7
 今、私の下に警察から手紙が来たところだ。「犯罪者を引き渡せ」と言うことだったが、私の下にはただの一人も犯罪者などいないので、私はそれを破り捨ててしまった。無性に腹が立ったが、此処で私はいい思い出、大事な思い出を綴ろうと思う。
 彼女は私が管弦楽部に入る決定的な理由となった女性だった。
ジョージは二、三日私の下に来なかった。彼は私に考える時間を与えてくれた――つまりあれが最後の手段だったというわけだ。私はてっきり諦めてくれたのだと思いつつ、少し集中力に欠けていた。読書に身が入らなくなったのだ。私は日に日に苛立っていった。要するに私は彼が来なくて寂しかったわけだった。まるで孤独死してしまう兎みたいな話だ。白い兎だったら私も互角の容姿だっただろう。そんなに可愛くもないが。
「やぁ、こんにちは。お久しぶりですね」
そんな私の背に聞こえた、腹が立つほど間延びした敬語、それは紛れもなく彼だった。私は心にもなく嬉しく思った。しかしその日、彼は別の部員を同伴していた。その部員は女子だった。もしまた拒絶されたらもうやけくそ、色仕掛けと言うわけである。
「こんにちは、バードックさん。第一ヴァイオリンのレイチェル・アリスンです」
レイチェルは黒髪で碧眼の・・・・・・美少女だった。此処で美人と言うのは妥当で無いと思う。彼女は殺されるその日まで瑞々しい若さ・・・・・・と言うよりは「子供らしさ」を保っていた。実際彼女は若かったけれども。
今はまだそのことを話すには早すぎる。私の苦しさを如実に著すには、この小恥ずかしい話を書かねばならないだろう。
 彼女の初めの言葉には、他の者が私に向ける時のような嫌な感じがほとんどなかった。恐れ、侮蔑、嘲笑などは一切なく、あるといえば僅かな恥じらい、というかはにかんだ感じだけだった。それは逆に、私のレイチェルに対する好意を高めることになった。
―――一目惚れだった。私は見事に罠に嵌ったわけだ。
此処でこういう軽率な言葉を使って言いのか分からないが、私にはこれしか思いつかない。私はレイチェルにぞっこん参ってしまったのである。一目惚れ、としかいいようがないだろう?
「私からもお願いします。私たちには貴方が必要です。私たちは貴方に楽器の扱いを教えます。楽しいですよ、是非いらしてください!」
彼女は「是非」の意を知らなかったのかもしれない。「是が非でも」、どんなことがあっても、の意だ。私はそれを都合の良いように解釈した。私は承諾した。
私は彼女と彼に惹かれたのだ。
あぁ、そうだ、私の目には彼らは光に見えた。この世でたった一つの光に見えた。愛とか友情とか団結力とか、そういう綺麗なものからは「父親」ができて以来除け者にされてきた。どうして憧れないことができただろう?例えばコゼットが人形のカテリーナに惹かれたように、デ・グリューがどうしようもなくマノンを愛したように、私は彼らに惹かれた。もしこの世に万有引力とか言うものがなくたって、きっと私は彼らに釘付けになっていただろう。私はうわべでどんなに平静を装っていても内心では彼らをうらやんでいた。妬みとか、嫉みとか、そういった類のものではなかった。ただそういう物は汚してはいけないものなのだと思った。触れてはいけないものなのだと思っていた。守らなければならないものだと思っていた。そうだ、それはまちがっていない、しかし私は彼らに対して何をしたか!私を光の中にほんの少しの間だけ混ぜてくれた彼らに何をして恩を返したか!
―――今はとりあえずこの話はやめよう。まだそれは話すべき時では無い・・・・・・
 私はそれから大人しく部活に行った。図書館にいる時間は減ったけれども、私は特に不満には思わなかった。元々私はちょっと本に依存しすぎていたのだ。ちょっとくらい離れていたってどうってことはなかった。それはそうとして、私とは生来関係のなかったヴィオラは私の手に吸い付くようだった。ちょっと驚いたのは、ジョージが私に向って、あんたには生まれ持っての才能があると言ってのけたことだ。私はそんなことは全然知らなかったが、確かにヴィオラはまるで生まれたばかりの赤ん坊の頬のように良く私の手に吸い付いたし、練習し始めてから1ヶ月もするともうヴィオラはほぼ私の思い通りに動くようになった。私は硬い心の箍を外して、ごく短い部活の間に、音にして吐き出した。何時しか私は音楽を愛するようになり、管弦楽部に溶け込んでいった。その時こそ、誰にも受け入れられない小さな頃よりはずぅっと幸せだったに違いない。どんなに苦しくても幸せだっただろう。
 私が入ると、まさに管弦楽部は好奇心の的となった。観客は従来の六倍ほどになり、その内のほとんどが、私を見るためにきた。私は見世物小屋の虎となっていたのだ。しかし我々はお構いなしに音楽に励んだ。私はそれを楽しんでいたのだからいいのだ。
そんな幸せそうな私を見て、義父はさらに暴力を酷くした。
私はそれから顔を傷付けられるのを嫌うようになった。私の猫の毛のような銀髪では、青痣を隠し切ることが出来なかったからだ。そういう時は、黙って他の部員が・・・・・・ジョージが特に多かったが・・・・・・氷水に浸した布巾を持ってきてくれたのだった。そんなささやかな心遣いが、私にとってどれだけ身にしみたかは生半可な言葉では表しきれない。
彼らは大いに私の予想を裏切ってくれた。私はてっきりそこでもまた一人ぼっちで、会話も交際もなく過ごすのだとばかり思っていたのだが、彼らは私に極々普通の同僚に対する応対をしてくれた。そればかりでは無い。そもそも、指揮者を見、音を合わせるということが既に会話だったのだ。音楽なんて辻芸人のやることと思っていた私にとって、それは大発見だった。人間は人と人との間に生きていくのだから、そういうことは当たり前なのである。
彼らは決して私に痣の理由を聞こうとしなかったし、ましてそれを冷やかすなんて絶対にしなかった。目を打たれたときは、元々目が悪かったせいもあって、二〜三日目が見えなくなることもあった。そういう時は私はただ黙って皆の音を聞いていた。減ったボーッとする時間にオーケストラが入ると、丁度いい感傷の時間になる。彼らにとって、やがてそういうきまぐれな私の姿は日常の1ピースとなった。部員も少しずつ増えていった。追っかけが多かったが、皆やっと管弦楽部の良さに気づいたからそうなったのだと思う。
 しかし、そんなことはお構いなしに私の心の中にはある想いが増殖し、そして蝕んでいったのだ。彼女を見れば胸は高鳴り、彼女と話せば眩暈がし、彼女に触れれば血潮は逆流した。本の壁に囲まれて力と無感情の中で生きて来た私に、神が与えられた初めての果実だった。まるで『ノートルダム・ド・パリ』のフロロー司教補佐の気分だった。
 私にも遅い春が来たのだ(あぁ、なんて臭い言葉だ!)。
今こうやって書いていても、情けないくらい自分が赤面しているのがわかる。私にはため息が多くなり、レイチェルを見る度に挙動不審になった。そんな奇妙な私を見て、レイチェルは何やら勘違いをしたらしい。元より単純なレイチェルは嫌われていると思ったのだ。全くすれ違いもいいところだ。馬鹿げている。パックも悪戯心が過ぎている。
 しかし私は知っていた。折角生えた芽が日光を浴びることを許されず、小さくても清らかな花を咲かせてはいけないのだと。もしそうなれば全ては悲愴な結末に向って進むのだ。
なぜなら、レイチェル・アリスンはジョージ・タッカーの公認の恋人だったからである。
私に何が出来たというのだろう?私の恩人を、私を無為の深淵から引きずり上げてくれた彼を、私が裏切るなどどうしてできようか。私は知っていた、それは決して人に知られてはいけない感情だと。今一度人から蔑視されたくなければ、それを秘密として墓穴まで持っていくことが最も重要なのだと。
初恋は実らない。何処の誰が言ったか知らないが、中々的を射た言葉である。私は極力普通に振舞っているつもりだった。けれどもあの頃の若かった私は妙なところで不器用だったから、隠し切れていなかったかもしれない。
 私は幸せだった。それ以外の何者でもなかった。今なら胸を張って言える。私は贅沢だった。人間など信じられない、生きている者は皆自分を傷つけるために生きているのだと思い込んでいたにも拘らず、私は自分の生涯に癒しを、潤いを求めていた。私は若かった。真理を理解することはできても、それに従うことができなかった。
 とにかく私は一途に恋をしていた。そしてそれは実りそうもなく、また立ち直れそうもなかった。実ろうが実らなかろうが、どの道ぐしゃぐしゃになることは明らかだったのだ。
 これは後にもう一度話すことになるだろうが、ジョージはまるで裏切り者を戒めるかのように、私に避妊薬の処方を頼むようになったのである。

























>6
>8
>go to Silenzio top

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送