は心も冷たい。手が温かくたって心が冷たいこともあるのだ。とにかく義父は私には冷たい人間に見えた。例え義父の心が傷ついて沢山の血を流し、熱を出して瘡蓋ができるのを待っていたのだとしても、やっぱり私には彼は無感情な人に見えた。
母はこうも言った。
「貴方に弟ができたのよ」
果たして私はそれを知って喜んだのだろうか?それは現在の弟に対する激しい嫌悪にかき消されてしまってよく思い出せない。私は母を心底愛していたのに、母は、いや、あの女は、私に秘密で男と通じ、何の罪も無い顔をして「弟」などとぬかしたのだ!
 母はその白い頬を桜色に染めただけだった。
 やがて我々は古くて狭い、しかし住み心地の良い(美化しすぎだろうか?)アパートを引き払い、義父の豪邸に移る事になった。母は私に、それによって柔らかなベッドと美味しい食べ物を与えた。しかしベッドには添い寝をしてくれる人がいなかったし、美味しい食べ物は冷え切っているように思えた。そう、母は私から心の避難所(サンクチュアリ)を奪ってしまったのだ。
 大家さんは全てを見通していた。老いるということは生きるうえでの勘と知恵を磨くことだと思う。私が彼女について覚えていることは数少ないが、その中でも最も印象深いのは、母に連れられて出て行く私を見送る緑色の萎んだ目と、「何かあったらいつでも帰って来なさい」と言う寛大な言葉だ。あぁ、どうして私は住所を書き付けておかなかったのだろう?そしたら私は亡命せずに彼女のところに行っただろう、いや、彼女はまだ生きているかどうか定かでは無いが・・・・・・せめてフラッピーの子供くらいは探し当てたいものだ。

私が彼女を見たのは、立ち退きのときが最後である。
















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