21

 今日も家で一人だった。母は今インドにいて、家はうら寂しく、電気がついているのはシエルの部屋だけだった。シエルがごろりと横になったベッドの隣で、カップボードの上のランプが傘の下から揺らめくような橙色の光を投げかけている。
今日も化学とフランス語と数学で山のような宿題が出たが、シエルの四肢は完璧に萎えていて、起き上がることもままならない。五臓六腑のほうもご無沙汰で、同じ体勢のままでもう3時間もいるのだが未だに一度も「ぐぅ」とは言わなかった。ただ頭だけはまだ元気だったので、シエルはずっと物思いに耽っていたのだ。
突然走り寄って来たエミリアを見て、思わず胸を弾ませた自分が馬鹿みたいだ。あんなに可愛らしい子が、自分の様な甲斐性無しの男に懸想することがあるわけない。
桜の花弁のような薄桃色の瞼の裏に、頬を上気させてはらはらと涙を流すエミリアを思い浮かべた。熱くて甘い香りのするキャラメル・マッキアートからついに湯気が立たなくなるまでエミリアは泣き続けた――おかげで喫茶店の中では酷く周りの目が痛かったのだが、エミリアはいいとこのお嬢様なのだから世間知らずなのは仕方がない。
あたしクラクスーと結婚させられるかもしれない、とエミリアは咽び泣いた。
「ええっ?なんだって?」
「昨日ヘンリーとル・ケラックさんが話してるのを聞いちゃったの。あたしとクラクスーを婚約させたいんだって」
 そりゃあシエルだって、突然好きな子に声をかけられてこんなことを聞かされたら目の玉が飛び出る。
まだ14歳の女の子が――婚約?一般市民のシエルには想像もできない事態だ。シエルは、そんなことは21世紀になった今、この北欧では何処でもありえないだろうと思っていた――シエル自身、そんな話はシェイクスピアの中でしか見たことがない。まさに「ロミオとジュリエット」の世界だった。
「そ、それは気の毒に・・・・・・」シエルは無意識にそんな味気ない言葉を吐いていた。
あまりに突然のことでいうべき言葉が見つからない。
「お願いがあるの。一生に一度のお願いよ。あたしとヴィクトールを逢引させて欲しいの」
「逢引?」シエルはまた無神経にも首をかしげた。
「ねえ、絶対叶わないってのは分かっているのよ・・・・・・でもね、少しの間だけでいいから一緒にいたいの」
思わずシエルは「ヴィクトールは君のことを何とも思ってないよ」という言葉を言いそうになって、喉まででかかったところを慌てて飲み込んだ。女に嘘をつかない男は心がない、と言ったのは一体誰だっただろうか。
それにしても思わずエミリアを恨みたくなる。この少女はシエルが「本気で」エミリアに恋をしていることに感づいていないらしい。
それでも思わず目の前の少女に同情してしまう自分の優柔不断さが厭になる。
「それを僕に・・・・・・この僕に頼むんだね」
「貴方以外に思い当たらなかったの」
シエルは俯くエミリアを前に苦虫を噛み潰したような顔をした。喉の奥の方から湧き出てくる不愉快な粘液を流し込むために、シエルは無糖のコーヒーに口をつける。流れ落ちるぬるい液体が、確実に胃を焼いているのをシエルは感じた。
長い沈黙が尾を引いてそのテーブルの周りに漂う。エミリアは惨めにしゃくりあげていて、シエルは遠い目をしながら窓の外を眺める。傍から見ると、まるで破局を迎えた親友同士に見える。目の肥えた人なら、男がらみだろうと見当をつけるに違いない。
シエルはもう一口コーヒーを飲んで、白いカップを空にした。そしてエミリアに一言、「分かった」と告げた。
エミリアが涙でぐしゃぐしゃになった翠の目を上げる。シエルはサファイアのような深い藍の瞳でそれを一瞥すると、苦い顔をして、さよならも言わずに席を立ち上がった。
伝票を持つ手に自然と力が入って、それは会計のときに酷く皺だらけになっていた。

 シエルは目を開ける。家に帰ってきてから何度も何度もこれと同じ瞑想を続けている。恐らく胃液だろうが、苦くて酸っぱい嫌な液がまだ喉の奥の方に溜まっていた。シエルは顔をしかめる。コーヒーはいつにも増してかなり胃にダメージを与えたらしい。彼は胃をかきむしるようにして体を曲げ、シーツをしわくちゃにした。
失恋か・・・・・・。
胃が軋むキリキリという音が聞こえる。
外を見るともう真っ暗闇だ。そんなに時間がたっていることに気がつかなかった。シエルはおもむろに起き上がって、水を飲もうと台所に向う。
あの嫌な粘液が重力にしたがって胃に戻る。
シエルは冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターのペットボトルを開けて、口をつけて飲んだ。
冷たくてキレイな水が忌々しい液を流し落とす。仄かに甘いその水は、急にシエルの唇の端から漏れて細い軌跡を首に残した。
その筋は夜気にあたってひんやりして、シエルの後ろ髪を少し逆立たせた。
シエルはそれを拭う。目が覚めて、体の端々まで活力がめぐる。
さて、気力が戻ったのでフランス語の宿題だけでも片付けようか。
そう思ってまたペットボトルを冷蔵庫にしまうと、思いがけずリビングの電話が鳴るのが聞こえた。
シエルはそれにでようと少し早足に台所を出る。黒い受話器を手にとって、はい、ヴァラファールですと言うと、受話器の向こうから知らない声が聞こえた。
「アシュリエール・ヴァラファールさんのお宅でしょうか?」
「はい?」
「夜分遅くすみません。ヘンリー・カイザーという者ですが」
シエルは思わず目を見開いた。

>20
>22
>go to tenshinouso top

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送