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 シエルは大慌てで走った。クラクスーはたまにまるで支配者のような口を聞くが、それも仕方がないかもしれない。何しろ彼は本来なら雲の上の人なのだ。クラクスー・ル・ケラックといえば、あのキトロフスカ中央銀行の頭取の息子として、社交界では名の知れた青年なのである。何でシエルと同じ学校に通っているのかさっぱり分からないくらい身分の高い青年なのだ。
クラクスーの言うことは大抵正しい。勿論彼だって人間なのだから、間違いを犯す事だってあるけれども、クラクスーは本当に人間を思いやった発言をする。今回だってそうだ。シエルはフェリックスがどういうつもりで駆け出したかなんて考えもしなかったけれど、言われてみると哀れな父親なのかもしれない。あんなに邪険に扱われれば逃げ出したくもなるだろうに!シエルはひとまず彼の根城、数学科研究室を探しに行くことに決めた。
数学科研究室は実に奇妙なところだとシエルは考えている。あまりにも整然としすぎていて、彼は此処が生きた人間が棲む様な場所では無いと思った。本はアルファベット順に綺麗に並べられ、一見こじんまりとしているように見えて実は強大な収容力を持つスチール製の本棚に収まっている。何もかもが初めから決められていたかのように、一寸の隙間もなく、はまっているのだ――――本棚の中の本にも、部屋の中の家具にも。シエルは、そういう秩序には人間的な味が無いといつも思っていた。この部屋の住人は随分前からフェリックス一人だ。多くの数学教師は、フェリックスの昆虫のような黒々とした目で睨まれるのが嫌で職員室に逃げ込んでしまった。そうだ、フェリックスの眼は本当に表情が分かりづらい。黒髪も黒目も、放っておくと夜の闇に溶け込んでしまいそうなほど暗く、淡い光が虹彩に漂っていた。
 シエルがこの要塞に足を踏み入れると、確かにそこにはフェリックスがいた。ノックもしないで入った所為でフェリックスは驚いたように振り返ったが、眼はいつもどおり黒々としていて、彼が決して泣いていたのでは無いことが分かった。いつもと同じように、教科書に出てくるような背筋のピンと伸びた姿勢で本を読んでいたらしい。ただ、ついさっきの様子を見てしまったシエルには、彼の背中に少しばかりの淋しさを感じた。
「先生」
「・・・・・・なんだ、ヴァラファール」
「あの、つかぬ事を聞きますけど・・・・・・いつもああなんですか?その・・・・・・息子さんと」
「あぁ。いつもだ」フェリックスは淡白な様子で答えた。
シエルはフェリックスのあまりの冷静さにかえってうろたえた。どうして?どうして息子にあれほどまで無碍にされて黙っていられるのだろう?
――――しかし、考えてみればシエルにしたって似たようなものかもしれない。
16歳という、あまりに年若い少年が、毎夜毎夜母親の腕に抱かれて寝るというのはまさに奇奇怪怪なる出来事だ。まして、シエルはその外と中身の差が激しい。アンバランスすぎる。不安定だ。・・・・・・諸々の理由から、大半の民衆は彼と母親の間の不倫の関係を否定したであろう。
しかし彼は母と寝たのだ!
「奥さんは・・・・・・」
「死んだ。あいつが生まれてすぐだ。だからあいつは母親の顔を知らん。私が生まれたときから男手一つで育てた」
「それじゃ、きっと愛情も深いのでしょう?」
「・・・・・・」
フェリックスの答えはすぐには返ってこなかった。彼は憂鬱そうに頬杖をついて、シエルに表情が読み取れるか読み取れないかほどの微妙な位置を取って暫く黙り込んでいた。シエルは蛇に睨まれたかえるのように縮こまって、目のやり場も無く本棚を見つめていた。「中学数学解法大事典」なんていう題が、小憎たらしく銀色で印刷されている。
「あぁ、そうだろうな」フェリックスは長すぎるほど沈黙した後、ぼそりとそう答えた。
「愛していないといえば嘘になる。むしろ全身全霊で愛したはずだ。母親の分も愛したはずだ」
「さぞ心苦しいことでしょう・・・・・・あれで」
今度こそフェリックスは答えようとしなかった。彼はもうシエルの方を見て話そうとすらしなかった。また山のような仕事に手を掛けようとしていた。
「先生?」
「まだ何かあるのか?」
「あの・・・・・・」シエルは自分自身何を言ったらいいのかわからず躊躇する。
こういうとき、何か気のきいた慰みの言葉でも浮かぶといいのだが、それが一つも思いつかないというのはきっとシエルが人付き合いに無頓着だった所為だろう。
「何も無いなら行け。私は忙しい」
「でも・・・・・・」
「でももだってもそれでもも無い!目障りだ!」
フェリックスは今まで誰にも見せたことの無いほど焦れて怒鳴った。シエルが引きつった顔をして後ずさる。それを見ると、フェリックスは急に申し訳ないような顔をした。
「すまない。・・・・・・行った方がいい。もう暗くなる」
シエルはそういわれて窓の外を見た。確かに先ほどまで透き通るような淡い蒼だった秋空はもう群青色になっている。所々に星まで見えかけていた。
シエルはフェリックスの怒鳴り声に身がすくんだが、それでもフェリックスの慌てたような様子に少し安堵した。
本当に怒らせてしまったわけでは無いらしい。
シエルはほっとして少し笑いながら、静かに部屋を出て行った。
その様を見ながら、堅物で有名なあの数学教師も、どうやら傷つけてしまったわけでは無いらしいと安心して自分の仕事に戻った。
 奇妙な父親と奇妙な息子で構成された奇妙なラシード家の奇妙な確執は、シエルが次の日に学校に行ってみたときにはもう欠片の姿も見えなかった。
ヴィクトールはいつものようにおちゃらけ、フェリックスはいつものように大量の宿題を出した。授業中だって、顔以外は全然親子だということが分からないくらい他人面を突き通していた。
思えばそれが彼らにとっては普通だったのだ、シエルには少しおかしく見えても。彼らにとっては、接点を持たずに波風を立てずに生きていくことだけが家庭を保つための唯一の手段だったのかもしれない。
シエルは、真に奇妙なことだが、そんな彼らに対して―――奇妙な違和感と同時に、不思議な共鳴を感じた。

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