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 舞台そのものがひっそりとしていた・・・・・・誰も物音を立てなかった。今見た物が強烈に脳裏に焼きついてしまって、他の事は何も考えられなかったからだ。誰もあの生徒が良かったとか、あの生徒が目も当てられなかったとか、そういうことは言わなかった。全ての人が舞台の中にいて、全ての人が修羅場を見たからである。
その内皆痺れを切らしたのか、照明係が舞台の照明を上げ、明るくした。舞台袖で衣装の乱れを直していたクラクスーが、にっこり笑って荒い息をしながら頬を紅潮させているシエルに素晴らしかったよと言った。元フェラーラ公がシエルとヴィクトールとクラクスーとそれからあの侍女役(既に鬘をむしりとっていたが、恥かしかったのだろう)を一緒くたにして舞台に投げ出した。勿論自分も堂々と出てきて、ギャラリーに向ってお辞儀をした。
その途端、随分静かだった客席から怒涛の様な拍手が沸き起こった。シエルは意外だと思った――あんなに暗い劇を喜ぶ客も珍しい。だけれどクラクスーもヴィクトールも黄色い声を上げている女の子達にウィンクをしたり投げキッスをしたりと大忙しで、そんな些細なことは気にもかけていないようだった。
「僕もう衣装脱ぎたいんだけど・・・・・・」
「あ、コルセットがきついんだ?」
「胸がね・・・・・・詰め物入れすぎなんだよ、全く・・・・・・」
「うん、じゃあすぐ行くから先に衣装脱いでて。髪の毛は触っちゃ駄目だよ、ピンの数が凄いから」
「分かった」
シエルは最後にもう一度客席に微笑みかけて舞台を去ろうとした。しかしシエルは立ち止まらざるを得なかった。なぜなら彼は客席の一番前のところに、足を組んで座っているフェリックスを見つけたからだ。彼はシエルを凝視していたようだった。シエルが立ち止まると彼はスイと視線をそらして、立ち上がってしまったのだが。それからシエルは、何故舞台の上で立ち止まっているのだろうかと見咎められて、袖の方にいた人々に幕の中へ引っ込まされてしまった。
しかし彼の黒い眼光は、たとえスポットライトの外に引きずり落とされてもまだシエルの胸の奥底に爪あとを残していた。
 楽屋の中は、シエルが最後に来たときとは打って変わっててんやわんやの大騒ぎだった。出演者の友人達は押しかけてきて、誰に会いたいだの誰に花束を渡せだのうるさくわめいている。シエルはここに自分の母親がいないことを確認すると心底安心して、誰にも見咎められないようにこっそりと奥まった方へ抜けて行った。
コルセットの紐は、締めたときとは違ってあっけなく解けた。圧迫されていた胴体はじっとりと汗をかいていて気持ち悪かったし、タオルのしまってあった胸のほうは汗だけで500mlの脂肪がとんだ可能性は大だ。やっと開放されて楽になった呼吸を味わいながら、シエルは手っ取り早く汗を拭いて制服を着た。
鏡は極力見たくない。まだメイクを落としていないからだ。きっと汗でほとんど溶け出してすごいことになっているのだろう。早いとこ洗面台でごっそりこのメイクを落としてさっぱりしたい。シエルはネクタイも締めず、シャツがベルトの外に垂れ下がったような有様で急いで乾いたタオルを手にとってトイレに急いだ。
男でこんな思いをするのは珍しいかもしれないが、シエルは顔から異臭を放つパウダーやら何やらをさっぱりこそぎ落としてしまうのはとても気持ちがいいことに気がついた。付け睫毛を剥がすのにも多少痛みを感じたが、他のものはもっと頑固で、アイライン何て人間の顔に塗りたくるもんじゃないとシエルは嘆息する。おかげさまで向こう一週間は顔がひりひりしそうだ。あの天敵メイク係は肌が綺麗だねぇなどとほざきながら化粧水を塗りこんでくれたが、あんまり功をなしているようには思えなかった。
髪の毛が鬱陶しい。自分の髪の毛でもないのに何故こんなに煩わしい思いをしなければならないのだろうと舌を打ちつつ、鬘の毛をごっそりと後ろで束ねてしまう。サッパリしすぎてスースーするすっぴんの顔に、洗剤の香りを放つふわふわのタオルが心地良かった。
「あ、いたいた」後ろから誰かの声がする。
振り返るとそこにはストローベリー・ブロンドのクラクスーが立っていた。
「髪の毛とってあげないとね、流石にその格好は悩ましすぎ」
「・・・・・・何いってんの?」シエルのこめかみに血管が見えた。
「いやさ、シャツ第二ボタンまで全開だし髪の毛がほつれてるしさ、ちょっと滴ってるし・・・・・・」
「もういいよ黙って鬘とってよ」シエルはいたたまれなくなって言う。
するとクラクスーはシエルに屈んでと頼む必要も無く、シエルの後ろに立って束ねた髪を解き始めた。
「あーらら、高い鬘だったのにほつれちゃってるよ」
「被せられた方の身にもなってよ・・・・・・」
「折角似合ってたのに」クラクスーはそういいながら慎重に鬘を取り外す。
すると、その下には鬘とはまた質感の違うシエルの地毛が出てくる。鬘からはみ出ないようにと、細心の注意を払ってピンでまとめてあるため、なんとなく微笑ましい光景だ。まるで栗金団に胡麻がかかっているような光景である。
「何本付けたかなぁ」
「ひどっ・・・風呂入ったらやっぱり残りが出てくるの?」
「覚悟はしててね」クラクスーはシエルの髪の毛からピンを外しながら笑った。
しばらく沈黙が続く。クラクスーは一本でもシエルの頭にピンが残らないよう集中していたし、シエルは極度の疲労とクラクスーの手の心地良さのおかげですっかり立ったままで舟をこいでいた。髪を扱う人はとても手つきが優しいんだなと夢見心地に思う。シエルの脳裏に今夜の晩飯はどうしようかなぁという単純かつ重要な疑問が浮かんだとき、クラクスーが手を止めた。
「終わったよ」
「ワオ!何という開放感」
「シエルがそんなにはしゃぐなんて珍しいね、よっぽど嫌だったんだね」クラクスーは苦笑した。「髪の毛には頓着しないほうなの?」
「そうでもない。毎日髪の毛は洗うし、朝は櫛を通すよ、うん」
「それ必要最低限って言うんだよ。でもシエル、どうして髪の毛染めてるの?」
「え?」
クラクスーが冗談半分で聞いたような質問に、シエルは思わず真顔で聞き返してしまった。全く身に覚えの無いことを聞かれたような気がしたからだ。
「あれ、違うの?」
「何だって?」
「いや、シエルの髪って艶が無くて荒れてるから、てっきり染めてるんだと思ったんだけど・・・・・・」
「艶が無くて悪かったですね、これが地毛ですよ」シエルがムッとして言った。
「何だ、そうだったんだ」クラクスーは半ば納得しきれないような顔をしてピンを片付けた。
 トイレの外にでると流石にもう混雑は少し収まっていた。裏方達は既に打ち上げの打ち合わせをしているし、観客の群れももうほとんどいなくなっていた。シエルはいい加減体の火照りも冷めてきたので、シャツのボタンを上まで閉めて、裾をベルトの中に入れ、ネクタイをしめることにした。クラクスーは寒そうなシエルに上着を貸してくれた(そう言うところだけは妙に紳士だ)。楽屋の中の人々ももう衣装の片づけを終えていて、シエルはその中から容易にのっぽのヴィクトールを探し当てることができた。
「あれ?ヴィクトールが誰か可愛い女の子といる」
「なにっ、それはぜひとも拝見せねば」クラクスーが大げさに眼鏡をズリ上げた。
「あらほんと、随分可愛い子といる」
「しかも照れてるよヴィクトール・・・・・・」
「甲斐性の無い奴だな」クラクスーは一蹴した。
「もっと近くで見よう。これをネタにして向こう3ヶ月はヴィクトールに昼飯をたかれるよ」
「野蛮だね」シエルはクラクスーに苦笑いする。
二人がヴィクトール達に歩み寄っていく途中で、ヴィクトールは二人の存在にようやく気付いた。まるで救世主が来たかのように晴れ晴れとした顔で両手を振る姿はいかにも女慣れしていない男である。
「ああ、来た来た」ヴィクトールの声も少しぐったりしていた。
クラクスーは女の子を良く見ようと眼鏡を磨いていた。そして眼鏡をかけようとする。と、驚いたことに女の子は飛び上がらんばかりに驚いた。
「クラクスー?!」
「あれッ――――エミリア?」
二人が突然名前を呼び合ったので、ヴィクトールとシエルは思わず顔を見合わせる。
どうやらこの二人は知り合いのようである。

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