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 何が悲しくて16の青少年がこんないい天気の冬の日に教室に引きこもっていなくてはならないのだろう――シエルはそう慟哭する。
氷柱のついた窓の外を呆然と見ていると、上から大きな手が降ってきて、シエルの首を真っ直ぐ数学の問題の方に向け直した。
「80番が終わるまでは返さないからな!」ラシード先生の鋭い声が教室の中に響いた。
悲しいかな、もうそこにはシエルしかいなかったのだが。
 事のなれ初めは恐怖の定期テストだった。
いつもどおり数学ではろくな点数を取らなかったのだが、今回はついに自己最低記録を更新してしまった。
やってないんじゃない。できないんだ!
もちろん今日の補習には他の仲間もいたにはいたのだが、皆適当に問題を解いて出て行ってしまった――大方の連中は、テストが解けないのではなくて、テストを捨てただけだったのだ。一人、二人と消えてゆき、ついに数学の補習教室にはシエル以外誰もいなくなってしまった。
というわけで、今シエルとフェリックスはマンツーマンレッスンになってしまったのだ。
「先生・・・・・・」
「何だ?」
「どうしてルートの中身にまたルートが2つも重なってるんでしょう・・・・・・?」
フェリックスが「授業でやっただろうが!」と怒鳴りながら丸めたテキストでスパコーンとシエルの脳天をぶったたいた。これでまた貴重な脳細胞が幾万個か減った。
「一番小さなルートの外に2を作るんだ。それで二乗の方程式に直して――違う、2をくっつけろとはいっていない、作るんだ!」
シエルは半分泣きそうになりながら今書いた式をそっくり消しゴムで消した。消しカスがまた机の上に山を作る。
きょうのHRの時間、窓の外を見たら校門の所にエミリアが立っていた。シエルがそこにヴィクトールを送った。少しでも二人に話し合う時間が出来ればいいと思ったからだ。
カイザー家の、あんなに変な学者のいるところの婿になんてなりたくもなかった。
今頃は二人で親交を深めている頃か、いいなあ・・・・・・
「集中しろ」フェリックスのテキストがクリーンヒットした。
別のことを考えていたのがわかったのだろうか。
「――やればできるじゃないか。そうするとその中身がまた二乗の方程式になるだろう?」
やった!
初めて数学で褒められた。
思わずぱっと笑顔を輝かせてフェリックスの方を見上げる。
「集中しろ!」案の定怒号が飛んだ。
シエルは身を竦ませながら76番の代数の証明にq.e.d.を書き付けた。あとたったの4問だ。それまで20問近く悩み続けていたのだからそのくらいすぐに決まっている。
空は既にトルコ桔梗色に染まっていて、家に帰る頃には満天の星空になっているだろう。家に帰っても誰もいない――電気一つついていない。そんなのはもう慣れた、と思っても、どうしても心のどこかで寂しいと思ってしまう――らしくないことだ。
「今日も帰ったら一人なのか?」
「ええ。――何故ですか?」
シエルのグラフを書く手が止まった。
沈黙。
「母親のことを恨んだことは無いのか?」
フェリックスの顔は複雑な表情だ。シエルはつい――つい何もかも話してしまおうと思った。母親が家に帰ると夜な夜な繰り広げられる痴態のことも、時々見る何処か既視感漂う殴られる夢のことも、どうしようもなく生への情熱が引いていってしまう時があることも、そしてヘンリー卿の衝撃の告白のことも、全部この人に吐き出してしまいたくなった。
何故だろう、フェリックスの顔は無愛想で、性格もお世辞にも温厚とはいえないのに、どこかしら縋りつきたくなるようなところがある。彼の亡妻もそんなところに惹かれたのだろうか。いずれにせよ、この親にして息子ありだ。
「ありません」シエルはキッパリと答えた。
「憎んだことも恨んだこともありません。そのかわり、血のつながりとか、肉親の絆とか、親子の愛とか、そういう確かなものもないんです。あの人に対して何か感じることなんてほとんどなくて」
シエルの声には抑揚がなかった。フェリックスの黒い視線はシエルの額をぶすぶすと貫いていったが、しかしそれが不愉快だとは思わなかった。
もっと聞いて欲しい。聞いてくれれば自分から話さなくて済むのに。
「そうか」
フェリックスが言ったのはそれだけだった。
シエルは見えないように下唇の内側を噛む。口の中に広がったのは鉄の味で、後悔の香りがした。
 「よし、終わりだ。――疲れただろう?次からは勉強するのをもうあと1週間早くしろよ」
「はい!」
シエルはようやっと終わった補習の道具を掻き込むようにして鞄に突っ込んだ。その様を見てフェリックスの顔に苦笑いが浮かぶ。
「そんなに嬉しいか」
「もちろん!」
「そうか。・・・・・・帰っても一人ならまたうちに来たらどうだ?ヴィクトールが喜ぶし、夕飯の食材が無駄にならない」
「え、でもご馳走になるのは悪いし、また女物のパジャマを着るのはちょっと」
「似合ってたじゃないか」
「えっ」
「冗談だ。家に私のTシャツとズボンがある。それで充分だろう」
「先生の?」
「嫌か?」
「いえいえ、とんでもない」
シエルの口から思わずでまかせがでる。実際とんでもなかった。補習のあと教師に夕食に呼ばれるとは思っていなかったからだ。
「じゃあ、きまりだな」
フェリックスはそう言って、一方的に「10分後校門前」と残していってしまった。
シエルに拒否する間は一瞬もなかった。
 ラシード家は明るかった。
ここがうちとは違うところだ、とシエルは嘆息する。どうせ母親はあと一ヶ月は帰ってこないだろう。今日はたまたま人にお呼ばれしただけなんだ。
「ヴィクトールが帰ってきているな」フェリックスが呟いた。
「夕食の手伝いしますよ。今日の献立は何ですか?」
「ラザニアだな。棚に残り物も有り余っているし」
フェリックスがシエルのコートをハンガーにかける。こんな風にしてあんな息子が育ったのかと思うと、自然と頬がほころびた。
「なんだ?」
「なんでもないです」
つい数ヶ月前までは自分はこの教師が大嫌いだったはずだ。たまたまヴィクトールと知り合いになったおかげだろうか、それとも数学がからきし駄目な所為だろうか、今はこの無愛想な男に随分親近感を感じる。
たぶん父親がいたらこんな感じなのだろうと思う。
もし父親がいたら、シエルはチェスを教えてもらいたかった。チェスは本を読んで覚えたけれど、もしまともな父親がいたら、その無駄な知識が教養として身についただろう。
他にもやって欲しいことが沢山ある。博物館に一緒にいって欲しかった。クリスマスの朝に小さな自分を高く肩車してくれる父親が欲しかった。数学を教えてくれる父親が欲しかった。時々がみがみ怒鳴るような父親が欲しかった。
(やめよう、こんな無意味なことを考えるのは)
多分ヴィクトールはそういう父親をもっているんだろう。そう思うとシエルはなんとも言えない嫉妬と羨望と、そして憧憬の念に駆られた。
完璧な子供がいるとしたらそれはヴィクトールだろうか。
片親しかいなくても両親分の愛情を受け取って、きちんとした青春時代を送って、きちんとした女の子に好かれる。そんな人が将来良い大人になるんじゃないだろうか。
シエルは奥歯を噛み締めた。
「料理はお母さんが教えてくれたのかね?」
「いいえ」シエルは馬鹿な事を聞くなとでも言うように片眉を上げる。
「6つのとき、母が出掛けに一言「夕食作っといて」って言ったんですよ。だからゆで卵を3つも4つも作ったら、酷く怒られて、料理の本を沢山買ってもらいました。読めもしないのに必死で写真の真似事をして・・・・・・そんな風に料理は覚えました」
「そうか・・・・・・」
フェリックスは小麦粉やら何やらを鍋の中に入れてとろとろにとかしている。シエルは赤タマネギの皮を剥いて微塵切りにした。初めてやったときはこの皮を剥き忘れて、口の中に沢山カスが溜まったものだ。
「ヴィクトールは夕食の準備は手伝わないんですか?」
「大体な。私が一人でやることが多い」
「え、じゃあ帰ってきてからあの人は何をしているんですか?」
「宿題だろう」
シエルが型の中にチーズを敷き詰めると、うえからフェリックスがソースをカーテンのように垂らした。
「悪いな。いつも手伝ってもらって」
「ちょっと数学のお点が甘くなりませんか?」
「ならん」
フェリックスらしいはっきりとした答えにシエルは微笑した。
「すみません、少しヴィクトールと話したいことがあるんです。ちょっと、いいですか?」
「かまわん」
フェリックスの答えは芳しくない響きを持っていたが、シエルはフェリックスにオーブンを任せてキッチンを出た。ヴィクトールの部屋は何処だろうか。多分2階だろう。この家は迷うほど広くは無い。
エミリアとの事の顛末がどうしても聞きたかった。
とりあえず片っ端からノックしてみる。長い廊下に沿ってドアが4枚。二人しか住んでない家としては立派な方だろう。
「ヴィクトール?」
初めの扉では返事はなかった。空けてみるとそこはトイレだった。
「ヴィクトール?」
次の扉も返事はなかった。開けてみようとするが、鍵がかかっている。
「ヴィクトール?」
「・・・・・・うん?」
三枚目にしてやっと返事が返ってきて、シエルはドアを開けた。
「シエル?来てたのか」
ヴィクトールは靴を履いたままベッドの上に仰向けにねっころがっていた。普段からは考えられないほど奇妙に青白くて、性格の全然似てないように見える親子と言う印象が脆くも崩れる。
「ああ、数学の補習の後にね」
「親父も一緒か?」
シエルは無言で頷いて、勝手に傍にあったソファに腰掛ける。ヴィクトールは起き上がろうともせず、そのまま寝返りを打ってシエルのほうを向いた。
「何の用?」
「わかってるんだろ」
シエルの睨みにヴィクトールは気だるげに頬杖をつく。黒曜石のような瞳が陽炎のように宙を舞うのは、なんだかシエルには少し狂人じみて見えた。
「――エミリアとはいい時間が過ごせた?」
「さあ・・・・・・」
「さあ、だって?」シエルの片眉が跳ね上がる。
「いや、良い時間とはいえなかった」
「何だって?」
「俺はあんたには興味は無いって、初めに言ったんだ。でも向こうは無理して俺を連れまわしたから・・・・・・」
ヴィクトールはそういいながらまた仰向けに転がる。
ヴィクトールのそんな呆けた態度に――いや、そもそもがエミリアにした仕打ちにシエルは一瞬全身の感覚を失ったが、すぐに激しい怒りがこみ上げてきた。怒り、そう、怒りだ・・・・・・それまで「虚無」が占めていたシエルの中の砂漠から、突如として蜃気楼が消えて激しい砂嵐が現れたようだった。
「ヴィクトール!君はなんて事を!」
「ほんとのことを言っただけだ。無理して気を遣いたくなかったし、下手な希望も持たせなくなかった」
「馬鹿!あの子の気持ちも考えろよ、人でなし!!」
シエルは顔を真っ赤にして口角泡を飛ばす――
「そうだな」
返事が返ってくる。しかしそれはシエルの背後からだった。
「女性に嘘をつかない男は心無いぞ。それと、夕食の準備ができた」
シエルが振り返る。
そこにはドア枠に寄りかかる、ミトンをはめたフェリックスが立っていた。

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