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 丁度シエルが窓を眺めていた頃、ラシード家でも父子そろって家の外を眺めているところだった。二人は男が作った不味い夕食を摂って、夕食前と同じようにそれぞれの部屋へと早々に引っ込むのだ。そんな味気のない家族生活がもう10年近くも続いていたが、それでも一向にこの家が崩壊しないのは、きっと二人がそれぞれに家の外で生き甲斐を持っているからだといえるだろう。だから家族生活というものにそれほど重点を置かなくても二人とも不自由しなかった。それに、大声ではいえないが、この二人にも人並みの臆病さがあったのである。下手な真似をして、それまでずっと暖めてきていた眼をそらしてしまいたい程に中途半端な家庭を叩き壊すよりは、黙りこくって相手の目を見ないことの方が、面倒にはならなかったし勇気も要らなかった。
「ヴィクトール」
「何だよ」
「劇に出るそうだな」
「ああ、押し付けられた」
「ヴァラファールが女役だそうだな」
「妥当だろ」
「面倒に巻き込まれないように」
「シエルは面倒は持ってないよ」
「本当ならやめて欲しいくらいだ。目立たないのが一番いい」
「もう16なんだぜ。ちょっと黙ってみててくれよ」
ヴィクトールは父親の向かいの席で、至極つまらなさそうにシチューの皿をつつく。勿論それはベテランのやもめ男である父親の作ったものだったが、ヴィクトールの少しばかり旺盛すぎる食欲のせいで、フェリックスは毎回5人前作らなければならなかった。
先ほどの会話は全て無表情の上で語られた。いや、無表情というよりは、ぶすっとした顔、というべきだろうか?フェリックスは完璧なポーカーフェイスを保っていたが、ヴィクトールは家の中のものに対しては何にでも不満そうにしていた。とにかく彼は反抗期だったのだ。
父親はそれでも不平一つ漏らしたことがない。
よくよく考えてみれば大したものだ。ヴィクトールの母親は彼を生んですぐに死んでしまったのだから、フェリックスはヴィクトールがおむつをはいていた頃から男手一つで息子を育てていたことになる。逆算すると、ヴィクトールが生まれたのは丁度フェリックスが28才のときだ。結婚して7年目にやっともうけた息子は、生まれ出てくる代わりに母の心臓を突き破ってしまった。子宝の代償は妻であった。
フェリックスは妻を亡くした時、涙を流すことはしなかった。奥歯が緩くなるほど噛み締め、掌に血が滲むほど拳を握り締め、圧迫されて白くなった唇は塩辛い味がしたが、それでもフェリックスは泣かなかった。強い男は泣かないのだと、それだけをまるで幼子のように心の中で繰り返して、熱い涙が頬へとこぼれ落ちようとするのを必死で堪えていたからだ。この無味乾燥なように見える男がこんなに感情を露にするのは、弔問客から見ると少し奇妙だった。それでもフェリックスは目的を達成した。彼は泣かなかった!フェリックスはまだ彼の靴の重さにもならないような子供を腕にしたままで、何時までも笑い続ける妻の遺影をじっと見詰めた。眼をそらす事をしなかったのだ。妻の死を受け止めた。フェリックスが此処まで踏ん張ったのも、踏ん張れたのも、亡き妻が生前に強い男として生きてといったからだ。陣痛の酷いであろう出産の寸前にそういった彼女は、恐らく自分の儚い命を知っていたのだろう。
妻が死んでからたっぷり5年間は、浮いた噂は一つもなかった。少なからず放っておかれないような容姿ではあったが、子連れであった所為か女性たちは見向きもしなかった。しかしフェリックスにしても、それはそれでありがたかったのでは無いかと思う。きっと妻の形見の息子が育つ様だけを生きる頼りにして、その時期は暮らしていたのだろう。生きるのに必死だったのだ。
フェリックスにとって、たった一人きりの身内であるヴィクトールだけが生活をする上でのあどけない灯火だった。彼にとってはこの何時消えてもおかしくないほど弱々しく燃え続ける灯火だけで充分だった。フェリックスは道を踏み外さなかった。いつもこの息子のためだけに生きていた。縋り、支え、養いあう二人はいい親子だったといえる。まるでファンティーヌが盲目に娘のコゼットを愛したように、そしてジャン・ヴァルジャンがまたコゼットを愛したように、そしてクロード・フロローが弟をまるで自分の子のように可愛がったように、フェリックスは持てる父性愛の全てを息子に注いだ。息子のためを思って厳しく叱咤もしたし、度々注意することもあったが、それでもフェリックスのヴィクトールに対する素晴らしい愛は尽きることがなかった。フェリックスの愛は父性愛であり母性愛であり兄弟愛であった。彼一人のおかげで、ヴィクトールは一家庭丸ごと分の愛情を受けることができたのである。
フェリックスにとっては教育というのは聖なる職務であった。未来を担うべき若者にふさわしい知識を詰め込み、また正しい道へと導くのは神聖な仕事だと思っていた。ヴィクトールは妻の面影はまるで残さず、驚くほどにフェリックスと似ていたが、それでもフェリックスは嫌がらずに誠意を込めて息子を育てた。あぁ、それがどうしてこういうことになってしまったのだろう?フェリックスは厳しすぎただろうか?それも真心ゆえだったのに?
ヴィクトールは父親を憎む青年になってしまった。
確かにフェリックスは味気のない人間かもしれない。憎まれても仕方のないほど無愛想だったかもしれない。顔もよくなければ性格もよくない。しかし親子揃って人を魅せずにはいられない様な雰囲気を持っていたことに、ヴィクトールは気づいただろうか?
俗人から無駄というものをを全て削ぎ落とせばフェリックスになった。無駄では無いものは全てヴィクトールへの愛だったのに、どうしてフェリックスはヴィクトールに憎まれることになったのだろう?この世の中にはフェリックスほどに合理的な人間はいないだろうが、同時にまた彼ほどに妻子を愛する男もいないだろう。
行き場のない愛情をフェリックスは抱え続けなければならなかった。もう何時噴出してもおかしくないだけの愛を、彼は溜め込み続けた。妻がいなくなってから他の女性を娶ろうなんてことは考えもしなかった、彼にとってそれは妻に対する侮辱であり自分を堕落さしめる罪悪だった。
「親父」
「何だ?」
「シエルは母親しかいないんだ」
「知っている」
「・・・・・・似てるよな」
「あぁ」フェリックスは苦々しげに頷いた。「・・・・・・そうだろう」
フェリックスのその一言で会話は終わった。二人ともお互いを無視しているようで最大限の神経をすり減らしていた。静かなのに何処となくそわそわしていて、フェリックスは自分が特に嫌いでもないようなにんじんを子供のように小突き回していることに暫く気づかなかった。シエルの話題で、二人の胃袋はどうやら椅子の下に落ちてしまったようだった。食欲は失せてしまい、もうクリームシチューなんて見たくもなくなっていた。
これがラシード家の日常である。夕食後になると、もう彼らは顔をあわせもしないし喋りもしない。味気のない家族だった。必要なものならば全てあるはずなのに、何かが足りない家庭だった。何が足りなかったのだろうか?母親であろうか?それは違う。確かに母親がいれば今よりは少しマシな家庭になっていただろうが、彼らに決定的に欠けているもの、それはもっと別のものだ。
二人とも真面目に話すのは夕食の間の30分にも満たないような時間で、それ以外で顔をあわせることはほとんどなかった。
近頃は家族同士で喋ることの少ない家庭が多くなってきたように思える。一つの社会現象であろうが、なんとも哀しいことだ。家族というのは、その人に与えられた唯一の絶対的地位になりうるものなのに。それを失くした人間は一緒に自分の一部ももぎ取られていってしまうのだ。これはきっと後々同じようなことを幾度も話すことだろう。
哀れな男たちだ。・・・・・・親を失った子供も哀しいが、子供を失った親はもっと苦しいのだと、彼らに教えてくれるのは一体誰なのだろうか。

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