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 気分が滅入ってしまうので、別の話をしよう。
私の高等学校時代に起きたことで話したいことはもうほとんど終わった。そうそう、弟はますます反抗的になり、「彼の」両親は心を痛めていた。大体は今まで話したようなことが起っただけで、他には何もない。
 少し早い気もするが、大学時代の話をしようと思っている。
レイチェルとジョージは音楽に進み、私は遺伝子工学に進んだのだが、奇しくも我々は同じ大学に進学したので(といっても名目だけだったのだが)中々縁は切れなかった。よって(この「よって」はジョージが使った言葉だが、何処がよってなのだろう?)我々は何故か同じ「管弦楽サークル」なるものに突っ込まれた。そこは酷く家庭的な集まりで、三人はよくグループを組まされたものだ。私は片方で科学に生き、もう片方で芸術に生きるという妙な生活をしていた。そのせいか、学部ではあまり人を寄せ付けず、やはりと言うかなんと言うか、私はまた孤独になっていた。だが私は耐え忍ぶことに慣れていた。私はさっさと大学を出て行きたかった、なぜならあまり義父に頼りたくなかったから。あの天国のような大学だって所詮は義父の脛に噛り付きながらの居場所だったのだ。
 しかし私は長男であった。そして大学を早く出ればサークルも抜けなければならない。サークルを抜けるということは即ちオーケストラに生きる道を失うということ、本当にそれで良いのか?それは嫌だと思いつつ、私は何故か―――そう、何故か、飛び級試験を受けてしまったのだ。学部の方では夜遅くまで実習があったし、無理矢理飲み会に連れて行かれることもままあった。で、こちらもやはり朝帰りが必須となっていた。サークルの活動時間は目に見えて短くなったのだ。
 この頃から義父と母は衝突が多くなっていた。主に弟の進学についてだったが、当の本人は愉快な仲間たちと宜しくやっていた。弟は帰ってくると私を面と向って好きなように侮辱した。あまりよろしくない友人を連れ込み、母の財布からちょっとした大金を失敬してまた去っていく。私はとてもじゃないがそれほど豊かではなかったので、逃亡費くらいは確保しておこうと、その頃私の貯金箱は何と大きさ12インチのスニーカーの中に押し込まれていた。結局それも今は何処にあるのか分からないが。ただ私があそこにいた間はとりあえずそれは無事だった。持ち主の私のほうは無事ではなかったが・・・・・・。義父の暴行はまたエスカレートし、灰皿や酒瓶が飛んでくることすらあった。私は器用にそれを避けていた。どんなに昔から虐待されていても、やっぱり痛いのは嫌だし、傷が残るのも見られたくなかった、それに義父に負けているという事実を受け止めたくなかったのだ。
この頃からだろうか、母は妙に私と近しくなりたがった。私が義父のいない間に、休日の昼などヴィオラの調律をしていると、母は前触れも無く私の部屋へやってきてその様をじっと見ているのだ。そして時々話しかけられる、何時の間にそんなに巧くなったのとか、綺麗ねぇとか。母の髪にはまだ40歳を越すか越さないか程度の女盛りの年だったのに、もう白髪がちらほらと見え始めていた。初めて義父に会ったときのような輝きは失せ、いつの間にか美しさは衰え、初々しさは去っていた。母は私の知らない間に老いていたのだ。
さて、何故彼女が私のところに「戻って」来たかといえば、決まっりきったことだが、母は家庭に疲れてしまったのだった。そして一度は見捨てた息子の下にとんぼ返りしたというわけだ。しかし私は既に自立しており、母は選択を間違っていた。私が救いを求めていたときにそうしてくれなかった母に、私が今更何をするというのだろう?どんなに明確に聖書に親を敬えと書いてあっても、結局私は生身の人間であって、一度裏切られた相手は決して完全に許すことなどできはしなかった。私たちは親子と言うには余りにも長い間離れていた。私たちの間には既に母子の絆と言うものは無く、二人とも真実その「絆」などと言う愚かしいものに飢えていたのである。
私たちはこの世に存在する全ての理に疲れていた。
そういうわけで、私は母がいないかのように振舞うことが多かった。しかし母親はしつこく私に付き纏ってきた。私には学校に居場所があった、しかし母は私に居場所を求めていた。私は応えなかった。私は母を見捨てたのだ。
 ―――さっきから話がそれっぱなしだ。私はもう一人、いや二人人を紹介しなければならない。
サークルで四重奏を組むときは先輩を交えた上でだった。ジョージとレイチェルは、もう大分昔から楽器をやっていたので先輩についていけたが、私は高校でやり始めたばかりだったので弓を引くのにも緊張した。そんな私を先輩は励ましてくれたが、お世辞だったに違いない。そもそもサークルの中は私以外ほとんど文系の学部の人間だったので、遺伝子工学の私はかなりの変り種だった。しかも、今度もまたジョージに引きずり込まれたのだ。おかげで私はまたもや名物になった。下手な名物なんて嫌なものだ、私はいつも劣等感に苛まれていた。今思えば劣等感なんて、贅沢もいいところである。
 私は先輩に、完全に四重奏団としてデビューしてみないか、と誘われた。
しかし、同年代の第二ヴァイオリニストはいなかった。先輩は卒業してしまった。何故か周りの人間は、今に私たちのところに天使が降って来てヴァイオリンを弾いてくれると思っていた。今に我々がデビューすると思っていた。そんな馬鹿なことがありえるだろうか?大分前から私は現実を斜に構えた目で見る厭な子供になっていたので、絶対に自分たちがデビューするなんてありえないと思っていた。
 そんな我々のところに、ジョージがオファーを1つ持ってきた。
四重奏団の第二ヴァイオリニストについてだった。
名前はスフィア・ライドウといて、私たちより2,3歳若かった。腕はいいらしい。
ただ、住居が精神病棟だったというのが大きな問題であったのだ。
彼女は重度のアルビノで、精神遅滞が激しかった。両親はもう諦めていた・・・・・・なんでも彼女は音楽家の娘らしい。おかげで彼女はずっと白い病室の中で譜面とヴァイオリンばかり見ながら育ったのだ。彼女は両親の体面を守るために幽閉された。皮肉なことに、そのおかげで彼女は汚辱を知らなくてすんだのだ。
しかし彼女は狂気を知っていた。
鳥籠の中で長い間囀ることしか許されず、人との関わりあいを知らないスフィア・・・・・・そんな彼女を引きずり出していいのだろうか?私たちは考え抜いた。私は反対し通しだったが、レイチェルもジョージもただとにかく四重奏団を作りたいというエゴ一筋で遣り通し、結局彼女は我々に預けられることになった。彼女の両親は投げやりに承諾した。
彼女には、正常で出来のいい妹がいた。何時かの私の両親のような親たちに、もし一人でも望んだ子供がいたのなら、それ以外の子供の価値など皆無に等しいのだ。ある意味で私とスフィアはそっくりだった。
子供を愛さない親などいない、と言うが、それは本当だろうか?それならどうして母親はコインロッカーに自分の腹を痛めてまで産んだ赤ん坊を放り込めるのだろうか?どうして父親は娘を陵辱するなんて桁外れな罪を犯すことができるのだろうか?どうしてソーシャル・ワーカーなんてものが存在するんだろう?自分は子供たちを愛しているのだ、といっているような、子供を沢山持っている親たちだって、本当は子供部屋の端っこで一人だけで積み木遊びをしている幼子に目を向けないようにしているだけじゃないのだろうか?
親はいつでも反論できる。しかし子供はできないのだ。当たり前のことなのに、誰もそれを分かっていない。
 私達の内の誰かが彼女自身に談判に行かなければならなかった。3人でくじ引きをしたところ―――どんぴしゃり、私は大当たりだった。なんて運が悪かったんだろう!
 私はいやだった。私は彼女に直接何もいわずに勝手に話を取り決めてしまったことに奇妙な後ろめたさを感じていた。だから私は気乗りしなかった。
病室は――――白かった。
何もかもが白く見えた。白くないものは全て黒かった。病室に入った途端、急に別の世界に入ってしまった気がして、私は眩暈がした。
その世界にはまだ成人していない軟弱な少女がいた。彼女の髪は私のそれと同じように透明な白銀をしていた。彼女は俯いて、何かの紙の山の中に埋もれていた。その紙は何百、何千とあって、床に足場をなくしている。紙は白く、ところどころ黒い斑点がついていた。その夥しい数の紙は、なんと、全て楽譜だったのだ。
彼女はなんともつまらなさそうに、楽譜をぐしゃぐしゃに丸めて、また伸ばす、そんな下らないことを繰り返していた。彼女は華奢だったが、天使にも、まして少女にも見えなかった。後姿はまるでやつれ果てたうつ病の老婆にしか見えなかったのだ。部屋の隅の方には楽器ケースがあった。その黒い革のカバーには、幾つも引っ掻き傷のようなものがついていた。生爪を研いでいたのだろうか。
「失礼します・・・・・・」
私がそう言っても、彼女はただ苛々と髪を掻き毟るだけで反応してくれなかった。
「あの、失礼します」
私がもう一度言うと、今度は彼女も振り向いてくれた。
その形相は凄まじく、長い髪は乱れ、肌は青白く、頬にはほとんど赤みがなかった。ただその顔の中で、血の様な色の唇と紅色の瞳が印象的だった。医者から聞いたが、眼はそれほど悪く無かったらしい。それでも私の顔は見られたかどうかわからない。
「誰」
彼女はそれだけ言った。言葉は通じるようだった。
「初めまして、ルドルフ・バードックです。宜しく」
「何の用」彼女はまた短く言った。
彼女の声は高かったが、抑揚がなかった。私が朝方によく聞く耳鳴りのような声だった。
「私たちと貴女は四重奏団を組む事になったんです」
「そう」
彼女はす、と顔を逸らすだけだった。私のほうは罵詈雑言を予想してびくびくしていたのに。
そういえばジョージはライドウ氏から話を持ちかけられたといっていた気がする。
見舞いにもろくすっぽ行かない父親が、勝手に娘の進路を・・・・・・
彼女は自分自身の所有権を所持していないのだ、と私はそう思った。可哀想な子だ!自分自身は何も知らされずに、利用され、動かされ、チェスの駒となり、突き落とされ、封じ込められるのだ。そんな理不尽な扱いを受けても彼女は愚痴一つ言わない。チェスの駒となっていることに気づきもしないからだ。そしてチェスをする側になってやろうとも思わない。それは、向上心を持つべくして生まれた人間として哀れなことだ。彼女は永遠にその姿のまま、彼女のままでしかいられないのである。
 私はスフィアを見たショックから半時間もそこに突っ立っていた、暫くすると医者が心配して迎えに来た。
彼女は結局、あれ以上何も言わなかった。

























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