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 楽屋には本番特有の緊張した熱気が漂っていた。もう本番はとっくの昔に始まっていた。今はシエルの出番では無いから、シエルは楽屋でのんびりしていていいよといわれて残ることにしたのだが、広い楽屋にぽつねんと一人取り残されると、少なからず寂しくて緊張に胸が締め付けられるようだ。それも当たり前のことだろう、シエルが最後に演劇をやったのは初等学校の3年生のときくらいだし、ルクレツィア・ボルジアなんていう大役を貰ったことはついぞなかった。夢にも見ないほどだった、といっても夢に見たらそれはそれでおかしいのだろうが(シエルは結局男だからだ)。
シエルはもう何にも集中できなかった。日記は先ほどの破れていたページで飽きて投げ出してしまったし、シエルはもう6回も鏡の中の自分の顔を確認して、その度に付け睫毛がずれてるなと思った。だけど下手に触ったら、あのにっくきメイク係が飛んでやってくるだろう。シエルはもう一度だけ鏡の中を見て溜息をついた。
全く惚れ惚れするほど女にしか見えない。元々肩も胸板もないシエルに無理矢理ワイヤー入りのブラジャーをつけさせて(一体何処から入手したんだろう・・・・・・)タオルを詰め込み、くびれを出すために死ぬほど苦しいコルセットをはめさせて、いまではすっかり流れるような長いブロンドの毒婦ルクレツィアを演出していた。いや、勿論着付けは自分でしたのだが、コルセットは流石にヴィクトールに手伝ってもらったのだ。シエルはまさか自分がこんな機会にビロードのドレスを着ることになるとは思っていなかった。ビロードなんていう高価な布地には触ったこともなかったが、すべらか過ぎる白い胸に深紅のビロードはあまりにも良く映えて、シエルは始めて自分の姿を見たときに一瞬息が詰まるのを感じた(勿論コルセットが苦しかったのもあったのだが)。それからシエルは何度も楽屋の端から端までを往復した。衣装の裾を何度も踏みつけそうになったが、もしあの時誰もこなかったらシエルは月までの距離をその日の内に歩いてしまっただろう。
しかしそれは心配には及ばなかった。シエルが大体1kmくらい歩いたとき、楽屋の扉が唐突に開いた。シエルは驚いて再びスカートに躓きそうになった。
それはクラクスーだった。
しかし一目見ただけでは誰も彼のことをクラクスーだと断言できなかっただろう。シエルも一瞬自分がとうとうストレスで狂ってしまったのだろうと思ったくらいだ。当の本人はなにやら色々怪しげなボトルを机において、フーッと溜息をついた。
「どうかしたの、シエル」
「くっくっくっくっクラクスー、そ、その髪一体ど、どうしたの?!」
「あれ、シエルには言ってなかったっけ?僕髪の毛自分で染めてるんだよ。でも流石に今日は戻そうかと思ってさ・・・・・・これが地の色です」クラクスーはニコニコと笑いながら、すっかり様変わりしてしまった彼の髪をいじくりまわした。
そう、クラクスーの髪は、あの見慣れた褐色から綺麗なストローベリーブロンドに変わっていたのである。シエルが度肝を抜かれたのはその所為だ。シエルがいまだ言うべき言葉を見つけられないのに目も向けず、クラクスーはさっさと髪の毛の形を整え、イタリアルネッサンス期の男性の服から埃を払うと、すっくと立ち上がった。眼鏡はかけている。確か彼はコンタクトレンズが大嫌いだったはずだ。授業中に居眠りができないのが苦痛らしい。
ヴィクトールのこんな姿は見たく無いと思わず眼を逸らし続けていたシエルだったが、クラクスーのはそんなに酷くなかった。吟遊詩人にも牧人にも道化師にも見えなかっただけマシだ。これだけ貫禄があるのであれば、ジェンナロの友人などという端役ではなくてルクレツィアの旦那役でもやればよかったのだ。そうすれば持ち前の芝居がかった立ち居振る舞いで、見事にジェンナロに毒を盛る役を成し遂げられただろう。
「シエル」クラクスーが顔を上げた。
「もうすぐ出番だよ。もう此処から出ずっぱりだからね・・・・・・戻ってきたら僕のところにおいで。髪の毛と顔をどうにかしてあげよう」
「ありがとう。いまから待ち遠しいよ」
「あはははっ」クラクスーは笑って手を振った。
シエルも少しだけ頬を緩ませて、楽屋の扉を開けた。
暗い階段をスカートを踏んづけないように気をつけながら下りると、右手に遠い喧騒が聞こえる。シエルは心臓がもう喉から飛び出そうになっているのを感じて、今にもそこから逃げ出してしまいそうだったが、腹を決めて暗闇の中にまぎれていった。
重い鉄の扉を開くと、沢山のクラスメイトが舞台からの強いスポットライトに少しだけ照らし出されながら「ルクレツィア」に挨拶するのが分かった。黒い袖幕の滑らかな襞が、舞台の上から聞こえてくる役者たちの台詞に少し震えていた。
「ルクレツィア役の人、こっちですよ」
今まで一度も話したこともないような同級生が微笑みながらシエルの腕を掴む。気の弱そうな青年で、とても舞台に出る肝っ玉は持ち合わせていなかっただろう。彼はじろじろとシエルの姿を興味津々で眺め回したが、やがて台本をまるめて、「一、二、三でですよ――」と言った。
シエルは生唾を飲んだ。
「一、二、」
シエルは顔を上げる。向かいの舞台袖から溢れ出すスポットライトに目が眩んだ。だが、怯んではいけない、ルクレツィアは金と権力と美貌を手にしたこの世で一番毅然とした姫君でなくてはならない―――
「三!」同級生が小さく叫んだ。
 さあ、世にも奇妙な一生を送った一人の女の物語の始まり始まり。

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