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 前にも述べたと思うが、学校で私は至って普通だった。友人こそ少なかったが、小学校にいた内の成績は普通だった。あの頃は、愚かなことだが、私は母たちが褒めてくれなければ成績など意味は無いと思っていた。しかし、私がどんなにいい成績をとろうと、どんなに悪い成績をとろうと、義父は勿論、母までが私に見向きもしなかった。私はあの時母の息子ではなかったのだ。
やがて私は学問の核心を突き詰めることを目標とするようになった。私はあらゆる学問をつまみ食いしたが、その中でも特にお気に召したのが遺伝子工学だ。結局これで生計を立てていく事になるのだが。とにかく小学生の頃の私は標準的だった。写真を見せて説明できればそれに越したことは無いのだが、生憎私の写真は全て合わせても5枚しかない。1枚は小学校の卒業写真(私の顔は白黒で質が悪いせいか霞んでしか見えない)、1枚は7年学校の卒業写真(酷い大風の日に取ったものだから男子も女子も教師まで険しい顔をしている)、1枚は大学のサークルで(後々話すことになるだろうが)無理矢理撮らされた4人組の写真、それからバードック一家として最初で最後の合同写真(これはもう古くなって赤茶けていて、まるで天使みたいな顔をした弟が母の腕に抱かれて映っているのでもう随分と長い間見ていない)、最後は婚約をしたときに強制的に撮らされた正装の写真だ。他には何もない。履歴書に貼るような写真も撮っていない。履歴書を提出するような職場にいなかったからだ。私がたどり着いた「職業」はほとんど監獄のような箱の中でのものだったからだ。家族で旅行に行ったときなんかに写す写真なんていうのはもってのほかだ。バードック家において、家族旅行と言うのは即ち母、義父、弟の旅行のことであり、私はいつも家で冷たい家政婦たちと「お留守番」だった。別にそれが気まずかったというわけではない。いつだって私は除け者だったから、その時に限って気まずかったというわけではなかったのだ。幸せそうな家族の後姿を、玄関ホールにある階段の手摺の陰から別れの挨拶もせずにじっと見つめたのは一度や二度のことでは無い。義父も弟も私のことは振り返らなかった。母だけはいつかきっと振り返ってくれるだろうと私はいつもこっそりと物陰から彼らの姿を見つめていたのだが、彼女は絶対に私を振り返ることがなかった。
彼女は私を忘れていたのだろうか?本当に実の息子を忘れてしまったのだろうか?それともただ気まずかっただけだろうか?私を置き去りにすることを義父に反対できずに、やむなく置いて行かざるを得なかった息子に顔向けできなかっただけだろうか?
―――――そんな現実逃避のような妄想はやめよう。物事はいつも悪い方向に進むから、きっと彼女は私を忘れていたのだろう。
 ところで、話がそれるが、私は遊園地にも、水族館にも、博物館にも連れて行ってもらったことがない。動物園は一度だけ、まだ母が義父と結婚する前に、二人で入り口まで行ったことがある。あれは、日曜日のミサに教会に行った帰りだった。手を繋いで入場料金を見つめたまま立ち尽くし、それからしばらくしてやっと諦めたようにとぼとぼと家に帰ったのを覚えている。動物園への入場料金は私たちには高すぎたのだ。母がどれだけ働いても、生活費を引いてしまっては絶対に払えない値段だった。痺れを切らした受付の女の人がギロリと私たちを睨んだとき、母は少し赤くなって私をアパートに連れて帰った。恥をかいたのだ。母は私を動物園に連れて行ってやろうとして恥をかいた。どうせ動物園にいっても、私は背が低すぎて家族連れの団体の膝くらいだっただろうに。他人の父親を見ても仕方がないのだ。真実産みの父親だって要らないと思っていたくらいなのだから、母さえいれば父を恋うなんてことはありもしなかった。私の手は母によって握り潰されそうなほどつよく握られて、家路では一度も話しかけられることはなく、母は俯いたままで歩いていった。古ぼけた茶色いワンピースのほつれた裾が痛々しかった。彼女は裁縫がとてもうまかったが、自分の服を繕う時間は全然なかったのだ。その日だって、ちょっとだけ針子の仕事をさぼってほっつき歩いただけで、部屋に帰った後は母は黙って内職の麻のシャツ作りを黙々とやっていたのである。
 とりあえず、小学生の間はまともだった私が進学してどうなったか話そう。
あの日の事件から次第に過激になっていった暴力が、私のなかの何かを覆してしまった。
私は次第に粗暴になり、無口になった。誰とも話さず、公立図書館から本を借りて・・・・・・いや、取り寄せてもらって読んでいた。私の読もうとした本はあまりに専門的(オタク、とも言うかもしれない)過ぎたせいか、それとも私が取り残されたままで閉鎖的に育っていったせいか、私と同年の少年達との間には溝が広がっていった。私は学校では孤立し、家では虐げられていた。母は相変わらず私の傷に気がつかなかった。結局死ぬまで気がつかなかったのだ。義父の暴力は初めの内は腕を捻るだけだったのが、やがて水をかけるとか、殴るとかになった。弟は成長して自由になり、水を得た魚の様に凶悪になっていった。弟は時たま義父と私の「親子のコミュニケーション」を見に来たが、私を決して助けようとはせず、ただ笑いながら見ているだけだった。それどころか加勢しようとすらしたのだ。・・・・・・わずか小学生にして。
 そんなわけで、私の居場所は本の中しかなかった。
御蔭で周りの連中の様に活字アレルギーにはならなかったが、背ばかりひょろひょろと伸びて色は白く、健康的な雀斑の1つも無いままの少年だった。私は傍目から見て明らかに不健康だったとおもう。僅か十四歳にして滓が浮いてきそうなブラックコーヒーを一日三杯は飲んだが、私には口煩い母も止めてくれる父もいなかった。だが、私は本とコーヒーに生きていても薬だけはやらなかった。もし薬をやっていたら、私は薬物と言う人間の手で作られたものによってできあがる楽園の中で、仲間たちと一緒にいるおかげで孤独にはならなかっただろうが、恐らく今よりもずっと悲惨な死に方をしただろう。
 私は部活動もせず、放課後は弟や義父に会わないために閉館まで図書館に入り浸り、図書館を締め出されたら真夜中近くまで町を彷徨った。家に帰る頃には日付が変わっていた。そんな私を母は心なしか恐れているように見えた。御蔭で私はほとんど弟に近づけなかったが、私はそれを嫌だと思ったことが無い。そっちの方がずっとましだ。
 しかし義父はある一種の執念から、帰りの遅い私を何時までも待ち受けていた。どんなに私が遅く帰ろうとも、彼は無表情で待っていた。そのせいか私の中には何時からか、本能的な恐怖が植えつけられていった。
家路に就くとどうしようもなく膝が震える。
玄関まで来ると眩暈がする。
心拍数が増す。
もう一度町に戻りたくなる。
吐き気がして、時には本当に吐いてしまう。
――――それでも私はノブを回す。
中であの男が待っている。
私は何でもないようなふりをして黙って通り過ぎようとする。義父はそんな私の腕をがっちりと掴む。それからは殴る蹴るの酷い暴行だ。
何時苦痛が終わるのか、何時夜明けが来るのか――・・・・・・
何度頭がおかしくなってしまえばいいと思っただろう?あの男の酒瓶が後頭部にでも当って私が死んだら、今頃奴は刑務所に放り込まれていただろうに!私には家の他に帰る場所が、いや、行く場所がなかった、独りで友達がいなかったから逃げ込める家もなかった。どんなに逃げ出したくても私は家に帰らざるを得なかったのである。
私は何時だって恐怖から暴行途中の義父の顔を見ることができなかった。いつも俯いて、膝と膝の間に額を埋め込んで甘んじて殴られ、時々息を詰めたような叫び声を上げた。義父のほうは私に暴行を加えながら、口では何か別の物を罵っていた。私は彼のサンドバッグになっていたのである。義父は笑っていたのか怒っていたのか、それとも泣いていたのかは分からない。ただそれらの動作はごく静かに行われた。全く全てが静寂の中で行われた。
 恐怖と苦痛に震えながら蹲って黙っていて、もう次の暴行が来ないと分かるまでにいつも長い時間が必要だった。私は恐怖で固まっていた。義父はいつの間にかいなくなっているのだ。
私はそれからすぐにシャワーを浴びて、ベッドに入る。私にはこの位のまだほんの若い頃から、一日に1〜2時間しか寝ない癖がついていた。ベッドに入って暫くは体の痛みで寝付けない。不愉快な苦悶の中、白んでいく空を見る夜が続いた。
私は朝起きると、哀れなほどの喜悦を感じた。少なくとも丸一日近くあの男には会わなくてもいい。私には学校にいき、一人で瞑想に耽る事が許されている。家を出る、そんな下らないことが私にとっては心躍る事実だったのだ。朝起きると真っ先に神に祈りを捧げていたほどである。それから私は嬉々として登校していくのだ。
 学校で私は不良だった。
私は本を読み、誰とも話さず、誰にも話しかけられない、そして何故か偶に見える所に傷をつけて学校に来る不良だった。初めの内は絡んでくる強面の先輩がいたが、私が反応を返さないので(私にとって最大の恐怖は認め難いが義父だった)、彼らは飽きたようだった。私は有名だった―――少なくともバードックと言う言葉さえ出てくれば、一番に思い出してもらえる位には有名だった。
 宿題はろくにやらなかったし、授業中は大抵本か論文を読んでいた。テストだって真面目に答えたことは無い。一度だけそうしたことがあったが、教師に「知ったかぶりをするな」といわれて終わった。彼らは自分の無知を認めたがらない人種だ。私は甚だ不愉快になって、学年末試験で及第点を取るだけになった。私に必要だったのは、大学に行くための卒業証書だけだったのだ。大学にさえ行けば全てが変わると、全ての馬鹿のオズの魔法使いに対する妄想みたいなことを思った。
 多くの者は私を怖がり、私が存在することそれ自体を不思議に感じていた。
確かに難解な本を読み、喋らぬ劣等生で夜まで町を出歩き、喧嘩でできたらしい傷を度々作ってきて、それでも落第しない男など近付きたくない。今の私だってそう思う。彼らは私を蔑み、侮ることでストレスを解消した。彼らは私に触れようとはしなかった、なぜなら私を恐れていたからだ。それに私は、そういった待遇を受けるのは初めてではなかった。私は既に義父の「それ」になっていたからである。私はそんな風にして孤立していった。
何時しか私は「Cool-Beast」などと呼ばれるようになった。
























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