17

 五人の内の二人が家に帰ると、流石に家の中が静かになった。女が三人寄ったらうるさくなると言うが、二人でも充分そうなるし、世の中には一人だってうるさい女がいくらかいるものだ。自分も一緒に泊まりたいなどとぬかすエミリアをクラクスーが引きずり出すと、家の中が静かになったのは、きっとエミリアがそういった人種のうちの一人だからだろう。
「あの、ほんとに、僕家に帰りますよ・・・・・・」
「夜道も危なければ一人で家に家にいるのも危ないぞ」
「慣れてますから」
「いいじゃないか、あとで枕投げしにいくからな」ヴィクトールが割ってはいる。
「やめろ。うるさい。ガキ臭い」フェリックスは容赦なく瞬殺した。
シエルはじぃっと自分の方を見つめてくる二人のそっくりな親子に気圧されて、これはどうもうんといわなければ寝させてもらえそうに無いと思った。
 結局誘いを断らなかったシエルは、ヴィクトールが風呂に入っている間にフェリックスの皿洗いを手伝うことにした。勝手に押しかけて洗い物を増やしておいて何もしないのは礼儀に反すると思ったからだ。皿洗いだったら物心付いて間もない頃からやってきていたし、フェリックスもやもめ男として相当な技術の持ち主だったが、自分には到底敵わないなと内心ほくそえんだ。今の所、自分が皿を洗ってフェリックスがそれを拭いているが、皿を拭くのが追いついていないのが実情だった。結局シエルは皿洗いを終えた後、皿拭きを手伝うことになった。
「すまんな。随分慣れているようだが」
「皿洗いはプロですよ」シエルは笑って数学教師に言った。
「ついてきなさい。今夜お前の泊まる部屋に連れて行く」
「あ、どうも」
フェリックスはそう言ってシエルを先導し、キッチンを出た。明かりのついていない暗い廊下は人二人が並んで通ることは到底できなかった。シエルはフェリックスの後ろを歩きながら、彼も彼の息子も闇の中に溶け込んでしまいそうだとふと思った。
長い階段を上って着いた部屋は随分広く見えた。それは家具がほとんどなかったからで、洋箪笥と、クイーンサイズのベッドと、小さな円卓に揺り椅子が一つだけだった。シエルはその部屋が何処となく病室のようだと思った――それは家具が白基調であるからではなくて、ベッドが真ん中にあるからだと程なくして気付いた。何より不自然だと思ったのは、揺り椅子にかけてあるクッションも、ベッドにかかっているキルトも、全部が全部どう見ても女物にしか見えなかったことだ。フェリックスとヴィクトールしかいないこの男所帯に、どうしてこんな部屋があるのだろう?
「何かと足りないものがあるだろうが、その時は遠慮なく言ってくれ。ヴィクトールが出たらシャワーを浴びてくるといい。ああ、そうだ、服がいるんだな・・・・・・待っていなさい」
フェリックスはそう言ってシエルを部屋に残していった。シエルは部屋を見回す。ベッドは独りで寝るのには少し大きすぎるように見えた。窓にはモスリンのクリーム色をしたカーテンがかかっている。フェリックスの父親口調はシエルにとっては恐ろしく違和感のあるものだったが、相手はきっとそんなことは無いのだろう。
「ヴィクトール、古着あるかー?」
「ンなもんとっくにフリーマーケットに出したよ!」
階下で親子が叫んでいるのが聞こえる。程なくしてフェリックスが階段を上ってくる音が聞こえ、シエルは慌てて揺り椅子の緩みかけたねじをいじくるのをやめた。
「すまんな、もう少し待ってくれ」フェリックスはそう言って部屋の洋箪笥を開けた。ヴィクトールもフェリックスも、シエルに着せるには大きすぎる服しか持っていなかったからだ。
シエルは思わず目を見開いた。シエルの予感はあながちまちがってはいなかった―――何とその洋箪笥の中に入っていた服は全部女物だったのだ!
「あの、先生」
「ん?」フェリックスが振り返らずに言った。
「此処、一体どなたの部屋なんですか?」
「妻の部屋だ」フェリックスからにべもない答えが返ってくる。
シエルは唐突に、この数学教師の妻はたった一人の息子を産んだ後すぐに逝った事を思い出した。とすると、この部屋はフェリックスの亡妻の部屋なのだ!シエルには突然、この部屋には何処もかしこも故人の思念が宿っているように思われてきた。
「ああ、これならきっと大丈夫だ」フェリックスはようやっとシエルに着せる服を引っ張り出してきた。
その服もやはり女物だったが、シエルが垣間見たようなレースやフリルのついたものではなかった。真っ白な開襟シャツにズボンで、シエルに丁度よさそうな大きさだった。
「お前の着られそうなのがこれくらいしかないんだ。すまないな。これで我慢してくれ」フェリックスは不躾に言う。
「あの、どうぞそんなに構わず・・・・・・」シエルは軽く会釈していった。
「ヴィクトール、まだか!」フェリックスが部屋から怒鳴った。
「あと10分!」遠くからかすかにヴィクトールの声が聞こえてくる。
フェリックスは小さく溜息をついた。
「随分と長い間使っていなかった部屋だからな・・・・・・」
「あの、奥さんはヴィクトールを産んですぐに亡くなられたんですか?」
シエルは言い終わってから急に、とんでもないことを言ってしまった気がした。
「出産が終わってから3日後だ。衰弱が激しくてな・・・・・・。あれは息子を腕に抱かずに死んだ」フェリックスは簡潔にいった。
「えっと・・・・・・あの人がそうですか?」シエルは壁にかかっていた一枚の写真を指差した。フェリックスはおもむろにそちらを向いて、歩み寄っていった。
「ああ、そうだ」彼は頷いた。「こんな物があったとはな」
シエルも近寄って見た。写真は色あせていたがカラーだった。精彩を失ったポートレートの中から、亜麻色の豊かな髪をして、静脈が透き通って見えるほど色の白い女性が、空色の瞳を翳らせながら微笑みかけていた。彼女には化粧気が全くなかったが、それでも病弱な人らしく唇だけは異様に紅かった。穏やかに年をとった写真の中で、そこだけが鮮明に輝きを放っていた。
「綺麗な人ですね」
「ああ」フェリックスは上の空で答える。「抱きしめたら折れそうなほど細い奴だった」
シエルは思わず、フェリックスみたいなのが力いっぱい女性を絞めたらすぐに砕けてしまうだろうと言いそうになった。舌の付け根まででかかったそれを慌ててのみ込む。
「ヴィクトールは全くお母様に似ていないんですね」
「生まれたときは彼女と同じ色の目をしていたんだ」フェリックスは振り向く。彼の眼は晩秋の空よりも暗く、底の見えない井戸よりも深かった。
シエルは急に心臓を掴まれた様になった。さっきの目を思い出したのだ。舞台の上のルクレツィアを射る様に見ていたあの目が・・・・・・
「だが年を経るにつれて私のと同じ色になった」
シエルは息もできなくなっていたが、フェリックスは目を逸らさなかった。シエルも逸らさなかった。逸らせなかったのだ。そのまま沈黙が随分と長い間漂った気がした。二人とも何も喋らなかった。ヴィクトールがシャワーを浴び終わってシエルを呼ぶまでは。

 所は変わって、大通りよりはいくらか人通りの少ない閑静な高級住宅街にて。街灯はなく、家々に灯る暖かな橙色の光だけが暗い空を飾っていて、下弦の月の心もとない灯りだけが石畳の道を照らしている。その石畳の上を、クラクスーとエミリアは静かに並んで歩いていた。ことあるごとに通り過ぎる車庫に入っているのは、ベンツやロールスロイス、ポルシェ、リンカーンなどブランド車が勢ぞろいだ。
「ヴィクトールって素敵な人ね」エミリアは快活に喋りまくっていた。
「男らしくって、好みだわ。見てるとどきどきするのよ。シエルって綺麗な人ね?女の私が傍にいて恥かしくなるくらいだわ。でもちょっとダルくて近寄りがたいんだぁ」
「だろうね」クラクスーが隣で苦笑する。
「なんかさ、シエルって人生に疲れてるって言うか、何ともいえないハムレットみたいな厭世観が付き纏ってるよね」
「どういう方なの?」エミリアが無邪気に聞いた。
「さぁ・・・・・・彼から小さいときの話はあんまり聞いたことがないな。ちょっと聞いた話によると、記憶が曖昧らしいんだ。時々思い出したみたいに悪夢を見るって、それだけ」
「何か謎の多い人なのね」エミリアは納得したように頷く。
「さぁ、着いたね」
二人は何を隠そうお隣さん同士だった。エミリアの家は赤レンガだったが、クラクスーの家は石の家だった。勿論中までそんなに古風なわけでは無い。ただ、この歴史ある町並みは残しておこうという人々の思惑が忠実に現れているだけだ。どうでもいいことだが、エミリアの家の車庫に泊まっているのはトヨタで、クラクスーの家のはロールスロイスだった。エミリアがロールスロイスはロール・スロイスではなくてロールス・ロイスだということを知ったのはひとえにお隣さんのおかげだったりもする。
「上がっていきなさいよ、折角だから」
「え、でもいいよ、おじいさまが心配するし・・・・・・」
「どうせ帰ったってご老体のお説教を聴くだけでしょう?それに、あなたが来るとヘンリーが喜ぶし」
「(どうして喜ぶんだろう?)うん・・・・・・じゃあ上がっていくよ」
クラクスーは渋々エミリアに連れられて、赤レンガ地上3階建ての家に上がりこんだ。
そこが広い家だということは随分前から知っていた。こんなに広い家なのに、住人は年配の家政婦が一人と、エミリア、そして年の離れた兄のヘンリー・カイザー卿しかいない。クラクスーの家のほうが大きいが、しかし執事と家政婦とクラクスーと祖父母を入れれば5人になる。カイザー家よりもずっと人が多いのだ。
「あらまあ、遅いお帰りで」
「すみませんカーラさん。友人の家に上がりこんでいたんです」
「言い訳は結構ですよ。それにしても随分ご無沙汰じゃあないですか、ル・ケラックさん?もっと度々きてくださらないと」
「ええ、今度から急かすわ、カーラ。ヘンリーに挨拶させていくわね」
エミリアがいかにも高貴な生まれらしい天真爛漫な傍若無人さを発揮して、客人を引き摺りながらカーラを後にした。
書斎までの廊下もクラクスーには歩きなれていた。隣の家の窓の明かりが深夜まで灯っているのも知っている。エミリアはそんな兄をよく「こうもり人間」とからかっている。
カイザー兄妹が隣に引っ越してきたのは随分前のことだ。クラクスーが祖父母のところに来たときにはもうそこにいた。エミリアはクラクスーよりも2つ年下だったが、幼い頃から大変ませた子供で、今でもクラクスーは彼女のそのとどまるところを知らないパワーに一目置いている。二人は両親を船舶事故で亡くしたので、イギリスからスウェーデンの片田舎に越してきたのだった。どうしてスウェーデンかは知らない。噂によればフランスに知り合いがいるらしい。ただ、高名な地理学者であるヘンリー・カイザー卿が、アイソスタシー隆起に非常に興味を持っていて、毎年ある時期になるとスカンジナビア半島を駆けずり回っているので、恐らく学問的好奇心からだろう。
「ヘンリー!クラクスーが来たのよ」
エミリアがノックを数回したあと返事もしないでドアを開くと、大きなメルカトル図法の地図に覆いかぶさりながら、発泡スチロールでできた立体のスカンジナビア半島の模型を睨みつつ色鉛筆で高度を塗り分けている20代後半の男が見えた。
「随分遅かったじゃないか」ヘンリー卿は眼鏡を取って目を擦る。
「誰が来たって?」
「クラクスーよ。紅茶を入れるわね?」
「僕にもくれ。ああ、君か、クラクスー!随分久しぶりだね、前に来たのは2ヶ月も前じゃなかったかい」
妹と同じ銀色の髪はさっぱりと短く切られていて、真ん中で綺麗に分かれている。首にかかっているまん丸の銀縁眼鏡を掛けると、まるで1世紀も前の銀行家みたいだ。アメリカ大陸の白地図と色鉛筆さえあれば1週間は寝ずに色塗りに没頭できるような典型的学者タイプだったが、実地の計測もやっている所為か、手が学者らしく全く荒れていないということはなかったし、日にもそこそこ焼けていた。それでも筋肉は付いていないし無駄に背が高くて、なんだかひょろ長い変人に見える。彼はクラクスーを見ると、これも妹と同じ緑の目を細めた。
「また背が伸びたんじゃ?」
「ええ・・・・・・半年で3インチ伸びたんで」
そりゃあすごい、とヘンリー卿は言って、ガチャガチャと机の上の地図を片付けだした。
「あの、お構いなく」
「いや、僕もそろそろ終わらせようと思っていたところだったのでね」
クラクスーが申し訳無さそうにすみませんといったところに、丁度エミリアが紅茶を淹れて部屋に戻ってきた。さすがイギリス人だ、ヘンリー卿は妹に紅茶の淹れ方を叩き込んだらしい。エミリアは料理は下手でも菓子作りと紅茶を淹れるのは巧いのだ。クラクスーはそれを経験から知っていた。
「文化祭はどうだったかな、エミリア?」
「ええ、とっても面白かったわ!クラクスーは劇に出てたんだけど、そりゃあうまかったわよ・・・・・・立派に間抜けに毒殺されてたわ」
「ひどいな」クラクスーが失笑した。
「この人のクラスはねぇ、美形ぞろいだったの。主役の二人が特にね。悪女役の人が凄く美人でね、その息子はもう見たとき心臓が止まるかと思ったのよ。クラクスーに二人を紹介してもらって、それで夕食をご一緒したから遅くなったの」
「何の劇をやったんだね?」
「ユゴー版の『ルクレツィア・ボルジア』です」クラクスーが即座に答えた。
「ユゴー版?ジェンナロがルクレツィアを刺し殺す方かね」
「そうよ」今度はエミリアが答える。
「君は何役だった、クラクスー?」
「ジェンナロの友人です。それと楽屋係」
「ああ、大学の講演がなければ見にいけたのに」ヘンリー卿は酷く悔しがった。
この講演とは勿論ヘンリー卿が論ずるものだった。
「おかわりはいかが、クラクスー?」
「いや、もう結構だよ、ありがとう。・・・・・・失礼ですが、ヘンリー兄さん、そろそろお暇しませんと。もうすぐ祖父母が床に入りますので」
「そうか、それは残念だ。・・・・・・クラクスー、もっとちょくちょく来てくださいよ。何しろ女所帯ですから君が来てくれると本当に嬉しくなる。さ、エミリア、クラクスーを玄関までお送りしなさい」
「分かったわ、ヘンリー」
クラクスーはヘンリー卿に一礼して退室した。――ヘンリー卿と話していると、クラクスーは随分おかしな気分になる。彼らが引っ越してきたときからの仲だが、その時からそうだった。具体的にどんな風におかしいのかは言いづらいが、そう、言うならばまるで服の中まで見られているような―――
「ね、またヴィクトールと会わせてよ。お願いね」エミリアがドアを開けながら言った。
「ああ・・・・・・うん。機会があったらね」
クラクスーはそう言って、隣の石の家に足を向けた。

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