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 その日は家に母親がいた。彼女はシエルが帰ってきても「お帰りなさい」の一言すら言わなかった。いつものことだ。別にそう珍しいことでも無い。
「母さん?」
「・・・・・・ん?あら、シエル、いたの」
「あのさ、来週の週末文化祭だから」
「そうだったの!」母親はさも吃驚したような顔をする。
「ごめんなさい、あたしその日は用事があっていけないわ」
「来なくて良いよ。むしろそっちの方がいい」シエルは急き込んでいった。
実はこないでくれと頼もうと思っていたのだ。母がもし、長い金髪のカツラをかぶってルネサンス風のごてごてした服を身に着けた自分を見たら、一体どうやってその先生きていけるだろう、と授業中も大好きな休み時間の間も延々悩んだほどだった。
「随分といっちょ前に物を言うようになったじゃないの」母が含み笑いをした。
女は好きじゃない。というよりは、苦手だ。母は策略をめぐらせるのが好きで情の強い、恐ろしい女の典型的なタイプだったので、多分シエルが女嫌いなのはそれが原因なのだろう。おかげさまでシエルは、道を歩いている女子高生たちが通りすがりざまに残していく爽やかな石鹸の香りにも、ほの白く紅の入れられた顔にも、綺麗に手入れされた髪にも全く魅力を感じなかった。それどころか興味も湧かなかったのだ。
若い健全な青少年にしては少し異常だろうか?
多少異常でも構わない。興味のない物には興味がないのだ。
「今度の文化祭は何やるの?」
「劇だって」
「ふぅん。あたしの知ってる奴?」
「白雪姫」
「あらそう。何か役は当った?」
「さぁ・・・・・・」
「当ててあげるわよ。白雪姫でしょ」
「どうして?」
「だってあたし、あなたのこと凄く綺麗に生んだんだもの」
シエルは母親の図々しさに呆れてものもいえなくなった。
本当にこの女が自分を虐待していたなんてことがあったのだろうか?
「母さん」
「何?」
「・・・・・・文化祭来なくていいから」
「行かないもの。いけないんだから」
「その日は何かあるの?」
「お友達とお出かけよ。一週間トルコに行ってるわ」
「そう」
母親は普段から外出が多い。昔からのことかもしれないし、最近からのことかもしれない。いまいち記憶は定かでないのだ。今から考えてみると不思議だが、母親はいつの間にか外出が多くなっていた。ともかく母親が出かければ、この家はシエルのものだ。シエルは此処で好き勝手に過ごすことができる。これぞまさに若者の真の楽園といえるものだ。
「シエル」
「何?」
「今日は・・・・・・その・・・・・・いいわ。荷造りをする必要があるの」
「そう」シエルは淡白に言った。「構わないよ」
母親は苦笑いを荒れた肌の疲れた顔に浮かべる。
「ちょっとくらい寂しがってくれるとかわいいのに」
「疲れてるんだ。もう部屋に行くよ。晩御飯は?」
「作っといたわよ。好きな時間に食べなさい」
「分かった」
シエルはコートと鞄を持って階段を上がっていった。
 部屋にはいると、随分と久しぶりに見るようなシングルのベッドがぽつんとおいてあった。シーツには皺1つよっていない。枕には髪の毛一本残っていない。それはシエルが綺麗好きだからではなくて、もう一ヶ月近く此処では眠っていなかったからだ。シエルが試しにシーツの上を人差し指で撫でると、薄っすらと白い埃がシエルの綺麗な指先に膜をはっていた。シエルは思わず苦笑してしまう。毎日毎日、こんな生活をしていてよくもつものだ。
勉強机は比較的使っているほうだと思う。木の机の上にプラスチックのシートがひかれていて、上に消しゴムのカスが大量に散らばっていた。此処ではシエルは色々な仕事をする。宿題も自習も予定表作りも内職も皆此処でやるのだ。この机はこの家に移り住んだ当初からあったのだから、シエルはこの机に奇妙な愛着をもっていた。
シエルの部屋は決して広くない。この家の中では何処の部屋も同じだ。この部屋にあるものといえば、コートをかけるフックと、クローゼットと、机と、ベッドと、後は小さな窓が1つくらいのもので、その他には本当に何もなかった。シエルが掃除をするのは滅多にないことだが、それでも偶に窓拭きぐらいはやることがある。なんとなく窓は綺麗にしておきたい、という意識があるからだ。窓に埃がかぶっていれば外の景色は霞んで見えるが、綺麗であればダイレクトに景色が伝わってくる。ガラスだけは上質で、きれいにした直後などほとんど窓ガラスなどないような美しい景色が見えるのだ。
何も間におかずに生で景色を見るよりも、よくよく磨かれた窓から本物じみた景色を眺める方がずっと美しいと感じることは度々ある。もし窓など磨いている暇があれば、皆さんもやってみるのが宜しかろう。
シエルは母親が趣味でこの窓にレースのカーテンをかけるのを承知しなかった。
シエルは荷物を置いて制服のネクタイを緩めると、その小さな窓から外を眺めた。外に見えるのは隣にある坂道だ。あまりにも急な坂道で、しかも他に大きくて緩やかな道が周りにいくつか通っているものだから、この坂道は随分と昔から閑散としていた。シエルは坂道に誰もいないのを見て、ふと景色ではなくガラスを見た。
透明な窓ガラスにシエルの顔が映りこんでいる。
青白い顔の中でやけに目立つ秀でた額の下に、男にしては妙に大きいような真っ青な目が二つ、それから低いが通った鼻と形のいい口が一つずつ。頬の輪郭は滑らかに耳へと流れ、険しい眉間にブロンドの髪がはらりと落ちる。シエルはそれらを一通り眺めて、溜息を一つついた。
何時見ても小学生の男の子みたいな顔をしている。
シエルが14になってからは、成長による身体の変化はあまり目立たなくなった。勿論印象は大分変わっただろうが、顔形は全体としては変わっていない。いつまでたってもシエルの顔は女の子のように見えた。何処まで待っても、周りにいる友人のように、たくましい肩にはならなかった。
自分の時間は止まってしまったのだろうか?と、時々不安になることがある。
育ち盛りの年齢なのに、自分は全然男の様には見えない。周りの教師や友人が持ってるみたいな、骨太でがっしりした手首とは程遠いシエルの細くて白い手首が袖から覗く。手は白魚の骨みたいだったし、胸板も腰も女子供と大して変わらないくらい薄かった。
本当に、いつまでたっても少年のままのようだった。
早く大きくなりたい、男らしくなりたい、と切羽詰って思いつめることはしょっちゅうある。大きくなって別に何をするというわけではなかったが、女みたいに見えるせいで馬鹿にされるのが嫌だった。女は嫌いだ。自分が女みたいだなんて考えられない。
僕の所為じゃないんだ。シエルはぼそりと不機嫌そうに呟く。
何時からだろうか、シエルの日常を占めるのは雑念ではなくて虚無になった。あれだけ奇妙な友人がいるにもかかわらず、あれというのは勿論ヴィクトールやクラクスーのことだが、自分がいつの間にか観客になっている事に気づくことがある。病的なまでの遅さでシエルをゆっくりと、しかし確実に蝕む虚無は、足の指先から始まって、今は鳩尾の辺りまで来ている。漠然とした理由も掴み所もない砂粒のような哀しさと虚しさが、何も考えずに無感情で非人間的な状態になるあの「無」が、シエルが認識できないほど穏やかに、そして恐ろしいほどの確実さを持ってシエルを侵蝕していく。
 イギリスの海岸や、勿論そこに限るわけでは無いが、そういう砂地の中には、慣れた者でも近寄らないある一帯があるという。そこでは恐ろしい殺人が起こるのだ。誰も責めることのできない、大自然の犯す恐ろしい殺人が。
殺人は全て恐ろしいものだし、大自然が時々正気に帰ったかのように自分を責め苛む人間に逆襲することはそれほど珍しいことでは無い。例えば大地震や、ハリケーンや、もっと身近なものなら山火事などがそうだ。しかし、この砂地で起こる殺人は、考えるだけで口に出さずとも身の毛のよだつような恐ろしい効果をもたらす。
例えばある新参の漁師がこの砂地を歩いていたとする。波打ち際と砂浜の間の、狭くて長い道をおもむろに歩いていたとする。周りには誰もいない。暁の日は仕事の終わりであるのだから暮れかけている。波は静かに寄せてゆき、音もなく引いてゆく。足元は砂であるせいか覚束ない。漁師はその日の仕事が無事に終わったことをほんの少しだけ喜び、いつものように船を入り江につけ、いつものように家族に会いに行くのだ。そう、粗末な蝋燭を燭台に立てて固いパンと薄いスープと共に待っている家族の元へ。
暫くすると漁師は、自分の長靴がくるぶしの辺りまで砂浜に埋もれているのを見つける。漁師は足を引き抜こうとして力を入れるが、そうすると不思議なことにどんどん自分が砂の中に沈んでいく。あれよあれよというまに砂は膝の辺りまで来る。こうなるともう砂の悪魔からは逃げ出すことができない。どれだけもがいても、この漁師はもうその魔手から逃れることができなくなるのだ。
周りには誰もいない。助けを呼んでも誰も来ない、何故なら大抵の村人はそこに砂の悪魔が住んでいることを知っているからだ。わざわざ危険なものに近付かなくてすむように、彼らはそこを遠巻きにするのだ。砂は幾万もの小さな細かい指で漁師を絡め取る。悲痛な叫びを上げるが返事は空気の唸りだけである。その内漁師は砂が鳩尾まで来ていて自分はもう方向転換すらできないということに気がつく。漁師はいつの間にか自分の肘辺りのところで海水が満ち引きしていることを認識する。辺りに響くのは波の音だけだ。だんだん日が沈むにつれて暗くなっていく。静寂。波と一緒に満ち引きするのは死に対する恐怖だ。
漁師は最後の足掻きとして腕を立てて身を引き抜こうとするが、弱く見える砂は意外と頑強でびくともしない。それどころか立てた腕までずぼりと言う音をたてて砂に喰われて行く。あがけばあがくほど生きていられる時間は短くなるが、それだけ恐怖の時間も短くなる。漁師はもう漁師ではなくなり、男ではなくなり、人間ではなくなり、一匹の獣となる。獣は最後の一瞬まで助かろうともがく。砂は容赦なく彼の身体にざらついた舌をいやらしく這わせ、最後にはごっくりと呑み込むのだ。初めに獣の口が砂に埋められて息ができなくなり、次に鼻の奥まで砂が細菌か寄生虫のように流れ込み、最後に砂が耳の穴を貪って波の音すら聞こえなくなる。胸が苦しくなり、聞こえていたはずの波の音はいつの間にかズーズーというような空気が無理矢理行き来する音に変わる。
後は獣が、地上で見る最後の景色である薄暗い星空を眺めているときに、目が砂を吸い、獣は砂に吸い込まれるだけだ。
残るのは静寂である。決して漁師の追憶などでは無い。獣は砂の悪魔に食い尽くされ、生きたまま埋められ、息ができなくなって窒息死する。これで獣は、いや、漁師は誰にも知られずに消滅してしまったというわけだ。信じられないほどの苦痛の中、咳き込もうとしてもできず、呼吸をするための酸素もなく、ふらふらしてくる頭の中で最後に聞くのは生命の焔が砂の悪魔の一吹きで消える音である。決して家族の声などでは無い、なぜなら彼は既に漁師では無いからだ!並外れた恐怖と苦痛は人間をもっと下等な物に至らしめてしまうのである。漁師だった人間は獣としてその生涯を終えることとなるのだ。
これが流砂という現象である。
シエルの抱え持つこの、孤独とか虚無とか言われている一種の闇は、この流砂にほんの少し似ている。気がついたときにはもう抜け出すことができない。砂の地獄の出口は本物の地獄だけだ。既に活きた世界には戻っていけないのである。だんだん活力が奪われてゆき、最後には窒息死する。よくて衰弱死だろう。
シエルはガラス玉のような目で同じ素材でできた窓ガラスを眺める。映り込むのはシエルの時間の止まってしまったような姿だ。何処もかしこも、故意に作ったように綺麗な形をしていて、人形みたいに成長しなかった。砂が漁師の息を止めてしまうように、虚無がシエルの成長を止めてしまったのだ。
外はもう暗かった。
それでもシエルは飽きずに自分を眺めていた。

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