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 心地良い眠りの奥底から目が醒めたのは、窓の外で小鳥が鳴いているのが聞こえたからだった。
久しぶりに熟睡した気がする。悪夢も何も見なかった。自分の上にある天井が見慣れないほど明るいのに気がついて、シエルはぼんやりと、ああ此処はラシード邸なのだなと思った。
首を横にかしげると、クリーム色のカーテンの向こうはまだ少し薄暗いようだった。シエルはもう一度寝られそうになかったので、仕方なく起き上がって室内履きに足を通す。ベッドは、シエルの常日頃の習慣だが、全く乱れていないのでわざわざ直す必要もなかった。
カーテンを開けると、淡い紫色の光がこの部屋に差し込んでくる。夢にラシード夫人は出てこなかったが、そのあまりにも柔らかな光に改めて「彼女」を感じた。
まずは着替えだ。シエルは昨日着た制服のシャツにまた腕を通す。面倒臭いのでネクタイはあえて締めなかった。いい加減寒くなってきたので、長袖のシャツの上に最近携帯しているベストを着る。階下では全く音がせず、どうやら自分がこの家の中で一番に起きたらしいということが分かった。
紫色の光が、赤くなり、橙を帯びて、黄色くなる。それは信じられないほどあっけなく速やかに済んでしまった。シエルがおきだしてから僅か30分のことだった。それでもまだラシード親子は目覚めないようだった。
シエルはただ呆然と円くて広い空を眺めていた。
劇は終わった。もう台本は綺麗さっぱり忘れていいのだ。さて、何をして暇を潰そうか?
シエルは所在なさげに鞄の中を探る。すると、ビニールの紐でまとめられた粗末な紙の束に触れた―――シエルは即座にそれが何なのか思い当たった。シエルはそれを引っ張り出すと、何処まで読んだか折ってあったのを思い出して、ぱらぱらと捲りだした。

 十月七日 金曜日
 とうさんはおとといかえってきて、おさけをのんでからまたかえってこなくなっちゃった。でもいいんだ。どうせいたってぼくかシェラスティをなぐったりけったりするんだから。
 かわりかどうかはしらないけど、かあさんがおとこのひとをつれてきた。そのおとこのひとはまるできんにくしかないみたいなひとで、まるでかべみたいにみえた。ひやけしていて、そばかすだらけのひとだ。
「なんだよ、あんたコヅレかよ」とおとこのひとがいうと、かあさんは「どうにかするわ」といった。ぼくにはコヅレのいみがわからない。
 かあさんはそのひとをしんしつにあんないすると、リビングにいたぼくらをキャビネットのしたにおしこんでしまって、いいというまでできちゃだめよといった。シェラスティはこんなにくらくてせまいところはいやだとなきじゃくったけれど、かあさんがピシャリとシェラスティのほっぺたをたたくとシェラスティはおびえるようにしてなきやんだ。ずいぶんそのおとが大きくて、シェラスティはそれからなんじかんもしておもいだしたように外にだされたときもまだほっぺたがあかかった。シェラスティはキャビネットの中でずぅっとすすりないていて、「こわいよう、こわいよう」といっていたので、お兄ちゃんがいるよ、こわくないよとぼくはいった。でもほんとうはぼくもこわかったんだ。かあさんはぼくたちのことをわすれてここから出してくれないんじゃないかって。
 しんしつのほうからかあさんがくるしそうなこえを上げているのがきこえた。体じゅうくすぐられているようなこえだ。ぼくはあのおとこのひとがかあさんをいじめてるんじゃないかと思ったけれど、もしそうじゃなかったときかあさんがどんなにおこるかがこわかったからぼくは出ていかなかった。ぼくはシェラスティにはそんなしんぱいをさせないように、ずーっとシェラスティのあたまをかかえて何もきこえないようにした。
しばらくすると、かあさんのそのおかしなこえが止んで、キャビネットの戸の向こうからまたあのおとこのひととかあさんのこえがした。
「またきてちょうだい。あんたキニイッタわ」
「もうこねぇよ」
ぼくにはあのひとたちがなんのはなしをしているのかわからなかったけれど、かあさんが「キニイッタ」ってことはどうやらいじめられてたわけじゃないみたいだ。かあさんはそのあとずいぶんきげんが良くて、シェラスティがアメをなめたいというときまえ良くぼくにもくれた。
それにしても、かあさんはなにをしてたんだろう?

 朝ダイニングに降りると、シエルが既にトーストにマーマレードを塗って待っていた。
「あはは、やっぱり先生のほうがヴィクトールより早いんですね。おはようございます。勝手にキッチン使ってごめんなさい」
シエルはそう言って小さなトーストが三枚のった皿をフェリックスに渡した。
朝起きたら朝食が既にできている、なんてことはもう何年もなかった。最後にそんなことがあったのはもう指折り数えて16年も前だ。妻がヴィクトールを妊娠したとき、産科に入院してからは結婚する前と同じように自分で朝食を作ったが、やっぱり寂しいものは寂しかった。あの頃はきっといつか家族三人で忙しい朝のテーブルを囲むことができるだろうと、左手でスプーンを持とうとする子供をたしなめたり、食べ散らかす子供に苦笑交じりで叱ったりする日が来るだろうという希望があったが、今は・・・・・・今はどうだろう?
「よく眠れたかね?何か夢は見たか?」
「ええ、おかげさまで久しぶりに良く寝ました。いつもは夢を見るんですが今日はそうでもなかったですよ」
コーヒーと紅茶、どっちがいいですか、とシエルが聞いたので、フェリックスはコーヒーに砂糖を3さじ入れてくれと答えた。
「3さじ?」シエルが素っ頓狂な声で聞き返す。
「ああ。悪いか?」フェリックスは少しだけ紅くなってしかめ面をする。
「いえいえ、とんでもない」
シエルはフェリックスのしかめ面に寒気を覚えたが、この教師にもこんな一面があったのだなぁと意外に思い、見えないように思わず口元を綻ばせた。
「ヴィクトールは5さじだ」
「えええぇ?!」ブラック無糖族のシエルには信じられない言葉だ。
あまりの驚愕に、シエルはすっかり日曜日のお父さんの服装をしているフェリックスにいくつも黒髪についている寝癖のことを注意するのをすっかり忘れてしまったくらいだ。
「普段はどんな夢を見るのかね?」
「そうですね、良い夢でないことだけは確かです。ひょっとしたら昔の記憶かもしれないんですけど、僕、ちょっと5歳までの記憶が曖昧で・・・・・・」
「悪い夢か?」
「はい、殴られる夢を見ます」シエルの言い方は至極簡素だった。
フェリックスはその言葉を聞いて、トーストを休み無く口に運んでいた手を止め、暫し言葉を失ってシエルを凝視した。
「誰に?」
「さぁ」シエルが肩を竦めてフェリックスにコーヒーを渡す。「その人の顔は直視したことがありませんから」
シエルはそう言ってフェリックスの前に腰掛けた。
「とにかく昨日はありがとうございました。食べ終わったらすぐお暇しますから」
「ゆっくりしていきなさい」フェリックスはようやく声を取り戻したようだ。
「お母様はどういう方かね?保護者会にも三者面談にもいらっしゃらないが」
「はあ・・・・・・忙しい身でして。父が亡くなってからは遺産が入って当分仕事をする必要もなくなりましたし・・・・・・寂しさを紛らわすためでしょうか、よく友達と旅行するみたいです」
「そうか」フェリックスはまたもや他にいう言葉をなくしてしまった。
元々寡黙なほうではあったが。
「コーヒーには何もいれないのかね?」
「ええ、母がそうさせたんです」
「私は昔から3さじ入れさせられた。うちの息子が何故5さじ要るのか分からん」
「それにしても、それだけ入れてよく太りませんね。お仕事大変なんですか、やっぱり」
「そうだな、うちの馬鹿息子みたいなのが沢山いるからな」
今度はシエルが言葉を失う番だった。
「い、良いお天気ですねえ」
「全くだ。どの道やることも無いのだが」
そう言って窓の外に目をやるフェリックスの横顔を見て、シエルは唐突に、こうやって大人の男の人と朝食を共にするのが初めてだということに気がついた。記憶の無い幼少時代にだってこんなことは無かったに違いないだろう。何故って、意識してみると今こうしてフェリックスと自分が向かい合って食事をしていることに随分違和感を覚えるからだ。
夕食時はそんなことは無かった。母親がよく「知り合い」と称した男性の下に夕食に連れていったから。
一体自分の知らないところで何をしていることやら。
「どうした?」
「いえ、何でもないんです」
シエルの貪るような視線に気がついたのか、フェリックスは窓の外から視線を外してシエルを見た。
「変な奴だな」フェリックスが不信げに眉を顰める。
「誰のこと?」
眠たげな声を出したのは、前触れもなくダイニングに下りてきた寝癖だらけのヴィクトールだった。

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