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 色づいた紅葉は、咲き誇った桜と同じくらい寿命が短い。派手な赤に染まった楓が見られるのはもうアルバムか雑誌の中くらいで、少なくともシエルたちの学校があるスウェーデンの片田舎には、梢の寂しくなっていない木はもう少ない。そんな中で、シエルたちの学校は、冬支度にいそしむアリたちの如く、5日後に迫った文化祭に備えて活気付き、そこらじゅうを駆け回っていた。
とはいえ、まだ授業はしっかりある。とても残念なことに。皆が文化祭を心待ちにしていることは、シエルが不思議な形をした関数の問題をもてあましているときに回ってきた手紙からも痛いくらいよく分かる。
『5組はゲイバーやるんだってさ』
『へええーーーーえぇぇ』
少々痛すぎるくらいよく分かるのだ、本当に。
その日の6時限目は本当はフランス語なのだが、シエルが後ろのほうの席であること、フランス語の先生が呑気なこと、フランス語の先生が老眼なこと、その他諸々の理由から、シエルは3時限目にでた大量の数学の宿題を少しでも片付けようと踏ん張っていた。
しかし、努力は功を奏さない。ヴィクトールは苦手な科目なのにぐっすり眠っているし、ル・ケラックはなにやら難解なC言語を操っている。どうやら誰にも助けてもらえないらしい。
θって何だ?というかそもそも何て読むんだ?
その手の記号は3歩も歩けば脳みそからすっかり抜け落ちてしまうタイプのシエルは、耳障りなフランス語の教師に眼を飛ばす。
あと3秒で終鈴が鳴る。
あ、ヴィクトールが起きた。
フランス語の教師が本当にやる気の無さそうな生徒達に向って、今日はこれで終わりですというと、生徒たちはそれまで死んだようになっていたのが急に騒がしくなった。心なしか出て行く先生の背中が寂しく見える。
「シエル、ノート!」
「取ってない」
「なにー?!」
「自力で点数を取るんだね」シエルはくつくつと笑いながら忌々しい数学を鞄の中に放り込んだ。
「今日って担任は研究日?」
「あ、確かね・・・・・・終礼はすぐ終わるんじゃない?」
クラクスーの予言どおり、確かに終礼はすぐ終わった。
「シエル、衣装のデザインなんだけど・・・・・・」
「あー、勝手に決めちゃってよ。今日は早く帰って寝る」
「良いのかよ、そんなに自堕落でさ」
「母親いないんだ。此処は思う存分楽しないと」
「あ・・・・・・そうか、じゃぁ色々頑張れ」
ヴィクトールはマフラーを器用に首に巻いたシエルに手を振って、クラクスーとなにやらひそひそとやりだした。
 やっぱりちょっと外は寒いな。シエルは思わずマフラーをきつくしめる。手袋をはめない白い手がかじかんで、ちょっと赤くなっていた。
空はよく晴れている。葉の無い木の枝がちょっと寂しい。それでも、桜が綺麗に咲き誇っている春の空と、この冴え冴えとした立冬の青空とだったら、多分こっちの方が好きだ。春は自分には性の合わない、全てが生まれいづる季節だから。
母親は昨日発った。シチリア島に行くといっていた。物見遊山の好きな母親のことだ、きっと恐ろしい散財をして戻ってくるだろう。本当に義務教育が終わるんだろうか?学費がなくなったりしないだろうか?
家までの短い距離をとぼとぼと歩いていると、電気屋のテレビで今度のUNESCOの事務局長の話をしていた。なんだか凄くルックスのいい男で、ちょっと若すぎるくらいだった。何でもケンブリッジ大出身の秀才でお貴族らしい。イギリスのことはよく分からないが、名前はどうやらフランス人だ。
ふとそんなことを思いつつ空を見ていると、いつの間にか家についていた。鍵を開ける。家の中はシンとしていて、誰もいない。それは、中に誰かがいたらそれはそれで大問題なのだが、少し寂しい気もする。小さい頃から母親がいないのなんてしょっちゅうだったが、暖かくなっていないリビングには未だ慣れることができない。
あんまり長い間家に一人でいると、だんだん疲れてくる。それは普段気づくことができないほど小さな疲れだけれど、眠っただけでは取れない頑固な疲れだ。ゆっくり湯船に浸かっても、美味しいものを食べても取れない。そんな風にして蓄積されていく疲れが、いつの間にか感覚を麻痺させている。いつの間にか身体をぼろぼろにしていく。
気がついたときにはもう傷は癒えない。まるで阿片中毒者のような話だ。
シエルは鞄とコートを無造作に放り投げて、狭いリビングの小さな絨毯の上に転がった。
今日は体育も何にも無かったのに、嫌に体が重く感じる。もう秋とはいえないような天気で、外には灰色の重苦しい雲がかかり、シエルの不精の所為でカーテンが引かれたままだった所為か、リビングは暗かった。使い古されて所々毛の無くなっている絨毯には、まるでのしかかるように綿のはみ出た安っぽいソファが置いてある。シエルはまるでそのソファの下の隙間に鼻先を突っ込んでいるような格好をしていた。
眠い。今日はもう晩御飯はいらない。
シエルは朦朧とした頭の中で、ソファの下のひんやりとした空気を吸い込んだ。無理をして身体を伸ばそうとすると、肘がソファに当る。肘を抜いてまた眠ろうとしたら、不意にソファの下で何か床で無い物を見つけた。
何だ?
シエルには見慣れないものだった。ひょっとしたら郵便物かもしれない。ソファとソファのあいだの隙間に落ちてしまったのだろう。それとも宝の地図だろうか?いや、そんなことはよもやあるまい。シエルは腕を伸ばしてそれを手に取った。
それは広告の束のように見えた。無造作に糸が通っていて、無造作に束になっていた。ぱっと見た感じで言えば、ただの紙だ。捨てても構わない。
シエルはそうしなかった。その束――冊子に字が書いてあるのが見えたからだ。到底文字とは言えないようなミミズののたくっているような字が、びっしりと裏の白い広告に埋まっていた。
「・・・・・・?」
シエルはその冊子を開いた。あんまり字が汚いので一文を解読するのに5分かかったが、ようやく初めの一文だけは読むことができた。
九月三日 金曜日
どうもその冊子は日記のようだった。それも相当小さい子の日記だ。しかし、シエルは生まれてこの方日記というものを書いたことが無かったので、自分のものでは無いということだけは分かった。宝の地図でもないらしい。書かれているのはただ字、字、字ばかりだ。
シエルは自分が疲れていることをすっかり忘れて、汚らしい日記を興味津々で読み始めた。

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