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 三人が朝食を終えた丁度その頃、ヘンリー卿とエミリアは遅い朝食を取り始めているところだった。無駄に広い食卓の上座に兄が座り、正式な集まりのときは長いテーブルの反対側に妹が座るのだが、それではあまりに寂しいのでエミリアは兄の隣に座っていた。
「何か面白いことある?」紅茶を飲みながらロンドン・タイムズを読んでいる兄に、エミリアが声をかける。
「特にない」
エミリアはヘンリーの気の無い答えにもめげない。ヘンリーはエミリアが小さいときから新聞を読んでいたし、エミリアはそれを毎度邪魔したが、いつも新聞に没頭していてろくろく叱りもしなかった。その所為でエミリアは今でも性懲りもなく邪魔をし続けている。
「あのね、あたしヴィクトールって人に一目惚れしちゃったかも」
「ほー、そうか」ヘンリーは眉一本動かさない。
「でもね、あんまりあたしの事は気にならないみたいよ。あの、ルクレツィア役の人と凄く仲がよくてね、その人は随分あたしに優しくしてくれたわ。素顔もあたしが引け目を感じる位綺麗な人だったのよ。ヘンリーにも見せてあげたかったくらい」
「その人の名前は?」不意にヘンリーが新聞から目を上げた。
「シエルよ。アシュリエール・ヴァラファール。何だか貴族みたいな名前でしょ?こっちの人にはちょっと珍しいわ」
「クラクスーとは仲がいいのか?」
「ええ、シエルさんはクラクスーに全幅の信頼を置いてると思うの。クラクスーもシエルさんと沢山冗談を言ってたわ。ヴィクトールとはちょっといい仲ってだけに見えたんだけどね」
「そうか」
エミリアはヘンリーが新聞から顔を上げたので内心驚いていたのだが、案の定彼はすぐにまた鼻を新聞に突っ込んだ。
エミリアはやることがなくなってしまったので、とりあえずいつも持ち歩いているレース編みを出す。モチーフを編んでいるのだが、これが中々どうしてうまかった。
唐突にヘンリーのデスクに乗っている電話が鳴る。ヘンリーは新聞に目をむけたままで電話に手を伸ばし、受話器をとった。
「はい、カイザーですが」
エミリアはどうせ仕事の相手だろうと思って編み物を続ける。だがどうやら違うようだ、ヘンリーの碧眼が大きく見開かれた。少し髪の毛が逆立つ。もしヘンリーに犬の耳があったら、今頃ピンと立ち上がっていることだろう。
「クラクスー?」
「あ、ヘンリー兄さん?」
確かにエミリアの耳にはクラクスーの声が聞こえた。
「昨日の今日でどうしたんだい?いや、いつ電話しようと困ることは無いんだが」
「朝早くからどうもすみません、エミリアに代わって頂けませんか?」
「ああ、分かった・・・・・・」ヘンリーはそう言ってエミリアに受話器を渡す。
ヘンリーは渋い顔をしてまた新聞紙に沈み込んだ。
「何、クラクスー?」
「エミリア?あのさ、たった今ちょっとシエルから電話があったんだけどさ」
「え?シエルさんから?」
「うん。それで今度の日曜日にデートしないかっていったんだけど」
「デート?シエルさんと?」
エミリアは自分がシエルと町を歩いている光景を思い浮かべる。シエルはそんなに背が高くないし、何しろエミリアよりも美人だから、女の子同士で歩いているように見えるかもしれない。
それでも構わないか。あの人は優しかった。
「ええ、良いって言っといて」
「ああ、良かった」
クラクスーはそう言って電話を切った。
振り返るとヘンリーが新聞の上から眼鏡を掛けた目を上げている。
「男はみんなケダモノだからな」彼は渋い声で言った。
「兄さんが言うことじゃないでしょ」
エミリアは笑いながら部屋を出て、来週のデートに何を着ていこうかなあなどと考えはじめた。
 その頃、クラクスーの家では、ル・ケラック家の若旦那が自室の電話でニコニコと笑いながら友人と喋っていた。
「うん、もう言ったよシエル、エミリアに今度の日曜日君とデートしてって」
「|〜=&%$#”!?!どういうこと?!?!」
「え?あれ、エミリアとデートしたいって言ってなかってっけ?」
「いつ僕がそんなこと言ったよ!」
「うーん、言ってたと思ってたんだけどなあ。でもいいよね?もう言っちゃったしさぁ、今更断れないでしょ?」
「・・・・・・クラクスー・・・・・・」
「うん?」
「天国や地獄が見れるとは思うなよ・・・・・・・・・」
受話器の向こうでシエルが全身から青緑色のオーラを発して毛を逆立てているのが分かる。クラクスーの首筋にも鳥肌が立ったが、自分は良いことをしたという確信があった。
そうだ、シエルは口に出して「エミリアとデートしたい」とはいってないが、昨日の身振りじゃそう言ったも同じじゃないか!
「じゃ、シエル、細かいことが決まったら教えてねv」
「クラクスーっ・・・・・・」
シエルの怒号が聞こえるか聞こえないかの寸前のところでクラクスーは受話器を置いた。
くすりという笑みがクラクスーの酷薄そうな唇から漏れる。それは自分が良い事をしたという快感から来た物ではなくて、いつの間にか自分がお隣の妹さんと同じように厄介なお節介焼きになっている、という事実に向けた苦笑いだった。

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