「あぁ、お願いですジェンナロ、お願いだからこの薬を飲んでちょうだい」
「それが毒では無いと何処の誰が言えるのだ!さっきのワインはただのワインで、それが毒だったとしても、俺には何の文句も言えやしない!」
「嘘じゃないわ・・・・・・嘘じゃないのよ、お願いだから飲んで!」
「さっきからいちいちうるさいお方だ!消えてくれ!」
「ねぇジェンナロ、何でも言うことを聞くわ、だからお願い飲んで。死んでしまうわ!」
「騙されるものか!」
「ジェンナロ!」

 「・・・・・・はいカットー」
シエルとヴィクトールは、台本を投げ捨ててどっさりと腰掛け、大きく深呼吸をつくような仕草でぜぇぜぇと息をした。2人ともどうやら相当の体力を消費したようだ。……それもそうだろう、普段毛嫌いしている相手の命を助けようと必死になる「女」の演技をするのも、普段超がつくほど好いている相手を張り飛ばす演技をするのも相当な神経を磨り減らすだろうからだ。明らかにお互いに不利な配役だったけれども、だからといって今から全てを変更するには少々難しい時期だった。
そんな二人に一瞥すらくれず、クラクスーは丸めた台本のわっかに顎を乗っけて溜息をつく。
「ねぇ二人ともさ、もうちょっと心を込めて演技できない?」
「やだよ」真っ先に答えたのはシエルだった。
「こいつが勝手に毒殺されるんだったら、ほっとくに決まってるだろ?」
「酷いやつだな!」
ヴィクトールが酷く傷付いたような顔を作ってシエルに縋りつく。シエルはそれを冷たく(うざったそうに)振り払った。
クラクスーはそれを苦笑交じりに眺め、至極もっともな事を言う。
「うーん、それじゃあヴィクトールがルクレツィアになる?」
「キモーい」シエルが柄にも合わず奇妙なだみ声を発した。
シエルは普段そういう言葉は使わないが、いくらなんでもクラクスーの言うことはおかしいということを切実に表すのには一番適切な言葉のような気もする。
「キモい言うなや」
「でもさ、ヴィクトールが女装なんかしたらラシード先生が女装したみたいに見えるんだよねぇ」
「気持ち悪いこというなよ、クラクスー!!」シエルは珍しく絶叫した。
「イギリス人とフランス人とアラブ人が混ざったみたいな顔して、あの仏頂面でブロンドのカツラなんてありえないよ!そんなもの見るくらいだったらそれこそヴィクトールの靴を舐める方がマシだ!」
「シエル・・・・・・」ヴィクトールが絶句する。繊細な青少年は傷付いたのだろうか?
「だってそうだろ?クラクスーだってそう思うだろ?」
「シエル、後ろ・・・・・・」今度は珍しくあのクラクスーも絶句していた。
シエルは憮然としたままではあったがとりあえず言われるがままに後ろを振り返った。そこにいたのは何とドッペルゲンガー!・・・・・・・ではなくて、黒いベルトと黒いズボンに巻き込まれたしみ一つない真っ白なワイシャツだった。
ワイシャツがそこに立っている。
違う。そこにワイシャツを着た男が立っている。
・・・・・・誰?
「随分と酷い言われようだな」
「・・・・・・あ゛」
噂をすれば何とやら。そこに立っていたのは紛れもなくフェリックス・ラシード氏その人であった。堅物の生活主任はこめかみに何本も青筋を立て、今にも血潮が頭頂部から噴火しそうなほどにガタガタ震えながらにっこり笑っている。シエルの顔からはザーッと血の気が引いた。噴火数秒前だ。激しい火山岩出の噴出は免れられまい。
しかしこれ以上数学の成績を引かれたらたまらない!
「劇の練習はどんな具合にいっているのかと見に来たら・・・・・・」
「いえいえ、先生、ものすっごくうまく行ってますよ」クラクスーがにっこり笑いながら言った(しかし手には僅かに生汗が滲んでいる)。
「ヴィクトールもシエルも実に演技派でして・・・・・・」
「ええ、ええ」シエルは真摯な様子で慌てて頷いた。
クラクスーはヴィクトールにも何か言うように小突いたが、このジェンナロ役の青年は微動だにしなかった。クラクスーもシエルもヴィクトールを横目に見たが、彼らが見たのは焦ったような顔ではなかった――――
ヴィクトールは父親をギラギラと睨みつけていた。
ヴィクトールの漆黒の眼は異様な光を発しながらフェリックスの目を射抜いていた。フェリックスはどこか物悲しげな睫毛の影を頬に落としたまま、静かな目で息子のことを見つめていた。
シエルは生唾を飲んだ。クラクスーは無意識に手をシエルの膝の上に置いた。それはシエルに対する無言の制圧だった。
嫌な沈黙だった。一体どういうわけなのかは分からないが、ちょっとした冗談は何故か父子の不和を浮き彫りにしてしまったようだった。・・・・・・シエルはかなりの罪悪感と逃避願望に腸がよじれた。
「・・・・・・ほっといてくれっつっただろ」
「ああ覚えている」
ヴィクトールの乱暴な言葉に、あの厳しくて有名な数学教師は抗いもせず頷いた。
「出てけよ」
「・・・・・・」
「出てけってば」
「ヴィクトール」
「出てけッつってんだろ、親父!!!!」
ヴィクトールの顔がサッと赤くなったが、フェリックスの方が数枚上手だった。フェリックスは顔を歪めたが、それは眉根が悲痛そうに上がっただけだった。
「ヴィクトール、もうよせよ」クラクスーがヴィクトールの肩に手を掛けた。
ヴィクトールは反抗して振り払おうとする。
が、クラクスーの手はがっちりとヴィクトールを掴んでいた。
フェリックスは何も言わずに踵を返し、足早に教室の扉へと向っていった。誰もそれを止められなかった。ヴィクトールは歯軋りをしていたし、クラクスーは手が離せなかった、それにシエルは呆然として立ち尽くしていたからだ。フェリックスの黒い前髪だけが靡いたが、それ以外は全くその場に残りたいという素振りは見せなかった。しかしフェリックスの後姿はいつもの厳しい生活主任のものではなかった。
それは一人の父親の背中だった。
シエルはただただ彼の後姿を見送ることしかできなかったが、フェリックスが叩きつけるように扉を閉めた直後に、クラクスーがシエルを見つめているのが分かった。
「行ってやれ」クラクスーはウンザリしたというようにいった。
「こいつは俺がどうにかするから」
ヴィクトールはまだいらついているようだった。この様子ではこれ以上劇の稽古はつけられそうになかった。
シエルはフェリックスを見失うことのないよう、慌てて教室を駆け出した。

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