14

 「貴方、あたしをお呼びになって?何か御用があるのかしら?」
その場にいた誰もが、たった今舞台の上に颯爽と現れてこういったルクレツィアを凝視した。「彼女」は確かに美しかった。貴族然とした中にも何処か妖艶なところがあり、仕草までが悪女に相応しかった。しなやかな身体に纏わりつく蜘蛛の巣のような金髪に息を呑んだ観客は、次にあまりにも瑞々しく美しい毒婦ルクレツィアのその容姿に釘付けになった。男も女も関わらず、観客は一瞬にしてルクレツィアの虜となった。実際のルクレツィア・ボルジアもきっとそういう魅力を持っていたのだろう。「彼女」もルクレツィアも、兄弟に恋をしてしまったが兄に政治の駒として使われる不幸な女としての、また一人で何人もの男を誑かし地獄に落としてきた罪作りな女としての憂いを、その金髪と同じように纏っていた。舞台の雰囲気は今までむさ苦しかったのが「彼女」の登場でがらりと変わり、急に華やかになったような気すらした。
誰もが次の台詞までのあいだを長く感じたことだろう。そして誰もがそのあいだ、これが「男子校の文化祭」であることを忘れていただろう。
「お前、今日の下の騒ぎを知っているかね」フェラーラ公が言う。
「いいえ、何がありましたの?」ルクレツィアは夫の隣に静かに腰掛けた。
「我々の城門のところに、お前の名前の彫ってあるところがあるだろう、Lucrezia=Borziaって」
「ええ、確かに・・・・・・それがどうかしまして?」ルクレツィアは不安そうに聞く。
「どこかの誰かが君のBを削ってしまってね、Orzia(淫らな、下品なの意)になってしまったそうだよ」
「何ですって?それはまたなんて人を馬鹿にしたことでしょう、貴方!きっとどこかのユダヤ人か、それでなければ若い人達がふざけ半分でやったのでしょうよ・・・・・・許せないわ!」ルクレツィアは激怒して言った。
「ね、貴方、お願いよ、必ずその犯人を捕まえてちょうだい・・・・・・そしてこの世で一番苦しい死に方をさせてやって。毒を盛ってもいいわ、舌を抜いてもいいわ、四肢を切り離してもいいわ、何ならアレを切って口の中に突っ込んだまま城門に吊るしてくれてもいいの。だって、貴方、あたし許せないわ!ボルジア家を侮辱することは教皇であるお父様や、ヴァレンティーノ公のチェーザレお兄様や、ガンディア公のフアンお兄様、ひいてはフェラーラ公の貴方まで侮辱することになるのよ・・・・・・今すぐにでも捜索をはじめてちょうだい!」
フェラーラ公役の同級生の頬がひくついた。誰だってそうするだろう、もしルクレツィアのような美女がそんな言葉を吐いたら驚くしかない。
「いや、全くそうだ、ルクレツィア。これは死罪に値するよ。巷はお前の素晴らしさを知らないんだね」
フェラーラ公がなだめる様に言うと、ルクレツィアは少し落ち着いた。
「気分が優れませんわ・・・・・・失礼しても良いかしら」
「何か用でもあるのかね?」
「いいえ、いいえ、違いますわ」
「それならもし犯人が捕まったら侍女を使いにやるよ」
ルクレツィアは返事をせず、俯きながらしかし優雅に舞台の袖に去っていった。残されたフェラーラ公は観客に向って、「最近妻はつれない」と溜息混じりに言った。観客席からクスクスと笑いが漏れた。
 ほんの一瞬暗転して、誰かがゴロゴロと舞台道具を運んでいった。次に明るくなったとき、部屋の真ん中にたった一人で立っていたのはルクレツィアだった。スポットライトを一身に浴びて、心持ち顔を上げた「彼女」の表情は苦しげだった。
「誰も彼もがあたしのことを悪く言うわね、ほんとに!あたしだって本当はもっと幸せな暮らしがしたかったの、結婚なんてしなくても良かったのに・・・・・でもお兄様のためね、お兄様の言いつけは守らなくちゃ」
先ほどとは打って変わって、ルクレツィアはまるで年頃の娘のように話した。相手はいない。相手は観客であり、舞台であり、また「彼女」自身だった。
「それにしても早くあの人がこないかしら・・・・・・。あの人のこと、この前の舞踏会でお呼びしたのに・・・・・・もうすぐ日が一番高くなる頃ですわ!」
その時、コンコンと言うノックの音が聞こえた。ルクレツィアは苦悶の表情から素早く無表情になって、「お入り」と高飛車に言った。
「旦那様がお呼びです、奥様」
それはフェラーラ公の使わした侍女だった。いかつい男がそんな役をやっているものだから、観客の中に笑いの波が広がった。台本を書いた奴はこれを狙っていたに違いない。
「分かったわ。お下がり」ルクレツィアがそう言うと侍女はひょこひょこと歩きながらさがった。
「もう、ほんとに腹がたつったら!どんな風に料理してやろうかしらね!」
ルクレツィアはまた先ほどの憤怒が蘇ったようで、恐ろしく気性の荒い風をしながら舞台の袖に引っ込んでいった。
暗転。今度は大人数が舞台の上に出てきたように見えた。
次にスポットライトを浴びたのは、フェラーラ公とその妻にあの滑稽な侍女だった。侍女は黒い髪を三つ編みにした鬘をかぶっていたが、三つ編みを黄色に黒い水玉模様の奇妙なリボンで括っていたため、その腕毛を剃っていない不恰好な侍女のおかしさに更なる拍車をかけていた。
「連れて来い」フェラーラ公がふんぞり返って言った。
数人の手下に連れられるようにして二人の青年が連れてこられた。二人とも似たような背格好で、似たような服を着ていたが、髪の毛の色が決定的に違った。一人はブロンドで、一人はブルネット(黒髪)だった。
そう、ヴィクトールの扮するジェンナロにクラクスー扮するその友人である。
「まあ!」初めに高い声を上げて立ち上がったのはルクレツィアだった。
「貴方がた!・・・・・・何てことを!」
「どうだ、早いだろう、ルクレツィア?」フェラーラ公が自慢げに言う。
「貴方、ちょっと黙っててちょうだい・・・・・・ああ、ほんとにどうしましょう・・・・・・ねぇ、貴方、あたしにこの人たちの処罰を任せてくれない?」
「ええ?貴女が処罰?」クラクスーが素っ頓狂な声を上げた。
「貴女のような淫売に罰されるほど落ちぶれてはいない!」
「黙れ、下郎!」フェラーラ公が一喝した。
「ルクレツィア、一体どうしたんだ、一体?さっきまであんなに怒っていたではないか。この者たちをこの世で一番酷い方法で罰してやろうと誓ったではないかね?」
「いいえ、貴方、この者達はあまりに若すぎますわ・・・・・・きっと若気の至りでしょうよ・・・・・・見逃してやりましょう?」
「何故だ?」
「どうしてもよ!」
「「殺すんだったらさっさと殺してくれ!」」ジェンナロたちは揃って怒鳴った。
フェラーラ公は黙ってしばらくルクレツィアの目を見つめた。ルクレツィアが素晴らしい碧眼を持っていることは遠目にも分かった。
フェラーラ公は最終的ににたりと笑った。
「ワインを取ってこよう、わしのコレクションの内の一本だ・・・・・・シラクーザ産の赤でね、これがまた何ともいえず美味い・・・・・・ルクレツィア、お前のグラスを貸しておくれ」
「ああ、駄目よ!」ルクレツィアが悲痛そうに訴えた。
「何を言うんだ、これからもう二度とこのようなことはしないように言い含めなくてはね、ん?最も行動を改める間があったらだが」
「やめて!」
フェラーラ公はルクレツィアの絶叫を無視して悠長に舞台袖へと向っていった。ルクレツィアは、フェラーラ公に言い含められたあの侍女に引き摺られるようにして、反対側の舞台袖に引っ込んだ。
「まいったね」クラクスーが言う。
「まいったな」ヴィクトールがいつもと同じように答えた。
「きっとあの女は僕達に毒を盛るつもりなんだ」
「きっとボルジア家の秘薬、カンタレラだ」
「酷く苦しむってきいたぞ」
「ハッシシュ(大麻)のようなものだとも聞いたことがある」
「解毒剤はこの世に存在しないとか」
「ああ、全くどうしたものだろう!」ヴィクトールが呻いた。
「ぼくは今死ねないんだ。母上は一度は僕をお捨てになったが、あのお方はしょっちゅう僕にお手紙を下さる。一人は苦しいだろうが、母も苦しんでいますとな・・・・・・母上はボルジア家に苛められているんだ」
「聞いたことがあるよジェンナロ、君は何処かの裕福な家の庶子だってね」
「でも僕は両親を知らない。・・・・・・ねえ、君、僕はどうしても母上をお助けしたい。そしたらいつか幸せにいっしょに暮らせるかもしれないじゃないか、え?父上からは何の音沙汰もないけれど、母上は僕のことは忘れずに頻繁にお手紙を下さる」
「でもジェンナロ、もう諦めた方がいいよ・・・・・・ほら、死神が階段を上ってくる音が聞こえるもの。」
「ああ、あの女だ!」
ヴィクトールが呻くように言うと、二つワイングラスを持ったルクレツィアと、他の二つワイングラスを持った侍女が入ってきた。ルクレツィアは青い顔をして、フェラーラ公がいつ来るかとうろうろしていたが、そう長く待つこともなく、公は一本のワインを携えてまた戻ってきた。
「いやはや、わしはこれを開けたくて仕方がなかったのじゃが、誰か客人がいたほうが楽しいしのぅ?」
侍女がワイングラスを置くと、公はワインを注いだ。そのワインはまるで血のように赤いワインで、深紅の液体を通してほとんど向こう側が見えないほど濃かった。侍女がその二つをジェンナロたちに差し出した。
ルクレツィアは震えながら自分の二つを差し出す。彼女はほとんど泣かんばかりの勢いだったが、フェラーラ公の無言の圧力のせいか、彼女は何も出来なかった。
「死ぬ前には美酒で乾杯だな」クラクスーがボそりと、しかし客席まで届く様に呟いた。
侍女は下がる。四人はグラスを持ち上げて、乾杯と言ったが、何に乾杯をしているのかも、どうして乾杯をしているのかもよく分からないという有様だった。
「普段は何をしているのだね?」
「医者を目指しています」クラクスーが諦めたようにワインに口をつけた。
「僕の妹は天然痘で死にましたから」
「君は?」フェラーラ公は今度はジェンナロに矛先を向けた。
「彼はのらくらと生きているのですよ」クラクスーが急いで先に言う。
「どこかに生きている母親を探しながら。彼は孤児なものですからね・・・・・・どうです、泣かせる話でしょう」
ジェンナロはワインに舌先をちょっとだけ浸した。確かにそのワインは美酒だったが、そのまろやかな風味が死をひそませているのだと思うとぞっとした。
「おしゃべりな男だ」フェラーラ公がルクレツィアに向ってしたうち混じりに言った。
その時またノックが聞こえた。フェラーラ公が入れと言うと、また先ほどの侍女が現れて、公爵に客が来ているといった。
「お呼びがかかった」フェラーラ公は至極残念そうに立ち上がった。「失礼する」
ルクレツィアは夫を送り出すつつましい妻を演じようと努力したが、どう見ても失敗していた。彼女は普通に微笑むことが出来なかったのだ。
公爵が出て行くと、ルクレツィアは飛び上がるように立ち上がった。
「まぁ!」彼女はまた高い声を上げた。
「貴方のお友達が、ジェンナロ・・・・・・!」
観客も誰もかもが、クラクスーのほうを向いた。クラクスーはいつの間にかワインを飲み干していた。青ざめ、ぐったりとしてソファの背もたれにもたれかかり、虫の息で彼はルクレツィアを睨んだ。
「くそ、この売女が・・・・・・」
「苦しいのか?大丈夫か?」
「大丈夫なわけないだろう・・・・・・ジェンナロ、お前は全然飲んでないな、それならいい・・・・・・僕のために絶対絶対仇を打ってくれ。息が苦しいんだ・・・・・・ああ、死ぬ前に一度でいいからあの可愛い子に会いたかった!」
「死ぬなんて!」ヴィクトールがクラクスーを揺さぶる。「馬鹿なことを!」
クラクスーは儚い微笑を浮かべて、弱々しくヴィクトールの肩に手を伸ばした。しかしそれが届くか届かないかの瀬戸際のところで、彼の腕は急に重力にしたがって地に落ちた。
一人の青年が死んだのだった。
ジェンナロの胸に深い悲しみが沈んだ。どうしてこんなことになってしまったのだろうと言う深い悔恨が、観客にも見て取れた。ヴィクトールは俯いて、クラクスーの眼鏡を外し、開いた瞼を閉じてやる仕草をした。
「ジェンナロ、貴方、ワインに口をつけてしまったのね!」ルクレツィアが叫んだ。
「お前のせいだ!お前のせいでこいつが死ななくちゃいけなかったんだ!」
「ジェンナロ、お願い、私の言うことをきいて・・・・・あのワインにはカンタレラが入ってたのよ、でも私は解毒剤を持ってるわ」
「嘘をつけ、僕はワインを飲んでないんだ、その解毒剤が毒に違いない!」
「ジェンナロ、カンタレラはほんの一つまみでも絶大な効果を表すわ・・・・・・お願いよ、これを飲んで・・・・・・」ルクレツィアは懐から小さなビンを取り出した。
「これを飲めば貴方のお母様にも会えるかもしれないわ。これを飲めば貴方は私をいつでも苦しめることができるわ」
「戯け!お前ごときの言うことがきけると思うのか!」
ジェンナロがこう叫ぶと、ルクレツィアはとうとう自ら膝を突いて、ジェンナロの足に縋りついた。
「ねえ、お願いよ、一生のお願い・・・・・・あたし見たの、あなたがワインに舌をつけたのをね・・・・・・ずっとあなたのことを見ていたわ、あたし達が出会ったあの舞踏会からよ。あなたの寿命を一時間延ばすことができるなら、わたしの命を全部さしあげてもかまいません。たとえ一滴であろうと、あなたに涙を流させないようにすることができるなら、わたしの全身の血を流すこともいといません。あなたを王位に就かせることができるなら、晒台にでも喜んで座ります。あなたがほんの少しでも喜んでくれることになら、地獄の責め苦を受けてでも、その代償を支払いましょう、そういうことができるのなら、わたしは尻込みなどするものですか、不平など言うものですか、嬉しくなって、あなたの足に口づけしてしまうでしょう!」
「近付くな!」ジェンナロは掠れた声で絶叫した。ルクレツィアを足蹴にして剣を抜こうとした。
ジェンナロは眩暈を感じたのか、大きくよろめいた。
「ああ、お願い、薬を飲んで!!」
「友を死なせて俺だけ生き残るなんて卑怯なことはできない、そんなことをしたら俺は一生卑怯者じゃなくちゃいけないんだ!俺もきっと死ぬだろう、でもその前にあんただ。あんたを地獄に突き落としてからだ」
「お母様に会いたくは無いの?!」
「貴様が母上を知っているとでも言うのか!」
「知ってるわよ!!」ルクレツィアもよろよろと立ち上がった。
「貴方の父親はガンディア公のフアン・ボルジアなのよ―――」
「そしたらボルジア家に苛めに苛め抜かれてきた俺の母上はガンディア公妃だったのか!」
「そうじゃないのよ、ジェンナロ、違うの、あの人じゃないの・・・・・お願い、薬を飲んで!」
「公妃で無いとすれば一体誰だ!」
「お願いよ、解毒剤を飲んでちょうだい!」
「何度も何度も同じことを言うな、腹が立つ!」ジェンナロはとうとう剣を抜いた。既に相当体力を消耗してよろめいていたが、ルクレツィアの細い肩をしっかりと掴んで、剣をゆっくりと振り上げた。
「ジェンナロ、貴方のお母様はガンディア公妃じゃないわ・・・・・・聞いてちょうだい、薬を飲んでよ!あなた、あたしを殺したらあとで凄く後悔することになるんだから!」ルクレツィアの金切り声は既に絶叫と化していた。
「後悔なんてするものか!俺は、俺と俺の友と、そして俺の母の分も仇を取らなくちゃならんのだ!!」
「あたしがあなたの母親なのよ!!!!!」
ルクレツィアが全てを叫び終わるか終わらないかの瞬間に、ジェンナロは剣を振り下ろした。剣が首を刎ねる寸前に、全てが闇に堕ちた。照明が落ちたのだ。
ドスッと言う鈍い音が暗い舞台から響いた。

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