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 新しい家は、本当に全く生活感の無い場所だった。
いつも私の部屋には埃1つなかったほどに綺麗だったのだ。学校から帰ってくると、もう既にそこから私の生きていた形跡は消え去っていた。全て家政婦の仕業だった。
 義父と私はその頃あまり話したことが無かったと思う。義父は実に適度な接触を取っていた。私はその頃、それから何の不快も感じなかった。無邪気だったのだ、母の愛する人はそのまま私の愛する人になったくらいに!私はただの「その家にいる一人の男の子」というだけであり、決して義父の「息子」である必要はなかった。その頃の私はバードックと名乗ることと、義父を父と呼ぶことを強要されるだけの自由な存在だったことを言って置かなければならない。この事実はきっと、読者諸君の読了感を極端に変えることになるだろう。もし、本当に読み終わってくれたなら!
 私と母が二人きりのときは、母は絶えず弟のことを話した。
私はただ頷きつつ、意味は大して分からないまま笑っていたが、母はそれだけでも充分満足していた。母は私に必要以上を望まなかったし、時として必要すら望まなかったのだ。母は何時しか息子としての私を忘れて、大したことは望まなくなった。幸せでいっぱいの母にとっても、私は、やっぱりただの男の子になってしまったのだと思う。ほとんど見捨てられたような状態で、私が一体自分をどう思ったのかはもう覚えていない。
母は腹が膨れるにつれて私から離れていった。母は気づかないふりをした。だから私も気づかないふりをした。何故?そんなことは知らない。ただ母は私には「絶対」だった、と言うそれだけのことだ。私は小学校でも「普通」で、遅くとも日没ごろには帰宅した。友人は多かったと思う。しかし広く満遍なく付き合っていた所為で、気がつくと一人ぼっちだった。誰にも目を向けられない子供、だった。母親にも父親にも友達にも先生にも構ってもらえなかった。しかし、私は可哀想な子供、だっただろうか?それは違う。私は恵まれた環境で育ったのだし、着る物にも食べる物にも困ったことは無いのだから全然可哀想ではなかった。だからといって私が幸せだったというわけでもない。社会が表向きに子供に望む育ち方としては情緒的に欠けたものが多すぎたと思う。だが、考えてみると、社会と言うのは常に矛盾を抱えながらうねっているものだ。表向きには優しく育った子供が幸せな家庭を持つことを望むが、自分たちが恩恵にあやかっているのは公私をきっちり分けて冷たくもなれれば優しくもなれる事業家か、もしくは常に冷酷に判断を行う政治家だということを充分知っていて、尚且つ彼らに愚痴を言うことを忘れないのだ。別に私はそういう力を持った人々のことを非難しているのでは無い。むしろ、彼らは一個の出来上がった人間として生きているのだと思う。例え利己主義者であろうと、その信念や生き方の方針を捻じ曲げるようなことがなければ彼らは一個の「人間」なのだ。それ以上でもそれ以下でもない代わりに、その地位は宿命的ともいえるほどに確立しているのだ。大抵の人は常にふわふわしていて、ふらふらしていて、とても不安定な状態にある。本とか、映画とか、そんなものにすぐ干渉されて、時と場合によっては生き様をその場のノリで決めてしまうことすらあるのだ。なんて愚かなことだろう?それから先ずっと苦しめられ続ける「束縛」を簡単に決めて、すぐに破れ、落ち込むのだ。しかし、そこから雑草並みの生命力を持って立ち直る、それができるから人間と言うのはつよいのだと思う。
 臨月になると母は入院した。私はとうとう家で真正の独りぼっちになって、尚一層読書の時間が増えた。その頃になると私も母にふれあいを求めなくなった。慣れてしまったのかもしれない。諦めてしまったのかもしれない。こんなに記憶がすっぽりと抜けているのはおかしなことだが、きっとその時に二度と思い出したくもないような悲しみを味わったのだと思う。人間が壮絶な悲しみから逃れきる手段はたったの三つしかない。1つは乗り切ること、もう1つは忘れたり逃げたりすること、最後の1つは悲しみぬいて気違いになることである。私は二番目の「忘却」を選んだに違いない。きっとそうに違いないのだ。
私の家の中での地位は確立されていき、「奥様の名も無き頃の連れ子」、ただそれだけになった。私はそれで満足していたが、それでもやはり子供心に寂しく思うことがあって、何度か家政婦達の所で食事をとったことは覚えている。
誰も私に話しかけなかった。
母と私が「家」に疎まれているのは、火を見るよりも明らかだったのだ。
 しかし、弟が生まれてから、母の地位は格段に上がった。
代りに私の地位は目に見えて落ちたのだが、私の唯一の庇護者であり肉親である筈の母は自分の事で有頂天になるだけで、私の事には気づきもしなかった。あの愚かだった頃の私ですら、漠然とした「家」の嫌悪を感じることがあったのだが、母は本当に気づかなかった。恋する女と言うのは恐ろしいもので、例え仇敵ですらも薔薇に見えるらしい。
 侘しい秋の夜だったと思う。鈴虫が鳴いて、私は一人で食卓の上で本を読んでいた。少し寒気を感じたが、上着を着ようとはしなかった。本に没頭していたのだ。義父が帰って来ても何の反応も示さずにいると、彼は珍しく私に語りかけた。
「大きくなったな」
「その手で握手したんだな。昔は紅葉みたいに柔らかかったのに」
文字だけでみると本物の父親が子供に優しく感傷的に言っているみたいに見えるだろうが、義父の声は冷たくて硬かった。それどころか、少しばかりの嘲りまでがエッセンスになっていた。
義父は少し酔っているらしかった。私は急に彼が怖くなって本を持って逃げようした。が、義父は私の肩を強く握った。
私の文章力ではとても表せないほどの激痛だった。ただ肩を握られただけだったが、そこには万感の憎しみが込められていて、まるで地獄の業火で熱した鏝を押し当てられたようだった。私は非力すぎて抗えず、ただ声にならぬ叫びを聞くばかりだった。私は義父に何故そんなことをされるのか分からなかった。私が馬鹿だったからだ。あまりにも純真だった、ともいえるかもしれない。
とにかく逃げたくて、逃げたくて、どこかにいってしまいたくて、義父の鳩尾を本で叩き、彼の力がほんの少しだけ緩んだ隙に私は逃げた。それからベッドの中で怯え、震えた―――暫くはパニックを起こしてまともにものも考えられなかった。何が起こったのか、少しして落ち着いてからやっと理解できるようになった。思えばなんて簡単なことだろう!こんなことにも気づかなかったなんて!
もとより私を認識していなかった義父が、とうとう私を邪魔だと思い始めたのだった。
何の利用価値もない母を一時の気の迷いで娶り、跡継ぎを産ませた後になって彼は自分の血を引かぬ子供が疎ましくなったのだ。彼自身の妻である母の血を色濃く引いていても、それは変わらなかった。
それで、哀れで愚かな母は自分が夫に心から愛されていると思っていたのだから、まるで子供向けに作り直されたグリム童話みたいな話だ。私のような文章音痴が書けば王子様のキスを眠り呆けて待ち続ける白雪姫の話になるし、文豪に欠かせればひょっとしたらちょっとしたメロドラマくらいにはなるかもしれない。
 弟は私にとっては、生涯を通しての最悪の男だった。彼こそが悪の根源だった。彼こそが悪だった。傲慢、凶悪、狡猾、そんな言葉を体現するために生まれてきたのじゃないか、と言うくらい嫌な奴だった。義父の血を引く彼はその性根まですっかり引き継いでいた。はっきり言おう。私は実弟を憎んでいる。弟は人間の言語を話す前から、根っからの極悪人だった。しかし母は弟のことを最愛の人、自分を捨てない人との間にできた宝物と思っていたし、義父は私を後継者にする心算はさらさらなかった。弟こそがバードック家の宝であったのだ。何と忌々しい宝石だろう!付けた者を殺してしまうネックレスよりもずっとしち面倒な代物だ。なぜなら彼は愛されていたのだから。愛とは、ある種の人間やある種の価値観、またある種の社会において絶大な防護力をもたらす。対して、ときにそれが全く役に立たず、それどころか邪魔になることもあるのだが・・・・・・。
 私は大体こんな感じの環境で育ったのだが、私と弟は似ていたにも拘らず、対極とも言える育ち方をした。私が恵まれなかったとはあえて言わない。私は物質的にはかなり恵まれていた。ただ精神的に、そして運に恵まれなかったのだ。それでも私が恵まれすぎていたと言う人があるかもしれないが、そうだとすれば私はひ弱だったのだろう。私は否定しない。私は都会生まれの御曹司だった。そう、「だった」のだ。
 この章でこれ以上述べることはもうほとんど無い。私は弟を思い出すと腸が煮えくり返りそうになる。だがまぁ、私の人生において、最も幸せで、同時に最も過酷だったと言う奇妙な時代はもう少し先である。そこに行きつくまでは私は弟に嫉妬くらいしかしていなかった。
 余談だが、弟は私と四歳しか違わない。























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