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 翌朝少し遅くに学校に出てくると、教室にいた同級生全員がシエルの登校に盛大な拍手をした。
「我らが貴婦人、ルクレツィア・ヴァラファールだ」
「止せよ。誰もやりたくなかったから押し付けたんだろ」シエルが不機嫌そうに呟く。
「鋭い!」一人が笑いながらそういった。
「お前、ヴィクトールの母親になるんだぜ」
「は?」シエルが絶句する。
「俺、ジェンナロなんだ」ヴィクトールはほんのり赤くなって頭をかきながら言った。
「何でそこで赤くなるんだよ!僕を刺し殺す役じゃないか!」
「大丈夫だよ、シエル、俺何でも屋だから君がこいつに襲われない様に守ってあげる」いつの間にかシエルの背後にいたル・ケラックがそういった。
「そんなこと言うくらいだったら役代われ」
「だからさ、俺何でも屋なんだって」クラクスーがにこっと笑った。
「ルクレツィアの召使とジェンナロの友人とついでに役者の身づくろい責任者もやってるんだ」
「押し付けられた?」
「身づくろい責任者は立候補さ」
「クラクスーはヘアー・アーティスト志望だもんな」同級生のひとりが鼻で溜息をつきながら言った。
さて、そろそろこの劇のあらすじのことを説明した方がよろしいかと思う。話の筋は簡単だが、男子校の学生が文化祭でやるには少し難しい話だ。何分多少倫理面で危ないところがあるし、校長がうんと言わないだろう。
この戯曲がどんなものであるかと言うと、それにはまずイタリアルネサンスを代表する一家、ボルジア家を紹介せねばならないだろう。
ボルジア家というのは、あのカトリック教会の最も腐敗した時代に最も腐敗した治世を作り出した法王、アレッサンドロ6世を作り出した名門である。僧侶の癖に乱交パーティーなどを開いていたアレッサンドロ6世は有名だが、愛人との間に生まれたのがルクレツィア・ボルジアだ。金髪の美人だったといわれているが、この上には二人の兄がいて、その名もチェーザレとフアンである。チェーザレはイタリア全土を征服しようとして、後一歩のところで病に犯され失敗してしまう。だが有能で、また恐ろしい人物であったことは、マキアヴェッリの「君主論」からも見受けられる。侵略劇の中で弟であるガンディア公のフアンを暗殺したことも有名だが、これが政治上の理由であったのかそれとも妹を独占していたことへの嫉妬なのかは定かでは無い。それに、実際のところフアンをチェーザレが殺したというのも単なる噂に過ぎないのである。
血なまぐさい家庭の中で、ルクレツィアとチェーザレ、あるいはルクレツィアとフアンの間に肉体関係があったということもまことしやかに語り継がれてきた。二人とも血の繋がった実の兄妹である。ある種の変態たちには受けの良さそうな設定だが(皆揃いも揃って美男美女だったし)、当時はこれは非難に値する行為であった。いや、当時でなくともそれは忌むべき行為である。古代エジプト人は兄妹婚が主流であったが、神の天罰であろう、血縁関係者同士でもうけた子供は何らかの病をもっていることが多いので知られている。戯曲「ルクレツィア・ボルジア」は、ユゴーがそんなルクレツィアを母親として書いた作品である。
ボルジア家はイタリアの都市国家を次々と侵略していったせいで、酷く恐れられていた。チェーザレが彼女を3度も政略結婚させたおかげでルクレツィアは「毒婦」だの「淫婦」だのと酷い呼ばれ方をしていたが、ある宴に出ていた若者ジェンナロも、そんなルクレツィアを毛嫌いしていた一人だった。ある日彼はルクレツィアの生家を手ひどく侮辱したために、ルクレツィアの夫アルフォンソに毒殺されそうになるが、ルクレツィアの咄嗟の機転によりジェンナロは助かる。後にジェンナロはルクレツィアに呼ばれるが、友人と共に行き、毒を盛られてしまう。ジェンナロはいつも名を記さぬ母から貰う手紙に、ボルジア家のものから苛められていると書かれているのを思い出してかルクレツィアを刺し殺す。ルクレツィアは死に際に、「私はあなたの母親なのよ!」と叫ぶ。オペラではルクレツィアは殺されないが、ユゴーの原作ではルクレツィアは死んでしまう。死ぬ寸前のルクレツィアは命乞いをするが、これは演じるものによって解釈が違うのだろう。興奮するジェンナロに必死で殺してはいけないという姿は、ただ愛しい兄との息子の腕に抱かれた女の虚しい生命への執着のようにも、母として息子に母親殺しの罪を被せまいと必死になっているようにも見える。事実を知るのはユゴーだけだろう。彼自身よく分かっていなかった可能性すらある。
こんな暗い話だが、本当に校長の許しが降りたのだろうか?
「提出は『白雪姫』さ」クラクスーがにやっとしながら言った。
「そっちだと配役はどうなってるの」
「勿論お前がスノウ・ホワイト」ヴィクトールがすかさず言った。
「因みにそっちだと、王子様はクラクスーになってるんだ」
「継母がヴィクトール」
クラス中が一気に爆笑した。
「皆やりたくないからって・・・・・・・」
「だって僕文化祭企画委員なんだもん」
「俺照明」
「舞台ー」
「クラス委員だしね」
「衣装補佐です」
「プログラム作成」
「宣伝が・・・・・・」
「そういうわけだから、たまには人付き合いとしてやってくれよ、ヴァラファール」
「客席は10人必要だし」
「・・・・・・ま、まさか講堂でやるつもり?」
「大当たり」舞台係だといった青年がにっこり笑いながらそういった。
講堂というのは、シエルたちの通う学校の施設では体育館の次に大きく、人数としては200人ほど軽く入る。一クラスのみの出し物としては充分だ。十分なんてものでは無い、少し余分がすぎるくらいだ。本当に白雪姫で客が集まるのだろうか?そもそもどうやったら高々クラスの出し物で講堂使用許可が下りるのかが分からない。
「さすがクラクスー・ル・ケラック、大銀行家の息子」
「お役に立てて光栄ですわ」
・・・・・・そういうことか。シエルはこめかみを押さえた。
「練習は今日の放課後からだよ」
「えっ」
「此処でとりあえず台本読みだよな」
「げ、原作使うの?!」
「あたりき」今度は照明係が答える番だった。
「頑張れよ主役」
「そんなぁ」
シエルは生唾を飲んで本当に嫌そうな顔をしたが、その場にいる誰も取り合ってくれそうに無かった。
 「ヘタクソ!」
「うるさい!」
「シエルを見習えよ!」
「む、無理だ、シエルを貶すなんて・・・・・・!」
「冗談だろ・・・・・・」
クラクスーはこめかみに青筋を立てて台本を握りつぶしている。この台本は、国語の大得意である貴重なクラスメイトが縮めてくれたオリジナルバージョンだ。おかげで無駄なシーンも無駄な言葉もない。だが、その短い劇の中でどれだけルクレツィア・ボルジアの悲壮感を出せるか分からないというのが難点である。
「オイ、シエル、この馬鹿に演劇のコツを教えてやってくれよ」
「僕にできるわけ無いだろ、クラクスー」
「俺にもできない」
「当たり前だ。俺にだって無理だよ」
先ほどからこっ酷くこき下ろされている張本人のヴィクトールがそういった。
「クラクスーはうまいよな」
「俳優になれるだろ」クラクスーがニヤニヤしながら言った。
「でもシエルは当たり役だよ。本当にさ」
「顔だろ」
「いや、何か雰囲気が」
「ルクレツィアと雰囲気が似てるって言われてもあんまり嬉しくないな」
「そりゃもっともだな」ヴィクトールが頷く。
シエルは台本を見る。ドニゼッティのオペラ版「ルクレツィア・ボルジア」では死ぬのはルクレツィアではなくてジェンナロだが、この作品の原作であるユゴーの戯曲で死ぬのはルクレツィアとなっている。自分で息子に毒を盛ったのを知らずにいたのかはいまいちつかめないが、彼女はジェンナロの友人を毒殺したことで彼の怒りを買い、刺し殺されてしまう。血なまぐさい劇を締めくくる劇的な言葉は、ジェンナロがルクレツィアをぐっさり刺した後に言う
「私はあなたの母親なのよ!」
という一言だ。
皆随分張り切っていた。教師の鼻先三寸のところで、しかも一般公開の文化祭でこんな無礼講をやるのだから楽しいに違いない。クラクスーは台本を持つ手の反対の手にカツラのカタログを持って、それらを交互に楽しそうに眺めていた。
「そういえばさ」シエルが思い出したように呟いた。
「ラシード先生、僕達の劇がルクレツィア・ボルジアだって知ってたよ」
「えええええぇぇ?!?!?!」クラクスーが叫んだ。
「そんな馬鹿な!ヴィクトール、お前まさかっ・・・・・・」
「チクるわけないだろ!あいつの情報網は蜘蛛の巣よりも綿密なんだ。俺の知ったことじゃない!」
「どうする?校長にばれるかな?」
「その心配は無いぜ」ヴィクトールがどんよりしながら言った。
「あいつ、校長は嫌いなんだ」
「でもラシード先生は生活主任だ!」
「駄目だったら弱みを握るさ」ヴィクトールが言う。
「それでも駄目なら、毎日親父殿にマッサージしてやってもいい」
「あの欠食児童に乗られたりしたら潰れちゃうよ」シエルがクラクスーにボソッと言った。
クラクスーは失笑した。
「ばれちまったもんはしょうがないさ」
「やるっきゃないよ」
シエルは結束の固い彼らを目の当たりして、どうも自分はいやがおうでも文化祭で女装しなければならないらしい、とぼんやりと思った。
文化祭まで後3週間だ。
何もかもうまく行くといいのだが。

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