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 暗い。いや、まだ手元が見えるくらいだから、薄暗いというのだろうか。頭がずきずきしてよく物が考えられない。
此処は何処?
手の蒼白い指先には微かな暁の夕日が放つ光が映りこんでいた。照らし出される指は酷く汚くて、爪はぼろぼろになり、さかむけにかさぶたができて、爪は紫色だった。これは本当に自分の手なのだろうか?
シエルがこぼれ落ちる珠のような汗を拭って眼を開くと、黄ばんだ唐草模様が見えた。
――――家の絨毯だ。
またあの夢・・・・・・?
息ができない。
シエルは咄嗟に頭を上げた。そこには「彼女」がいた。
『何見てんのよ!』
バシッ、と言う音と共に伝わるやけにリアルな鈍痛がシエルの頭痛を増させ、ついでに気絶しようにもできないような生殺しの状態に陥らせた。
これは夢だ・・・・・・
『畜生!畜生!あんたってやつぁほんとに悪魔みたいなガキだね!』
もう一度鈍い音がして、シエルの首を打つ。今度は一瞬視界が白んで、また絨毯の上に戻ってきた。
本当に夢なの?やけにリアルすぎやしない?
『あんた要らないんだよ!存在価値無いね!生まなきゃ良かったよ!』
「そんなこといわないで・・・・・・」
シエルの頬に、気持ち悪い生汗ではなくて涙が伝った。
「悪魔じゃない・・・・・・違うんだ、違・・・・・・」
激しい平手打ちがシエルの背を襲う。あまりにも生々しい痛みに、自分が本当に小さな頃に戻ってしまったのでは無いかと錯覚する。
錯覚?
君はまだ小さいじゃないか・・・・・・大きくなったときの夢でも見てたのかい?
「やめて!やだ!母さん!!お願い、やめて!」
「おい!!」
「いやだ!痛っ・・・・・・」
「大丈夫か?!」
誰かがシエルの襟首をぐいっと引っ張った。
うつ伏せになってこもっていた空気に浸かっていた顔が、急にひんやりとした空気にさらされた。妙にその空気が冷たくて、自分の顔が生汗と涙でじっとりと濡れているのだと悟った。
ゆっくりと目を開くと、そこには見慣れたヴィクトールの顔がある。
遠くのほうにはラシード氏、つまり数学教師の顔が見える。このときばかりは席替えで窓側の一番後ろ、隅っこの席になれたことを喜ばなければならない。シエルは浅い息を繰り返しながら、汗とも涙ともつかない体液を拭った。
あぁ、夢でよかった。
これが現実の世界なんだ。
シエルは深呼吸を三回、ゆっくりと繰り返す。
「大丈夫か?」
「うん」
「授業中寝ててしかもうなされてるなんて・・・・・・居眠り下手くそだな」
「しょっちゅうだよ」シエルは弱々しく笑った。
「去年なんて叫んじゃったんだ」
「悪い夢でも見たのか?マグロに食われる夢とか?」
「何でマグロなの」
「食いたくなった」
「欠食児童め!」
「こら、そこ!!お喋りするな!」フェリックスの強烈な叱咤が飛んだ。
ヴィクトールとシエルは慌てて勉強していますと言う姿勢にはいる。宿題を増やされないといいなぁ、なんてことを思っていると、フェリックス氏の口からは意外な言葉が飛んできた。
「顔色が悪いぞ、ヴァラファール」
「大丈夫です、先生」
「寝るんだったら保健室で寝ろ」
「もう大丈夫ですって」
「ル・ケラック、ヴァラファールを保健室に連れてってやってくれ」
「はい」
シエルの前に座っていた、眼鏡にガリガリの青年が席を立った。ガリガリといってももう少年では無い。シエルに腕を貸そうとして不意に長い袖から見えた手は骨ばっていて、もう大人のそれになっていた。
「いいよ、クラクスー。ほんとに大丈夫なんだ」
「気にしないで」頬のこけそうな青年が言った。
「実を言うとちょっとさぼりたい気分だった」
この青年、実は相当の曲者である。それこそ鎖骨が浮き出そうなほどやせていたし、流行にのっとっていない大きなめがねとしっかりと切りそろえられている茶色い髪の毛のせいでひどく勤勉なように見られたが、本当はいつもテストで赤点を取りっぱなしの不良青年で、髪の毛は本当は綺麗なプラチナブロンドだったのに女みたいだといって染めてしまったのだった。
ル・ケラックは化物みたいにパソコンに通じている。あれはもうジャンキーの域を通り越して、モンスターだ。リヴァイアサンだ。システムの設定を好き勝手変えていろいろなものを取り込んでいるかと思うと、次の瞬間にはパソコンがトランシーバーへと変貌を遂げていたりする。確かに男性の中にはル・ケラックみたいなのがうじゃうじゃいるのは知っているが、少なくともシエルの知り合いの中ではそういう人種はル・ケラックただ一人だった。
しかもこの男、これだけ電子機器に関しては辣腕の癖に将来の夢はヘアー・アーティストなのだといけしゃあしゃあと言ってのけるから、進路指導の教師は彼の扱いにはなはだ困っているのである。
「悪い夢でも見たの?」
「ラシードと同じ事を聞くね」
「あいつとは腐れ縁なんだ。かれこれ幼稚園のときからお付き合いが続いてる」
「かわいそうに!」
「そう来るか」ル・ケラックはからからと笑った。
シエルがいくら人見知りをする性格だからといって、目にする人々皆が嫌いと言うわけでは無い。彼はル・ケラックが好きだった。シエルはル・ケラックは素晴らしい人だと思っていたのだ。ル・ケラックは少しふざけ過ぎの気があっても、やっぱり根は真面目だったし、とても思いやり深いところがあった。シエルは小さな頃からそういうものに飢えていたから、ル・ケラックはそういう意味では「大人」に見えたのだ。シエルの周りには思慮深い大人がいなかった。彼は環境に恵まれない少年だったのである。
こう言うとまるでル・ケラックが見掛け倒しの青年に思われるかもしれないが、実は彼は頭がいいのだ。とても要領が良くて、人も良い。大胆で豪快だ。つまるところ、これでちょっと「変」でなければもっと人気者になれたと思うのだが。
「眠りが浅いんだ」
「どうして?」
「嫌な夢を見るんだ。リアルでさ、感触とかもびりびり伝わってくるような」
「サイコだね」
「うん。・・・・・・その夢を見ない方法はたった一つだけで、眠らないことなんだ。だったら我慢すべきかな、とも思ったんだけど・・・・・・夢を見ても眠りが浅くてさ。疲れが取れないんだ。生まれてこの方違う夢を見たことがない」
「映画の世界だ」ル・ケラックは深刻そうに言った。
「睡眠薬を飲んだらどうかな」
「何度も試したよ。起きられないだけに辛かった」
「ワォ」それはもう救いようがないね、とクラクスーは言う。
保健室が見えてきた。保健室は好きじゃない。授業中寝ていられるというのは魅力的だが、先生がいやみたらしくて、こいつの世話にならないために健康でいようと思わせるほどだった。この場合は、彼は「いい教師」と言うのだろうか?だが、今はそんなことは言ってられないくらい気分が悪い。
「大丈夫?また顔色が悪くなってきたよ」
「気持ち悪い」
「此処で吐いたら駄目だ!耐えろ、耐えるんだ!」
クラクスーが妙に張り切って拳を握って言うものだから、シエルは思わず噴出してしまった。
「やっと笑った」ル・ケラックが叫んだ。
「そっちの方が可愛いよ!」
「可愛くなくて結構だよ」シエルが弱々しく言った。
 クラクスー・ル・ケラックはシエルをお姫様抱っこでベッドに乗っけたものだから、保健医は絶句して、さっさとシエルと彼を引き離そうと奮闘した。クラクスーはそれに対抗するようにシエルに話し掛け続けたが、始業のベルがなって彼も堪忍して教室に掛けていった。保健医は鼻息を鳴らして、シエルのベッドの周りに衝立を持ってきてくれた。
(文化祭の話を聞きたかったなぁ・・・・・・)
そんなことを思っているうちに、シエルは眠りの奈落へと落ちていった。
 目覚めるとそこは宮殿のように輝いていた。
・・・・・・と言うのは嘘だ。気分は晴れやかだった。珍しく脳みそが熟睡してくれたので、悪夢を見なくてすんだ。こんなことは半年に2回か3回くらいのことだ。そんなわけで、シエルには天井の、白地に沢山茶色い穴のあいた壁紙が輝いて見えただけだった。
「起きたか」
「うわっ!」
そこに立っていたのは、なんとヴィクトールの父親フェリックス氏だった。まさかシエルも、彼がそこにいるとは思っていなかったのだ。
「ウワッとは何だ、ウワッとは。私は教師だぞ」
「ら、ラシード先生、どうしてここに?」
「授業中に居眠りをこいていた奴に罰として余分な宿題を・・・・・・」
「ワーッ、ワーッ、ワーッ!もういいですって!勘弁してくださいよ!」
「喚くな、煩い奴だな!・・・・・・心配しなくてもそこまで残忍じゃない。ゆっくり眠れたか?」
「おかげさまでぐっすりです。久しぶりでした」
「久しぶり?」
「不眠症なんですよね」シエルは気まずそうに頭をかいた。
「顔色が良くなったな」
「どうも」シエルは軽く頭を下げる。
「で、どうしてここに?」
「自分の授業中に体調の悪くなった生徒を見舞うのは義務だ。それから、君の担任の先生から、HRの結果報告を頼まれた」
「なんです?」
「劇だそうだ」
シエルは心の中でにんまりと笑った。―――劇、だったらひょっとしたら巻き込まれないですむかもしれない。
「何をやるんですか?」
「ルクレツィア・ボルジア・ユゴー版」
「?!?!」シエルが絶句した。
「何でそんなにマイナーなのを?」
「そろそろネタが切れてきた、とのことだ」
「・・・・・・」シエルはもう手も足も言葉も出なかった。
「それで、ルクレツィア役は君だそうだ」
「ハァ?!?!」シエルは思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「僕が?あんな役を?無理です!」
「顔で選ばれたみたいだが」ラシードはきっぱりと言い切った。
なんて運が悪いんだ!
シエルは物も言えずにただ穴が開く程ラシードを見つめることしかできなかった。何が悲しくてシエルが息子に殺される不貞の女などを演じなくてはならないのだろう?シエルは何か悪いことでもしただろうか?シエルは生まれて幾度目かに自分の顔立ちを呪う。
「楽しみだな」
ラシードが不気味な笑みを漏らした。
シエルはそれを見て息がつまったようになった。背筋が寒くなって、貧血になるのは時間の問題だった。
 その日は結局何故かラシードが車で家まで送ってくれた。こんな極度の寝不足の状態で歩いてなんて帰らせられない、道端に倒れられたら大事だという。そんなことを心配するのなら自分の代わりに劇に出てください、とシエルは言いたかったが、あの不気味な笑み以来彼はクッキーの一欠けほども笑わなかったので、シエルは機会がつかめなかった。しかしもし言ったとしても、冗談を言うなという一言で一蹴されてしまったことだろう。
家に帰ったら母親は泊りがけで外出していた。シエルはそんなことは知らなかったけれど、自分で適当にサラダを作って晩に食べた。16歳といえば、ほとんどの青年たちが花の欠食児童時代を送っているときに、シエルは三食そんなもので済ますなんてことがザラだったのである。
何はともあれ、どうやらシエルはとんでもないことに巻き込まれてしまったようだった。

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